テーマ:懐かしい昔の話(548)
カテゴリ:昭和恋々
■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<1>学童疎開の息子が欲しがったもの■
■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<2>:庭に防空壕■ ■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後:空襲・7.9■ ■終戦後の暮らし■ 親類の人がやっと、中三国が丘二丁(三国高校の横)の二階を貸して下さる人を見つけてくれました。 二階に初めて、親子五人そろい寝たときは、お殿様の気がして有難かったです。 疎開地の解散で二男が帰り、その後、主人も帰って、親子七人二階で暮らしました。 家族七人揃い、有難く嬉しい日々でした。 預かってもらっていた荷物の中のおしめで、三男のおしめには不自由せずに助かりました。 壕の中の道具類、床下の瀬戸物等、焼け残った物はとても役に立ちました。 知り合いの人からもらった食べ物などは、とても役にたちました。 食料も足りませんでしたが、焼ける前に埋めてあったお米を焼け跡から掘り出してきました。 缶詰の配給をお金に替えたりしました。 大根葉をきざみ、雑炊に混ぜて食べさせました。 焼け出された者と、焼け残った者との差のために子どもたちがひがまないように心をくだきました。 階下の人(子ども二人いる女の人)から 「戦災に会いながらタンスがある。荷物が多い。」 「すぐ家を出ていけ」と何度も言われ、家探しもしましたが見つかりませんでした。 近所の方から、空の木箱をもらい、食器入れにしたり、蓋をしてお膳にしたりしました。 家の床下に埋めた食器は、空襲の熱で変形したり、すぐ割れたりしましたが、とても役立ちました。 焼け残った人々の家の中には、 「空き缶や空き瓶などは自由にお使い下さい。」という貼り紙のしてある家があり助けられました。 主人の同僚の方々より食料を度々いただき助かりました。 三男はいつもおんぶされていたので、気がついたら、這わずにすぐ歩き出しました。 階下の人が再婚し、一軒全部自分たちの家族で使用できた時は嬉しかったです。 配給で、缶詰、砂糖、パン粉、いも粉、サツマイモ、ジャガイモ、野菜もありました。 育ち盛りの子ども五人の食料は、足りませんでした。 朝一番の電車で買出しに和歌山県・橋本まで行き、一里(4キロ)の道のりを往復し、堺東まで帰り、また橋本へと一日二往復したこともありました。 大阪府・河内長野市の三日市まで、堺東から、おからを買いに行ったこともありました。 親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。 書いたのは、この家の主婦、晶子。 以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、少し手を加えている。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日 被災場所:堺市戎町・全焼 ★家族★ ★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員 ☆妻: 晶子 34歳:(記録) ☆長女: 信子 15歳:女学校4年 ★長男・ 良一 12歳中学1年 ★二男: 清二 9歳国民学校4年 ☆二女: 洋子 5歳 ★三男: 謙三 生後50日(以上、仮名) にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.07.19 00:02:12
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