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大阪中之島美術館で 「民藝 美は暮らしのなかにある」を見てきた。 民藝運動とは手仕事によって生み出された日常づかいの雑器に美を見出そうとする運動。 「民藝」とは「民衆的工藝」の略語で、柳宗悦らによる造語。 この運動の始まった1926年(大正15年)には、柳宗悦、富本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司などきら星のごとく現れた人々によって全国に広がった。 展覧会で見て、帰ってから改めて調べると、柳宗悦の偉大さに改めて驚く。 1916年(大正5年)以降、たびたび朝鮮半島を赴き、朝鮮の古仏像や陶磁器などの工芸品に魅了された。 1919年(大正8年)3月1日に朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対し、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。 当時ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。 1920年6月『改造』に「朝鮮の友に贈る書」を発表、総督政治の不正を詫びた。 ●本土よりも低く見られていた沖縄に行っても、その工芸品の見事さに驚き、自分たちが行くことによってその作風に影響を及ぼしてはいけないと配慮した。 ●─ 柳宗悦によるライフスタイル提案 1941(昭和16)年、柳宗悦は自身が設立した日本民藝館(東京・目黒)で「生活展」を展開。 民藝の品々で室内を装飾し、いまでいうテーブルコーディネートを展示しました。 暮らしのなかで民藝を活かす手法を提示した、モデルルームのような展示は当時珍しく、画期的でした。 今では、モデルルームは当たり前にあるが、当時は画期的なことだった。 なにかの本で読んだが、実際の柳宗悦の家には、美しいものしか置いてなかったそうだ。 ●最初に民藝的ものに美を見つけたのは、茶人だったと柳はいう。 大名の大名物といわれるものも、昔はただの器だったということだ。 私は、ハタと気が付いた。 千利休が水指に使ったのは、井戸の普通の釣瓶(木製)だったし、 花入れは、漁師の魚籠だった。 もっといえば、茶室なども、質素。 どれもこれも柳のいう、「用の美」だ。 ●他にも、民芸館に集めたものについてのエピソードが楽しかった。 ●柳が亡くなった時、鈴木大拙がよんだ弔辞。 独創の見に富んでいた。 それはこの民藝館の形の上でのみ見るべきでない。 日本は大なる東洋的「美の法門」の開拓者を失った。 これは日本だけの損失でない、実に世界的なものがある。 まだまだ生きていて、大成されることを期待したのであったが、世の中は、そう思うようには行かぬ。 大きな思想家、大きな愛で包まれている人、このような人格は、普通に死んだといっても、実は死んでいないと、自分はいつも今日のような場合に感ずるのである。 不生不死ということは、寞寞寂寂ということではない。 無限の創造力がそこに潜在し、現成しつつあるとの義である。 これを忘れてはならぬ。 これは逝けるものを弔うの言葉でなくて、実は参会の方々と共に自分を励ます言葉である。」 鈴木大拙、「柳君を憶ふ」『民藝』2013年10月号(再掲) ▲自在鉤、これ、会場にあった!! ■柳宗悦■ ■バーナード・リーチ 日本絵日記■ ▲イギリス人のリーチが書いたもので柳は編集している。 ■リーチ先生■ ▲《SHIP’S CAT (船の猫)》 「旅の守り神」「旅をして福を運ぶ猫」▼ ▲大阪出身の現代美術家・ヤノベケンジさんの作品 《ジャイアント・トらやん》 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.08.28 00:04:34
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