テーマ:■大阪探検■(691)
カテゴリ:八百八橋散歩
長堀川と西横堀川が交差する地点に「ロ」の字型に架けられていた4つの橋の総称である。 ○上繋橋(かみつなぎばし) :西横堀川に架かる北の橋。 ○下繋橋(しもつなぎばし): 西横堀川に架かる南の橋。 もとここは、東西に流れる長堀川。 南北に流れる西横堀川が交叉していた場所であった。 東に設けられていた橋を炭屋端、西を吉野屋橋、南を下繋橋、北を上繋橋と言い、 合わせてこれを四ツ橋と言った。 このあたりは大阪の中心部で、十字の川面を行き交う船や橋上の往来も激しく、 納涼や観月にも適していたので、古来より有名であった。 四ツ橋は、かつてより都心部の中にあって開けた貴重な部分であったので、 よく散歩コースとして市民に親しまれ、 また、大阪の名所として観光名所の写真や絵はがきにも多く用いられた。 すゞしさに四橋をよつわたりけり 小西来山 後の月 入て貌よし 星の空 上島鬼貫 ★炭屋橋 (以降、通称西長堀川) 長堀川に架かる東の橋。 島之内西端の旧町名「炭屋町」に由来する。 江戸時代前期の橋の長さは40.6メートルで、1881年(明治14年)の記録では約35メートル。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ★吉野屋橋 西長堀橋 - 四つ橋筋。交差点名は「四ツ橋」 長堀川に架かる西の橋。北堀江東端の旧町名「吉野屋町」に由来する。 江戸時代前期の橋の長さは42.4メートルで、1854年(嘉永7年)の橋の番付表では約3メートル短くなっており、1881年(明治14年)の記録でも40メートル弱である。 1924年(大正13年)の更正第一次都市計画事業に基づき、1927年(昭和2年)12月に上繋橋、1928年(昭和3年)2月に下繋橋と炭屋橋、同年11月に吉野屋橋が架け替えられた。 それぞれ全長25-34メートル、幅は上繋橋が27.4メートルであるほかは約9メートルのアーチ橋で、アーチ橋としたのは河川舟運を考慮したものと考えられる。 大阪市電を歌った「大阪市街電車唱歌」の5番には 「新町過ぎて四橋の 風景一目に見え渡る 線路もここは交差点 水は十字に流れたり」 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ▲上繋橋▼東横堀川に架かっていた。 しかし、太平洋戦争後の高度成長期になると自動車の交通量が急増し、道路拡張のため、 1964年(昭和39年)、西横堀川の埋め立てにより上繋橋と下繋橋は撤去され、1970年(昭和45年)には、長堀川の埋め立てにより炭屋橋と吉野屋橋も撤去された。 ▲下繋橋▼東横堀川に架かっていた。 ▲下繋橋:東横堀川に架かっていた。 ▲この通り(長堀通り)が元は川だった。▼ (▲水色の横のラインが長堀川のあったところ) 長堀川(ながほりがわ)は、かつて大阪府大阪市にあった運河。 長堀川は江戸時代初期の元和8年に完成したと伝えられている。 沿岸にはさまざまな産業が立地し、長堀川は輸送の大動脈であった。 埋め立て後は長堀通の一部区間となっている。 東横堀川の末吉橋下流より分流し、西に向かって流れて木津川の伯楽橋下流に注いでいた。 長堀川は、船場と島之内の境界をなしていた。 上流から(右=東)から ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ ■長堀川跡を歩く■ ■1.安綿橋■ ■2.板屋橋■ ■3.長堀橋(公儀橋)■ ■4藤中橋■ ■5中橋■ ■6三休橋■ ■7心斎橋■ ■8新橋■ ■9佐野屋橋■ ●炭屋橋 (以降、通称西長堀川) ●吉野屋橋 ●宇和島橋 ●西大橋 - なにわ筋 ●富田屋橋 ●問屋橋 ●白髪橋 - あみだ池筋 ●新鰹座橋 - 新なにわ筋。交差点名は「鰹座橋」 ●鰹座橋 ●玉造橋 ●洲崎橋 (埋め立てられたおもな堀川) 1.天満堀川 2.長堀川 3.高津入堀川 4.難波新川 5.西横堀川 6.江戸堀川 7.京町堀川 8.海部堀川 9.阿波(座)堀川 10.立売堀川 11.薩摩堀川 12.堀江川 13.いたち川 14.十三間川 15.曽根崎川 にほんブログ村 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.04.18 00:16:14
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