11/5:富士紀行:下田は海の関所だった。
■11月5日(金)下田の歴史的な場所をガイドさんの案内で歩いた。■下田は海の関所だった。■江戸時代の船は、帆船でしたので、風向きが悪いと、途中の港にはいって、風待ちをしなくてはなりませんでした。江戸に向かう船は、波のあらい遠州灘を、無事にのりきって、下田港にはいると、ほっとひと息しました。ところが、相模灘は、遠州灘と風向きが違うことが多いので、下田港で、いく日も、風待ちをすることがありました。下田港は、江戸に出入りする船にとって、たいへんよい風待港でした。やがて、年貢米や特産品を、大阪と江戸に運ぶために、江戸と大坂の間を、回船(定期船)がかようようになりました。1636年(寛永13年)になると、名前も船改番所(御番所)と変わって、江戸に出入りする船は、かならず、下田港にはいって、御番所の調べをうけるようになりました。このころは、とくに江戸を出ていく女の人や子どもと、江戸にはいる武器のとりしまりがきびしかったのです。こうして、御番所の置かれた下田港は、「海の関所」の役目をしました。 江戸時代には、江戸・大坂間、あるいは東・西廻海運の風待ち湊として栄え、「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が空になる」(下田ぶし1番)と唄われた。東海道の三島宿から伊豆半島中央部を南北に縦断する下田街道の終点。1854年(嘉永7年)、日米和親条約が締結されると、箱館とともに開港(下田は即時開港)。吉田松陰の米渡航失敗、ロシア使節エフィム・プチャーチン提督乗船のディアナ号遭難、米国領事タウンゼント・ハリスと唐人お吉、商業写真の祖下岡蓮杖など、数々のエピソードを生んだ。南伊豆の観光拠点、静岡県「下田市」。この地は幕末に200年以上続いた鎖国時代から、マシュー・ペリー率いる黒船来航によって開国へと向かう大きな歴史の舞台になった場所であり、また坂本龍馬が脱藩を許され飛躍するきっかけとなった地でもあるのです。(ちなみに、坂本龍馬の元藩主・山之内容堂に龍馬を許してくれと頼んだのは、偶然、下田にいて風待ちをしていた、勝海舟だった!!)■幕末開国の舞台 玉泉寺■嘉永7年(1854年)3月、日米和親条約の締結、同年5月の付録13ヶ条の締結により、当寺は米国黒船乗員の休息所・埋葬所に指定されました。その2年後、安政3年(1856年)タウンゼンド・ハリス総領事、通訳官ヒュースケンが下田に着任し、同年8月玉泉寺を日本最初の米国総領事館として開設しました。(▲壁に煙突を出した跡が残っていた。)境内に星条旗が掲揚され、以来2年10カ月、玉泉寺は幕末開国史の中心舞台となりました。又、それ以前は日露和親条約の交渉の場となり、プチャーチン提督やディアナ号高官の滞在等、開国の歴史を彩る貴重な寺歴があります。境内には、米国黒船乗員5名、露国黒船乗員4名が眠る墓地があります。幕末当時に建立された墓石がそのままに現存しており、条約に則った日本最初の公式外人墓地となります。「松陰とお吉 下田の裏表」川柳中興の祖 井上剣花坊師は、下田に遊び この句を残す■井上剣花坊■ガイドさんと別れて、黒船で湾内一周。最後に、ロープウェイで、寝姿山に登った。見晴らしのいいのを利用して、黒船来航前の1849年英国の測量船マリナ号が入港したのを機に「黒船見張り所」がつくられた。この日の宿は、弓ヶ浜という弧を描いた浜の近くだった。(連泊) この日も富士山は見えなかった。10936歩・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・