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カテゴリ:主婦としての私
ダンナの名言を、もうひとつ紹介したい。
もう、3年前ぐらいになるかな? 某、お仕事関係のMLで、仕事の辛さをこぼした女性の書き込みに、 「なぜ女性がそんなに無理して働くのか?」 と返した、とある男性からの発言に、メールが殺到して、 MLが一時ストップしてしまう、という騒ぎがあった。 その事件を、「こんなことがあってね~」 と、ふだんの会話の延長で何気なく話した時、 「それは、その仕事がその女性の存在理由だからでしょ?」 と、事も無げに言ったダンナの言葉に、私は心で泣いた。(もちろん感涙) 昨日挙げた「休日ぐらい夫を休ませてあげたい」という主婦の話には、 仕事量と収入がぜんぜん違うし、休日ぐらい夫を休ませてあげたい・・・とあった。 うちのダンナだって、朝は、6時過ぎに出て、7時から仕事、 帰りは、ノー残業Dayの水曜こそ早いが、ふだんは10時、11時・・・。 かれこれ毎日12時間ぐらい働いている、働き盛りの激務である。 収入だって、ちょこっとパート程度の私に比べたら、やっぱり10倍は違う。 それでも、私は、遠慮しなかった。 なぜか?という答えが「奥さんのキモチ次第」という私の結論になる。 「夫を休ませてあげたい」奥さんと私が違うのは、キモチの問題で、 つまり、奥さんがそれで満足か、それだけでは満足できないか、 というその一点に尽きる。 「夫を休ませてあげたい」理由として、仕事量や収入を挙げているけれど、 要するに、その奥さんは今の生活に満足している、のが一番の理由でしょう。 それはそれで結構だし、それを他人にとやかく言われても「余計なお世話」で済む話。 でも、私は、家事と育児だけでは満足できなかった。 家事と育児だけでは、私らしさを発揮できなかったから。 物心つく前から弾いてきたピアノは、親の意思だったとはいえ、 やはり、私の大事な自己表現手段だったから。 「ピアノを弾くこと」が私の取り柄だし、 「家事」をいくらがんばっても人並み以上に特別できるとも思えなかった。 家事の出来栄えはともかくとしても、家事自体に、 私にとってのピアノ以上の魅力や意味づけを感じなかった。 まして、結婚したから、というだけで、その責任を全部「妻」に押し付けられる ・・・というのは、どうしても納得できなかった。 「妻」であるより前に、わたしは「私」なのだから。 (またまた明日に続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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