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カテゴリ:物語
5 わたしは長椅子に腰を落とした。 大衆の前で演説するときのように気持ちが落ち着かない。あきらかに地獄という言葉に動揺している。わたしは目を閉じて落ち着かせようとした。子供のころ神を信じないものは地獄へ堕ちるとよく言われた。地獄がどんなところか知らないが、地獄へ行かなければならないと言われて、いい気分でいられるわけがない。わたしは頭を振ってゆっくり目を開けた。ここにいることだけで気分がよくない。それはここにはまっすぐというものがないからだ。この椅子だって直線でできているわけではない。ゆがんでいるし、デコボコしている。座りづらく作ってあるのかと思うがそうじゃない。廊下だってくねくねしている。その曲がり方も一定ではない。壁もそうだ、へんに凸凹している。ここの空間はすべて歪んでいるのだ。ここにいるだけで不安になるものだ。ここにいる人はみんな暗くて不安そうな顔をしている。さきほどバスで見た顔とはえらい違いだ。わたしの顔もあんなに暗いのだろうか。鏡で見てみよう。洗面所はどこかな、ついでに顔を洗いたいものだ。 あたりを見回すと、目の前に紳士用トイレの表示板が目に飛び込んできた。なんだこんなに近くにあったではないか。よっこいしょと声に出して立ち上がった。気分も体も重くなっている。手洗い場の鏡の前に立った。映った顔は目が下がっていて不安げである。鏡に触ってみた。やっぱり平らでない。これでは顔が変に見えるはずだ。わたしは少し笑った。ゆがんだ顔も笑った。しばらくその顔を見つめていた。たしかに口元には髭がない。頭も禿げあがっている。これが今の顔か、演説で大衆を引きつけ、論敵を論破した自分らしい顔はここにない。 それにしてもなさけない顔だ。わたしの心のどこかから怒りのようなっものがこみ上げたきて、こぶしを思い切り鏡に打ちつけようとして、思いとどまった。自分らしくない。わたしは背を丸めてその場を後にした。 座り心地の悪いベンチにに腰を下ろして目をつむった。頭の中お整理する必要があった。 ひとの気配がして、だれかがベンチの端に座った。そいつが独り言をブツブツと言い出した。 地獄の三丁目送りだと、たった三人しか殺してないのに、それで刑罰を受けてあの世とおさらばしたのに、またここで地獄送りかよ、二度も苦しい目に合うなんて納得できねえ、死んだら何もかもスパッと無くなる、そうだろ。神も仏もない。それがあの世のお別れ、人のおしまい。それがまだ続きがあって、地獄行きだと、これがこの世というのなら、あの世で犯した罪によって、天国と地獄に分けられるなんて、不条理というものでないの……三丁目はまだ性根を入れ替えれば、天国に行けるチャンスがあるだって、ふざけるな、性根なんてものは、自分一人で作ったもんじゃない。そんな簡単に変えられるものなら、罪なんか犯さない。あの世も、この世も、お偉いさんは分かっちゃいない、人の心なんて誰もわからない、自分だってわからないのだから……もういいや。 わたしの心に直接話しかけられている気がして、目を開けてそっちを見たがもうだれもいなかった。 ここは『最後の審判』を受けるとこなのか、審査というのは天国に行くパスポートもらうためのものでなく、天国か地獄を判決するところ。 (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.08.23 05:01:14
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