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カテゴリ:物語
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わたしは浮かんでいる玉を見ているか、懐中時計の針を見ているしかなかった。来る日も来るひもそうである。いっそうのこと頭が狂ってくれれば楽なのに。 国家だ、国家だ、あれが国家だ。わたしはメガネを真似て玉を眺めながら言ってみた。あの中には民族というものが入っていて歴史という恨みごとで固められている。国家は解体されるべきだとわたしは思っていたが、ますます強度を増している。資本主義国家と共産主義国家の対立、いつからそんな構図になってしまったのか、わたしは頭を抱え込むしかない。 『共産主義とは何か』『共産主義とはプロレタリアートの解放に関する学説である』 そんなことを言ったような気がする。今はどうなんだ。『共産主義とは何か』『共産主義とは独裁国家を作るための方策である』 「万国のプロレタリアートよ団結せよ!」 こんなところで叫んでみても、なんにも響かない。わたしが死んで、こんなスローガンも屑箱に捨てられるでもなく、雨に濡れたポスターのように大衆に踏まれて消えていくのだ。 もうそんなことを考えるのはやめよう、死んでしまっているのだから、何も考えずに眠ってしまえばいい。 わたしは目を閉じた。懐中時計の音に耳を傾けた。カチカチという小さな音が脳みそをほぐしてくれる。このまま眠って永遠の眠りにつけることを願った。 わたしが眠り落ちようとした、そのとき別の音が入ってきた。わたしは目を開けた。ヴァイオリンの音だ。以前聞いたときよりもはっきり聞こえる。わたしは飛び上がるように体の向きを変えた。あたりを見回しても誰もいない。しかしこれはモーツアルトだ。ケッヘル何番だかわからないがモーツアルトの曲だ。 しばらくそのヴァイオリンに聞きほれていた。音が止んで声がした。これもはっきり聞き取れた。 「こんにちわ」 わたしはすぐに何か答えねばと思ったが、のどが空回りして言葉がすぐに出なかった。やっと幼児のように「こん・にち・わ」と言葉が口からこぼれ落ちた。 「やはり人がいたのですね」 キョロキョロと周りをみたが誰もいない。 「わたしはここにいるのですが、見えるのですか」 「いえ見えません、おたがいの姿は見えない」 「あなたも見えないのですか」 「そうです。ここには空間というものがないので、姿がないのは当然です」 「で、音だけあるのですか」 「小さなエネルギーの波をわずかな空間に飛ばした。時間を無限大近くまで伸ばした。それで聞き取れるぐらいの音になった。ここでは空間はないが、時間はたっぷりあるのでね」 「よくわからないですな」 「それはそうとして、そちらのお名前は」 「わたしはマルクス。カール・マルクスです」 「やはりそうでしたか、ここにいるということはかなり名のある方だと、思っていたのですが、マルクスさんですか」 「あなたはモーツアルトさん」 「いえいえ、ヴァイオリンは趣味ですよ、ひとりでずっと引いていたものだから、少しは腕が上がったかもしれませんが」 「それで名前は」 「ここではオールド・ニックと呼ばれてます」 「オールド・ニック」 「そう、悪魔、お分かりだと思いますが」 わたしも晩年そうあだ名されていた。 (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.10.10 15:36:57
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