カテゴリ:徒然
このところ更新をサボり気味のOyajiです。
まあとにかく暑いわ忙しいわで生活サイクルも乱れがち。 日課の更新が途切れると、それはそれで調子が狂うわけで。 言ってみれば日々何かしら更新することによって、曜日の感覚が無くなるとか時間の感覚がおかしくなるとか無用な躁状態或いは鬱状態に陥るなどの症状を自覚する唯一無二の存在だったりしたわけ。 そういう「いつもの日常」に自分をおく事は即ち乱れがちな生活の中にニュートラルな状況を作り出す、或いは非日常的な状況にあることを自覚するという意味で非常に重要な事でもあるわけです。 簡単に言えば「あ、俺はまだ正常だ」的な確認をする大切な時間だったわけです。 仕事の内容はもとより、食事や睡眠行動にもルーチン性が欠如すると体のあちこちに変調をきたすのはありがちな話です。 自律神経失調に陥ったりするという話もよく聞きます。そんな乱れた生活の中で、唯一リセットをかける時間は本来なら睡眠であるべきなのでしょうが、そうも行かない場合は別の何かをトリガーにして、精神状態を一旦ニュートラルに戻すという作業が必要ですが、その役割を担うのがブログ更新という作業だったということです。 ということで実に1000日以上も連続して休まず実行してきた作業を止めたわけですが、やはり習慣とは恐ろしいもので若干の禁断症状的なものは出てきました。 しかしその禁断症状は、「何かを書きたい」という欲求だけではなくて「何かを書かなきゃ」という強迫観念めいた衝動も無きにしも非ずだったことを考慮するに、やはり自らの精神状態をニュートラルポジションに戻さないと・・・という心の深淵での欲求がそうさせていたのではないかとも思うのです。 かつて三島由紀夫はその著書「行動学入門」において 「目的のない行動はありえない」 「行動は始まると論理が終わるまでやむことがない」 と定義しています。 Oyajiの場合、行動が止む(つまり日次更新を止める)事が何らかの目的が達せられた結果なのだろうか。 どんな理論が終わったのだろうか。 物事が終わるときの瞬間にきらめく美はあったのだろうか。 そもそも何かが終わったといえるのだろうか。 更に言うなら行動と呼べるものだったのだろうか。 まあ、ワカリマセン(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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