あれから4年
3月11日午後2時46分、職場内でも黙祷が捧げられて普段は騒がしいオフィスが静まり返り、まるで時間が止まったかのような状態になりました。 未だに行方のわからない方が2千5百余名、亡くなった方が1万5千余名、住む場所を失い非難を余儀なくされた方が22万名。 そして4年たった今でも手が付けられずに瓦礫の山のままになっている一部の被災地。 いつまで経っても杜撰な対症療法的な手当てで汚染を垂れ流し続ける東京電力。 何とか立ち直って前に進み始めた地域や人々。 まだまだ手助けが必要な被災者の人々。 生活基盤の再建目処が立たないまま、仮設住宅を追い立てられようとしている人々。 4年前の震災時やそこからの4年間にあったさまざまな出来事をそれぞれが思い浮かべた事だと思います。 震災当時、自分は高層ビルの30階にあるオフィスで仕事をしていました。 高層ビルだったため長期周期振動で左右に十数分にわたって揺さぶられ、壁や床にボルト留めしてあったはずのスチール製大型書庫が倒れ、コピー機と袖机が走り回るオフィスで何も出来ずにいました。震災直後、オフィスの窓からの写真 柱や壁の無い大きなフロアだったため、彼方から猛烈なスピードで転がってくるコピー機や袖机に警戒するので精一杯でした。 窓の外では景色がゆっくりと、そして大きく左右に流れ、自分のいる場所がどれほど揺れているのかを認識できました。 ちょうどビル外側のガラスを清掃するゴンドラが出ていて、振幅にあわせてビル外壁に叩きつけられ、ガシャーン、ガシャーンと大きな音を立てていました。ゴンドラには3名ほど人が乗っていたようでしたが、ゴンドラの中で転げまわっているようで、時折ゴンドラの縁を掴もうとする手が見え隠れしていました。 揺れが収まって、階段を使って地上への避難が始まったのは、既に1時間以上経過してからでした。 大きくひび割れ、壁の一部が床に散乱した窓の一切無い非常用階段を30階から1階まで降りる間、ひっきりなしにギーギーと鳴る軋み音に、改めて恐怖を感じたことを覚えています。 外に避難はしたものの交通機関は全て止まっており、帰宅難民となったことは明白でした。 安全確認の出た元のオフィスへ戻るために長い階段を上っている間、考えたのはやはり家族の事でした。 30階のオフィスに戻っても、周期的な余震に揺さぶられ続けました。 窓から自宅方面を見ると、遠くに大きな火柱が何本も上がっているのが見えました。震災当日夜、帰宅できずにオフィスに泊まる。海の向こうに赤い炎が瞬くのが見えた。 一際大きい火柱が市原のコンビナート火災だと知ったのはネットでのニュース速報でした。 そのままオフィスで不安な夜を過ごし、何とか帰宅できたのは翌12日の夕方でした。 それから暫くの間、被災地から離れた地域だからこその嫌な光景を見ることもありました。 最も厳しい状況に置かれた被災地では被災者同士が手に手を取って懸命に頑張っている最中、首都圏ではスーパーやコンビニに我先に群がり、あっという間に品物は無くなりました。震災3日後の近隣のコンビニ。暫くの間、こういう状態が続いた。 緊急車両が燃料不足で救援活動に支障をきたしているのを横目に、マイカーでスタンドに押し寄せガソリンを満タンにしてゆく人々が居ました。そのとき既に首都圏の主な路線は運転が再開されていました。ガソリンスタンドへの行列。道路の片側が埋まり、業を煮やして逆走する車が後を絶たなかった。 静岡のガソリンスタンドに「福島県民お断り」という看板が立ったことが問題になりました。 東海テレビでは岩手県産「ひとめぼれ」プレゼントの当選者発表の際に「怪しいお米 セシウムさん」というテロップが画面に出ていました。 これら、日本人の民度の低さを象徴する出来事が数多くありました。 そうして震災から4年経って、自分の中では何かが変わったのだろうか。 明日起こるかも知れない首都直下型地震に対し、自分にはどんな心構えや備えが出来ているのだろうか。 黙祷しながら、そんなことを考えていたのでした。