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テーマ:映画ニュース(1430)
カテゴリ:ほどよく
「ノルウェイの森」が映画化されるにあたり、再び読み返した。
読み返して、これは小説のイメージのまま、脚本にして 映画化するのはかなり、難しいのではないかと、僕は思った。 おそらく、この多くの人はこの小説は僕と、直子の小説だと言うだろう。 でも、一つ一つ丹念に小説のエピソードを拾っていくと、これは 僕と直子の小説ではありえないんじゃないかと思う。 何しろ阿美寮に直子が入所してから、僕と直子は 二回しか、触れ合っていないのだ。 しかも、二回目はたいしたエピソードもない。 あって、レイコさんが部屋にいない間に性的な処理を してもらった、それだけなのだ。 ほとんどの直子と僕のやり取りは、手紙によってなされているし 手紙のコミュニケーションを映画化するのは難しい。 できても、退屈になってしまう。 まあ、それを美しくするのが、トラン・アン・ユン監督と言って しまえば、そうなんですけど。 僕と直子の小説だったのは蛍が手元から離れていく、つまり 直子が阿美寮に入る、それまでなのだ。 明らかに、小説の大半を動かしているのは僕と緑のパートに なる。 もし、突っ込んで言えば、緑に心と、そして、体を惹かれざる得ない 僕の小説ということになる。 ここでの直子は、僕を過去の、そう17歳のキスギといた時代へと、 引き戻してしまう、美しいからこそ、重みを持つ、重しのような 存在になっている。 たぶん、読者である我々は過ぎ去ったゆえに完全である過去の重しである 直子に心を奪われる。 だから、印象が大きくなる。 登場シーンや、小説を物語として前にすすめていないとしても。 じゃあ、映画にあたって、どうするのかというのが、課題となる。 僕が脚本家なら二つ、やり方があると思う。 1.エピソードを小説通りに作って、僕と緑の映画にする。 2.なんとか、直子の美しい重しとしての存在感をかもし出す。 多くの人は「2」の重しとしての存在感を描写しようとするのでは ないか。 方法はいくつかあると思うけど、まず、阿美寮に入るまでの エピソードを時間として増やす。 そして、もうひとつは冒頭の入り方をかえたい。 確かに小説のように、25年後の僕の回想シーンからはじめるのも いいだろう。 だけど、僕なら、キスギの葬式を冒頭に持ってくる。 そして、その葬式の間中、僕はキズキとのビリヤードの シーンを思い出し、そして、直子からの視線をあびせさせるように したい。 なぜなら、直子が僕にとってたまらなく重しになるのは、キズキの 存在が大きいからだ。 この小説で直子が悲しいのことのひとつには、不完全でも生きていく 僕の世界ではなく、完全だが死の世界であるキズキにとらわれるからだ。 この重さを十分に印象づければ、直子に対して、僕が責任を持ち、緑に 走れないことが浮かび上がるような気がするからだ。 いずれにしても、小説と映画は印象が変わってしまうことがあるとは 思う。 それでも、僕は、もう、来年になった2010年のこの映画の公開を 楽しみにしてる。 ※もっと、「なんだかなー」なら『目次・◎村上春樹さん』まで お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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