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カテゴリ:ほどよく
名作、と言われる作品を読んでみたくなった。
きっと、僕も年を取ったのだろう。 手に取ったのが、安岡章太郎さんの「海辺の光景」である。 僕がこの小説を手に取って「長っ!」と思った。 文庫本で150ページある。 僕はてっきり、50ページくらいの短編だとおもっていたのだ。 なぜなら、この本の内容は教科書や、多くの文学案内に書かれており 知っていたからだ。 つまり「狂ってしまった母の臨終を9日間、父と見守る」ストーリーだったら 50ページくらいだろうと。 その上、母が最後の呼びかけで、わたしではなく、嫌がっていたはずの 「おとうさん」と呼びかけてしまうところも。 「若い読者のための短編小説案内」に記載してあったからだ。 でも、読み終えると、長いとは思わなかった。 短いとも思わなかった。 ちょうどよい。 無駄がまったくない。 退屈もしない。 結末がわかっているのに、どきどきするのだ。 不思議な作品だと思う。 なにか解説しようとしても、うまく解説できないほど、 上手に書かれている。 つっこみようがないように、思う。 解説では抽象的な雰囲気の小説と書いてあったが、僕はそうは 思わなかった。 むしろ、母の死に対する描写は具体的であり、回想も手触りのある 事柄ばかりが書かれていた。 「海辺の光景」が抽象的と思われるのは、母を看取っている日時が、 時間の流れが曖昧だからだろう。 最後になって、そうか、やっと9日間だったんだと、僕ら読者もわかる。 抽象的なのは、表面的な事象を超えて、ある事柄について、僕らみんなが 考えてしまう力が作品にあるからではないだろうか。 この作品のうまさの一つ目は同じ場面や直前、直後の続きが、 2回以上、読者にわかるように、ぽんぽんと出てくることだろう。 この小説は見取っている母の情景だけではなく、主人公の男性と、 その父と、母が戦前から戦後にかけてどのような生活を送ってきたのかの 回想も多くを占める。 回想録を書こうとすると、文章が文学っぽくなって逆に素人っぽく なってしまうことがる。 素人がいいすぎならば、実験的な匂いがする。 作品の志はわかるのだけれども、作品がついていっていない事が多い。 たぶん、作者が時間軸を自由に操れるから、逆にうまく処理が できないのだろう。 でも、この作品ではそんな素人っぽさ、とか、実験の匂いはない。 しゅっと、立派に屹立して作品がある。 それは、冒頭から母をだましてつれてきたシーンから始まるように 構成だとても巧みだからだろうと。 この小説の回想はわかりやすい。 おそらく、重要と思われる場面が前半に簡単に回想され、 後半に詳細に語られているからではないかと思う。 つまり、同じシーンを二回以上にわたり、別角度から 書いたり、分けたりしているからだ。 しかも、それが、あざとくない。 回想だけではないのだけはなく、杭も二回登場してはいるのだけども。 まあ、「前フリ」が綺麗に決まっているのだろう。 いくつか実例を挙げる。 (以下、ページの定本は新潮文庫) A.別角度から書いているもの 1.母を精神病院に連れてくるシーン (1) 11ページ 「一年前、運転手が…」 (2) 141ページ「その日、母は朝から明るい顔つきだった。…」 2.住宅金融公庫に借金するために奔走するシーン (1) 54ページ「そのときまで、すでに彼は連日歩きまわっていた。…」 (2) 120ページ「~そして、自分は云われたとおり、公庫の役人に…」 B.分割して書いているもの 1.養鶏のシーン (1) 66ページ「かえってきた父親は手に入れたニワトリを…」 (2) 98ページ「養鶏の目算が完全にはずれてしまってからも・・・」 ただ、この同じ内容を二回かくというのは、いささかシツコイ描写に なることがある。 でも、この小説はそうはなっていない。 たぶん、89ページの「おとうさん…」という台詞の前後で小説の意味合いが 違ってくるからではないだろうか。 この前半は、どれだけ、主人公の男性が父と母に振り回され、困ってきたかが 書かれている。 そして、母が父をいかに嫌悪していたかも、繰り返し表現されている。 でも、この後半は振り回されているフリをしつつも母と、そして、間接的に父に なにもしてこなかった主人公の悔いが徐々ににじみ出ている。 戦後、一貫して愚かに、こっけいに過ごさざる得なかった父と、その中で 奮闘していた母がいた。 その彼らを、幸運もあり捨てるようにした主人公の悔い。 「海辺の光景」はちょうど、物語の中間点に、クライマックスを持ってくることで 後半につれて、ぐいぐい迫ってくる、気持ちの塊を持たせている。 凡百の作家なら「おとうさん」は最後の最後まで、取っておきたい台詞である。 この台詞の後に、黒い杭を見せても十分だ。 しかし、「おとうさん」と母が話すことで、主人公が呼ばれなくて当然であった 原因を回想するシーンを長く取ることができた。 つまり、母の狂気と向き合おうとしなかったことなどだ。 一方で、ニワトリだけにかまけていた、父が母と向き合っていたことも 認識させられるのだ。 それは、この主人公だけの話なのだろうか。 我々より、早く老いていく両親を抱えている人々すべてが、 両親の衰えを直視できずにいるのではないだろうか。 「海辺の光景」は戦後文学として、位置づけられることが多いし、 それに値する名作である。 ただ、一方で、この作品は戦後直後しかありえなかった状況でなのに、 古さを逆に感じない。 きっと、そこに、子が両親の衰えとどう向き合い、死を了解せざるえないのか という、平凡だからこそ、消えることのない主題があるからではないだろうか。 (追記) ・・・ちなみに、これは「かいへんのこうけい」と読むようです。 「うみべのこうけい」ではないようですね。 ※もっと、「なんだかなー」なら『目次・◎ものがたり』まで お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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