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テーマ:本のある暮らし(3310)
カテゴリ:硬派
新聞に生誕百年にあたる小説家が三人、
書かれていた。 松本清張、太宰治。 そして、もう一人は中島敦だ。 1909年生まれの三人は同い年になる。 でも、同い年には見えない。 作家として輝いた時期が違うからだ。 太宰は若き時代から優れた小説を順調に書いていた。 彼の人生は常に順調とは言えないが、陰鬱な時期には陰鬱な 小説を、意気揚々たる時期には揚々たる小説を書いていた。 いずれも、高い評価を得ていた。 太宰は人生の上がり下がりを小説の養分にしていたのだろう。 そして、1948年、役割を終えたように自殺した。 1948年。 松本清張は小説家でさえなかった。 職業の傍ら、小説を書いていた人間だった。 彼の小説家としてのデビューは1950年に新人賞で 受賞してからだ。 そして、松本清張は1953年「或る『小倉日記』伝」で 芥川賞を受賞した。 太宰治が懇願し、結局受賞できなかった芥川賞に。 松本清張はそれから、膨大な量の小説を書いた。 ただ、一般的に代表作と見られるのは、人間の恨みを 色濃く落とした推理小説だろう。 純文学というよりかは大衆文学と言っていいだろう。 (純文学、大衆文学の区分けは私は嫌いですが) 芥川賞から出発したにもかかわらず。 1942年。 死の直前に駆け込むようにして、芥川賞の候補に なった作家がいた。 その男は1942年の最後の月である12月に喘息を 悪化させ、亡くなった。 名前は中島敦。 彼が残した作品は多くはない。 中島敦の小説と、中島敦への評論の量を 比べたら、評論のほうがはるかに多いだろう。 逆に言えば、数枚の小説であっても、数十枚の 評論が望まれる質の高い作品を生み出していた。 そして、彼が優れた小説を残したのは 死の間際である。 あたかも死期を予感したかのように。 僕は「山月記」が好きだ。 学校の教科書で読んだ記憶はある。 その時も面白いと思っていた。 最近、父が電子辞書を買った。 小説も数種類、事前にインストールされていた。 「山月記」はその一つだった。 朗読の機能もあった。 父は7歳の孫に「山月記」の電子辞書の朗読を 聞かせていた。 7歳の男の子にあの難しい漢字がわかるのか、 疑問ではある。 父もそう感じているのか、途中で「ここで虎に ならはってん」とか、孫に説明を入れていた。 微笑ましいといえば、微笑ましい風景だ。 そして、その横で僕はじっと朗読、多分、江守徹さん だったと思う、を聞いて、なんども頷いていた。 虎になった主人公の思いが重なってくるようだった。 つまり、素晴らしかった。 漢文調の文章を用いながら、西洋的な個人の 人間の内面を客観的に書き上げている。 だけれども、その客観的に書かれている言葉の 叫びは、まさしく、中島敦のものなのだろう。 漢文の文体。 西洋風の心理描写。 そして、日本人が小説に求めてしまう作家と 主人公の心情の一致。 この三つが高いレベルで、結びついた小説だった。 主人公の叫び。 それは、世に出ることの難しさ。 その世に出る能力がありながら、何かが邪魔をして 出られないことへの悔恨。 そこにはよく生きることの難しさと、生き残ってしまう 無念さ、人間でなくなってしまうことの絶望が 浮かび上がってくる。 2009年 。 彼らはいずれも生誕百年である。 死後の年数は各々別である。 輝いた作品を残した年齢は違う。 そして、輝くために必要だった思い、というよりも 「狂気」もまた、三人とも違っていた。 おそらく、太宰治には生活の安定と破綻が、松本清張には 恨みが必要だったのだ。 そして、哀しいけれども、切迫した人間を描くに、 中島敦には自らの死の予感が必要だったのだろう。 時々、中島敦や、太宰治が松本清張と同じように長生きを していたら、どんな小説を書いていたのだろうと思う。 でも、そんな問いには意味はないのだろう。 長生きができるのならば、太宰治や、中島敦は小説を 書く理由をもち得なかったかもしれないのだ。 生きていると色々なことがある。 ある人は長く生き、ある人は短い人生をおくる。 ある人間は生前に評価と富を受け、ある人間は死後に 評価と、そして遺族が富を受ける。 きっと、人生が長さや事情が違っていたとしても 各々の人間は素晴らしい何かを起こしえる事も あるのだろう。 生誕百年を迎える小説家三人を比べて、そう強く思う。 ※もっと、「なんだかなー」なら『目次・◎ものがたり』まで お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010年09月20日 11時39分43秒
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