謝る、ということ
あまり、続き、という感じではないのですが。思えば、母も父も、「ごめん」というときは、目も顔も合わさず何かのついでだとか、しつこいから言うとか、それくらいの覚えしかない。そういう、親だった。父にいたっては、笑ってごまかしたり、「しょうがない」「まあいいじゃん」「忙しい」と、笑いながら、怒りながらでしか、私たち子どもの不満に返さなかったような気がする。だから、今更謝れないのだ。脱線するけど、今の子供は謝らないし、感謝もしない。今の子どもというのは、私が関わった教え子たちに限ってだけど。でも、新任で受け持った子(現在22歳?)たちよりも、この2,3年の子のほうが全然ない。感謝、謝罪、【謝】という字はどちらにも使う。どちらの気持ちも持つ子が減っていて、持っていても容量が少ないと思える。辞書が手元になくて、はっきりしないところが情けないけれど、中国語で「ありがとう」を「謝謝」と書くなら、謝ることにはきっと、もっと深い意味があるのかしら、と今更に思う。その気持ちが持てない子どもたち。落し物を拾ってもらっても、黙って、引っ張るように受け取る。間違って悪いことをしてしまっても、「わざとじゃないから」と平気でいる。その場にいるだけで、つらくて、苦しかった。ハヤトンは、多分2歳~4歳の頃がADHD全開だったと思うので、家の中でも外でもよそでも、とにかく迷惑をかけまくった。だからとにかく私は、「ごめんなさい」をいえるようにした。そのうち、先に「ごめんなさい」ばかり繰り返すようになったけど、いえないうちは、「ごめんなさい」がきちんといえるまで許さなかった。(別に殴ってません。怒鳴ったけど。 ほっぺた引っ張ったけど。手をぎゅううううって掴んだけど(^_^;))私は、保育園から結構いじめられることが多かったので、自然に身についたのだろう「ごめんなさい」(なんかかわいそう、私(T_T))やっぱりコミュニケーションの基本は「ありがとう」「ごめんなさい」だと思うので、目を合わせて通じてもいいけれど、ないのは寂しい。でも、母は、今はちょっとは言える。私が実家にいられなくなって、「もう子どももいらん」といった頃、子どもたちが「お母さんは?」といい始めて、それで、間違いをやっと認めた。そのとき、やっと、「悪かった」という言葉が出てきたのだった。でも、所詮感情の人、私が笑うようになるといい気になってまた感情的に当たるし、さんざん言い訳するし、文句を言うと逆切れする。ただ、もとダンナの件については、「あれで2日寝込んだんだわ」と言ったら(ちょっと違うけど、合計は2日でしょ)さすがに黙った。黙るのがきっと、精一杯なのだ、あの人の。子どもたちも、「しまった」と思いながらも謝ることもできず、先生が怒っているので開き直りもできず、黙ってしまうのが精一杯。何で、親と子どもを比べることになってしまうんだろう(T_T)でも、もうそう見えちゃうんだ、私には。そして、周りの人を見ていかないと、反応にいちいち疲れちゃうから。自分を守るためには、もっと冷静に人を見ていかないとだめなんですね。また つづく・・・・・かも