芥川龍之介の死
三島から宇都宮まで、鈍行であしかけ5時間の旅をした。高校時代に耽読した筑摩文学全集の「芥川編」を鞄に。手垢が懐かしいかった。電車に揺られながら、巻末の評伝を拾い読み。文学者の「死」の前後の様子が記されているところで釘付け。彼の死への希求は強烈で、そこに憑かれたようにばく進する。もう周囲はただおろおろするばかりだ。前夜に伯母に「短冊」を託す。そこには彼の自画像が走り描きされている。それは正視できない、世にも恐ろしい自画像だ。そして予告通り、薬をあおる。ボクはその「短冊」を見て思う。「死」をどんなに正当化、美化しようとしても、出来ない、と。彼は、本能的な「生」を「動物的」と卑しんでいる。違う。ボクは、本能的な「生」は、神が命あるものに備えた、光に向かう命の習性だとだと思う。生きることが神のみこころなのだ。理屈ではないのだ。