ヨブ記に思うこと
ヨブ記って、ステレオタイプ的に色分けして解釈することを、許さない書ではないかな。読みつつ何度も立ち止まり、発見したり考え込んだりする。ヨブ記は始めと終わりだけ読めば良いと言う人、思わず笑ってしまう。あんこを入れ忘れたどら焼き!ヨブのことを聞きつけ、心配して駆けつけた3人の友の友情にほだされる。しかも1週間もの間、ヨブの変わり果てた姿を見て、ヨブと一緒に無言で地面に座っていたのだ。希に見る友の愛情、忍耐を感じる。「わたしの生まれた日は消えうせよ。」絶望の言葉が、ヨブの口から飛び出す。延々と続く対話が始まるのだ。思うにヨブは典型的な義人なのだろう。それは復活の主イエスにお会いする前のパウロのような義人だったと思われる。旧約聖書は、言葉の宗教だから、御言葉を中心に厳格に生きて来た人。しかし神の御言葉は知っていても、神様に触れたことはなかった。ウェスレアン的に(手前味噌に)言うならば、「聖霊の証し」を持たずまた無縁だった。神様を信じていたけれども、神様に触れたことがなかった。ヨブ記では、最後に神様が登場してくる。神様は延々と独演なさるのだが、御声に触れていて、ヨブの心はみるみる溶かされていく。今までも神様を信じていて、固く固く信じて、懸命に従おうとしていたが、実は神様には触れていない。いまは違う、神様の御声が聞こえてくる、心の奥底にまで、深く強く、御声が直に響いてくる。