日本二十六聖人記念日
日本二十六聖人記念日 1597年2月5日、豊臣秀吉の命令によって、26人のクリスチャンが長崎で磔の刑に処された。1月8日、秀吉は京都、大阪にいた信徒たち24人をとらえ、長崎で磔刑にする判決を下した。1月9日24人は堺を出発、世話をするために付き添ったペトロ助四郎と、フランシスコ吉の2人が殉教者の列に加わった。長崎に到着した一行を見た責任者の寺沢半三郎は、わずか12歳だった少年ルドビコ茨木を見て「キリシタンの教えを棄てればお前の命を助けてやる」と持ちかけたが、「つかの間の命と永遠の命を取り替えることはできない」とルドビコは言った。キリストが処刑されたゴルゴタの丘に似ているという理由から、26人は西坂の丘の上で処刑されることを願った。長崎市内では混乱を避けるために外出禁止令が出されていたが、4000人を超える群衆が西坂の丘に集まってきた。パウロ三木は死を目前にして、十字架の上から群衆に向かって信仰の正しさを語った。ルドビコ茨木(12歳)は、「わたしの十字架はどれ?」とたずね、準備されていた自分の十字架のもとに走り寄り、十字架の上では縛られた体と指先を動かし、「パライソ(天国)、イエス、マリア」と言って喜びを表した。聖アントニオ(13歳)は、西坂の丘で涙を流し出迎えた両親に、微笑みながら「泣かないで、自分は天国に行くのだから」と慰めた。隣にいるペトロ・バプチスタ神父に「神父様、歌いましょう」と『感謝の賛歌』を歌う。パウロ三木は牢屋でも、京都で引きまわされたときでも、大坂から長崎までの長い道中でも毎日説教していた。西坂の十字架の上では「太閤様をはじめ処刑に関わったすべての人を赦します。願うのは彼とすべての日本人が一日も早くキリシタンになることです」と最後の説教をした。