カテゴリ:パスカル
「パンセ」のブランシュヴィック編小型本は、断章924が最後だ。
松浪信三郎訳では、925以下が置かれている。そこはパスカルの他の著書『プロヴァンシアル書簡』のための覚え書きで、難解な部分である。その中で、断章949は、真理のために命を賭けたパスカルの真精神があふれている。ボクの信仰の心に欠けているものがそこに脈打っていて、頭を垂れるほかはない。みなさんどうぞ読んでください。 パスカル著『パンセ』断章949 国家における平和がただ民衆の財産を安全に保つことを唯一の目的としているように、教会における平和は、ただ真理を安全に保つことを唯一の目的としている。真理こそは、教会の財産であり、教会の心の在り場所としての宝である。国家のなかに異邦人が侵入してこの国を掠奪するにまかせ、平穏をみだす怖れからそれに抵抗もせずにいるのは、平和の目的に反することであろう。というのも、平和はただ財産の安全のためにのみ正当であり有益であるのであって、それがかえって財産を失わせるときには、平和は不正なもの有害なものとなり、財産を擁護することのできる戦いこそが、正当であり必要であることになるからである。同様に教会においても、真理が教会の敵どもによって侵害されるとき、彼らが信者の心から真理を奪い取り、そこに誤謬をはびこらせようとするとき、そのときにいたって平和のうちにとどまるのは、教会に仕えることであろうか、それとも教会を裏切ることであろうか?、教会を擁護することであろうか、教会を破滅させることであろうか?明らかに、真理が支配しているときに平和をかきみだすことが一つの犯罪であると同様に、真理が破壊されようとしているときに平和のうちにとどまることは、やはり一つの犯罪ではなかろうか?それゆえ、或る時には平和は正当であるが、他の時には平和は不正である。平和の時と戦いの時があると記されている。それらの時を見分けるのは、真理に対する関心である。けれども、真理の時と誤謬の時があるわけではない。反対に、神の真理は永遠にとどまると記されている。そういうわけで、イエス・キリストは平和をもたらしに来たと言いながら、他方では戦いをもたらしに来たとも言っている。けれども、イエス・キリストは真理と虚偽とをもたらしに来たとは記されていない。それゆえ真理はあらゆる事物の最初の基準であり、最後の目的である。 (松浪信三郎訳 パスカル全集第三巻・人文書院©1959 ) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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