いやされた理由
「使徒言行録」に、「癒しの物語」がある。ある人が、歩けないという障がいを持って生まれついた。しかし、あきらめない前向きの人だった。自立したいという思いは、周囲の人を動かして、彼を毎日エルサレムの城門に運ばせた。彼はそこで物乞いをして、生計を立てた。障がいに絶望し、引きこもっていなかったのだ。ペトロとヨハネが、そこを通りかかった。ペテロがこの人の手を取って立たせると、この人は立ち上がって歩けるようになった。彼は、癒されたことを知ると、躍り上がり、周囲を歩き回る。その喜び方は、求めていたモノを、本当に得たという喜び方なんだ。足は生まれつき萎えていたが、心までは萎えていなかった。「何とか生きてやる」という不屈の精神の所有者だった。そんな人生への態度が、癒しにつながったと、ボクには強く思えるのだ。(以下は聖書本文です。新共同訳聖書で引用しています)------------------------------------- ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しをこうた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。(使徒言行録3章1節以下)