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テーマ:海外生活(7774)
カテゴリ:家族
幸いなことに私の身近な家族で嫁姑の苦労を抱えた人はいません。
父は次男で核家族だったので、母は義父母と同居ではなく、しかも義父母とは喧嘩しているわけでもないのに疎遠でした。父が仕事で忙しかったので、母方の親戚づきあいばかり熱心だったのです。 それでも特に揉めなかったということは、疎遠なりにうまくいっていたのでしょう。 私は3姉妹なのですが、庭先のような近距離別居で長男に嫁いだ姉でさえ、義家族からはたいへん大事にされています。たぶん、「ん?」という程度のことはあるんじゃないかと思いますが。 姉は少子化のこの時代に子沢山なので、孫パワーの威力で、逆に姉の方が「ん?」と言わせているのかもしれません。 私の場合は、義父母が故人です。 義父はダーリンが幼少の頃に世を去り、義母は私たちの結婚から5年で亡くなりました。最期の2年はいつ亡くなるかわからない状態でしたので、嫁姑としては正味3年のお付き合いでした。 当時は私もまだ若かったので、義母の介護問題など想像だにしない状況で義母が倒れ、病院から退院すると准看護士による24時間体勢の自宅介護に切り替わりました。義兄がすべて手配したのだと思いますが、私が介護問題を心配する前にすべて手配されていてスムーズに移行していきました。 もともとダーリンが年の離れた末っ子、新婚の嫁は外人、私たちは甥姪といっしょの子供世代の扱いだったので、義兄と義姉が話し合った上のことだと思います。私たちはいい意味で蚊帳の外でした。 義母の闘病中は、週1、2回訪ねて話したり、いっしょに食事をする程度の「いいトコ取り」のお付き合いでした。 新参者で外人の私は特別な役割を割り振られることも、アテにされることもなく、ニコニコしているだけの全く頼りにならない嫁でした。今なら、少しは状況も違うかもしれません。 嫁として先輩の義兄嫁は当時、銀婚式間近で、ひと通りの嫁姑の確執をすでに経験して落ち着いたところでした。義母との付き合い方もほどほどに落ち着いていました。私とはレベルが違います。 義兄嫁は、私が義母からかわいがられても動じないほど鍛えられていました。 「かわいいから許す」とよく言われていて、それが嫌味かもしれないというのにも気づかないほどに義家族を信頼していました。 義母はリバースモーゲッジのような形で持ち家を担保に、財産をすべて24時間介護の看護士につぎ込んで、最後の手続き費用を残すのみまできれいサッパリ使い切って、命が尽きました。用意周到な義母は最期まで子供たちに迷惑を掛けることはありませんでした。 介護も援助もなしで、いい思い出だけ残して義母を見送った私は、たいへん恵まれていると思います。 嫁孝行な義母でした。 今、40代の私の友達は義父母との同居や援助、介護問題に頭を悩ませていますが、私には義父母がいません。今、義母が健在であれば、「将来どうなるんだろう」と心配するところですが、義母がいた頃は、そんな現実が見えないほど私は自分のことでいっぱいの子供でした。 義母の準備も義兄の手際もよく、心配する前に全部段取りがついていたのは、今になって考えてみるとスゴイことだと思います。 嫁姑で揉めなくて、介護も援助もなかったので、義母にはいい感情しか残っていないです。 おいしいものを食べたり、娘が何かしでかしたりする度に、義母を思い出します。今、ここに義母がいてくれたら…と。同時に、義母がまだ健在であれば、不安の種は尽きず、また嫁姑問題もこじれていたのかもしれません。 友達と話していて、義父母がいないということの身軽さに初めて気づきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.02.01 19:51:27
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