独生女考(21)-- 独生子といえども「罪人」として歩まざるを得なかった理由
「逐語霊感説」というのがあるが、今日のブログ村もその風を否定できない。真のお母様が語られた「独生子」「独生女」をおいて原罪の有無を云々しているからである。単に表面的な文字列に囚われることなく、深い意味を祈りをもって尋ねていくべきである。サタンの誘惑に対してエバはアダムに、また、神様に尋ねていれば悲劇は起きなかった、と原理でも書かれている。今日の姜先生の行動もまた、自己の判断によるものであったのではないか?「独生子」「独生女」--真の父母様については原理講論(P.263~)にもハッキリと記されている。(一) 重 生 論 1. 重生の使命から見たイエスと聖霊 イエスは、自分を訪ねてきたユダヤ人の官吏ニコデモに、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないと言われた(ヨハネ三・3)。重生とは二度生まれるという意味である。では、人間はなぜ新たに生まれなければならないのであろうか。我々はここで、堕落人間が重生しなければならない理由について調べてみることにしよう。アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。ゆえに、ペテロⅠ一章3節に、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」というみ言がある。イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書では、彼を後のアダムといい(コリントⅠ一五・45)、永遠の父といったのである(イザヤ九・6)。また、神は、預言者エリヤを再び送り、彼の力で堕落した人間の心を、父母として降臨されるイエスの方へ向けさせることによって、彼らをその子女となさしめると言われた(マラキ四・6)。そして、イエスが再臨されるときも、父の栄光のうちに来られる(マタイ一六・27)と言われたのである。ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。我々を生んでくださる父母、つまりは、「独生子」「独生女」は原罪なく来られる方でなければならない。ところで、分派の「独生子」のみで「独生女」を否定される方々にお伺いするが、黒・天聖経の「独生女」記述だけでなく原理講論自体をも無視されるおつもりか?「独生子」だけでなく「独生女」もまた天から来られる無原罪でなければならない。そうでなければ、原罪のない子女を生むことが出来ない。「独生子」がその「独生女」をこの地上で探して結婚式を挙げるのが「子羊の婚宴」ということになる。ところが、2000年前のイエス様はどうだったのか?聖書の記述についても、原理講論では「(五)十字架に対する預言の両面」、また、「(六)十字架の死が必然的なもののように記録されている聖句」ということで書かれていた。聖書の預言、一つは「苦難の主」として、そしてもう一つは「栄光の主」として。メシヤがどの道を歩むかはイエス様自身だけでなく「人間の責任分担」の遂行如何にかかっていた。そして、実際には「苦難の主」の道を行かれたのが歴史であった。原理講論P,410~を見てもひとり子・イエス様はは罪無くお生まれになった。ところが、罪人のようにサタンの三大試練を受けなければならなかったのは何故か?それは洗礼ヨハネの失敗した(実際にはヨセフ家庭、特に母マリアが責任を果たさなかった)ためにあらかじめ神様が準備した基台(三大祝福)を蕩減復帰して来なければならなかったということだ。では、今日の真のお父様はどうだったのか。本来天の父母様が予定してこられたのは、キリスト教であった。その摂理的新婦格から実体新婦「独生女」を探して「子羊の婚宴」をなさるはずであった。ところが、そのキリスト教の失敗によってその基台が失われた、というのがこれまでの摂理観であった。そのエバの失敗を誰が蕩減しなければならなかったか。そもそも、6000年前にエバ一人が堕落してアダムが堕落しなかった場合、どのように展開されていったか考えたことがあるか。サタンによって奪われたエバをアダム自身がエバに代わって「人間の責任分担」を復帰して来なければならなかった。そして、再びエバ・「独生女」を探し出していくべきがその展開であろう。ところが、アダムまで堕落しサタン圏に陥ってしまったためにそのアダムをアベル・カイン(善悪の表示体)に分立してそのアダムをも復帰して来なければならなかったのが天の父母様の悲しみであった。聖書は男性記述が中心であり、原理講論の復帰原理もアダム復帰、そして、メシヤ、再臨主も男性中心に書かれていた。当ブログでは、「アダム復帰だけでなくエバ復帰の摂理もこれまでなされてきた」と聖書や原理講論を通して垣間見ることが出来るとしてきた。アブラハムの時は、アダムの代身として「象徴献祭」「イサク献祭」前にはサタン圏からの「エバ復帰」行事があったりもした。これを聞いたあなたは不思議には思わなかっただろうか?さて、2000年前の第二のアダムとしてこられたイエスのときイスラエル選民(摂理的新婦格)あった。しかし、洗礼ヨハネの不信によってそれが失われてしまった。ゆえに、罪のない「独生子」の立場から不信した洗礼ヨハネに代わって「罪人」の立場でサタンから三大試練(「石をパンに変えてみろ」等)を受けながら再度「独生子」の立場を復帰して来なければならなかった。ところが、その時遅しであった。「十字架の道」を決意しながら、第二次・第三次の霊的カナン復帰路程を行かざるを得ず、再臨の約束をされていかれたのだ。文総裁も第一・第二のお母様の失敗ゆえに、45度以上に顔を挙げられない「罪人」のように過ごされた期間があったと聞く。「独生子」として来られた文総裁ではあったが、「原罪ある罪人の位置」を再度通過されて真のお母様を探し出された、ということではないだろうか。五度の牢獄生活を経て今日の真のお母様との「子羊の婚宴」がなされた。文亨進師はかつて「七死復活」を悟られたというが、六度目の「ダンベリー収監」は内的心情において文総裁だけでなく真のお母様、そして、真のご家庭や全食口がそれを共にした時であった。そして、そのアベル圏とキリスト教のカイン圏が一つとなったのがダンベリー解放日の瞬間であった。ここでも見落としてはならないことは、真のお母様の「絶対信仰」と「母子協助」があったればこそだ。第七死目の復活「ヘリコプター事故」はどうだったか。お母様、お孫さんも同乗されゴルゴダを超えて復活されておられる。これもまた、誰も否定することは出来ない。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓