文鮮明先生御言選集 19601211 - 神の一線に立つ私たち
神の一線に立つ私たちマタイ福音書 二五章:二九節から四六節一九六〇年十二月十一日(日)前本部教会この時間、皆さんと共に考えるみ言の題目は「神の一線に立つ私たち」です。 絶対的な中心と関係を結べない被造世界 天地に中心がなくてはならないことを、私たちは切実に感じます。個人においても、自身の人格が誰にもあれこれ言われない、絶対的な思想や主義を中心にして保たれることを望むのです。家庭も同じことです。ある団体を見ても、その団体もやはりその中心と一つになって、中心が動けば共に動く闘争路程を経て、一つの目的に向かって行くのです。さらには国家も同じです。どんな力にも動かされない盤石のような中心を持つ国家なら、誰もその国家を呑み込むことができません。 この世界に生きる万民は、共に良心を持っています。歴史的に見ても、人間はこの良心を中心に善に従う生活をして、また新しい歴史を創造するために努力してきました。であるにもかかわらず、私たちは人間が悪の絆から脱することができず、生活の中で悪の追及によって苦しみを受けている実情を見るのです。それを見るとき、世界を動かしているある変わらない中心があって、その中心が人間を絶対的な一つの基準に連結させようとしていることを、私たちは否定することができません。 であるとしたら、小さな私個人から広がって大きなこの世界に至るまで、その中心に連結される形態と現象は各々違うとしても、原則的な方向は一致しなければなりません。そんな立場に私たち自身がおかれ、この世界がおかれていなければならないのです。 ですからこの地に生きる世界人類と宇宙は、変わろうにも変わることができない一つの不変の基台を得て場をしめてこそ、問題の解決点を見出すことができるのです。 世界がこのようになるなら、天地を創造された絶対者もそうなのです。被造世界は絶対者の理念が反映した世界であると見ることができます。それゆえこの被造世界は創造されたその主体と渾然一体となり、不変の中心と一つになり、永遠なる位置をつかんで天が良ければ良く、天が動ずれば動ずるのでなければなりません。被造世界がこのような一つの絶対的な不変の中心を求める日には、私たちの良心が位置をつかんで安息の基台を求め、考えもしないうちに結果的な目的を成して、喜ぶことができるのです。 それでは今日この世界、さらには天と地、即ち、天宙に存在するすべての個体々々が、不変の中心を得てその位置をつかみ、生活の路程においてその価値を現してしるでしょうか? そうはなっていないのです。極めて小さな分子を見ても、中心と相対的な関係を結んで存在しています。このような絶対的な原則は、誰も否定できないのです。絶対者が主体として被造物を創造されたなら、その主体となる絶対者と相対となる被造物は、離れるにも離れることができない不変の関係がなければならないことは、必然的な事実です。 最初から天地がこのようであったら、今日我々人間は苦しみの環境とは何らの関係もないのであり、不安と恐怖などという単語すら我々とは関係がなかったのです。歴史的な悲惨さや、凄惨は戦争や闘争史があるはずもなかったのです。であれば目的とするその価値を成して生き、目的とする価値が結実して、その価値と共に愉むことができる環境になるのです。また我々には限りなく平和で、限りなく自由な、理想世界が繰り広げられるのです。しかしそうではない現実に面している皆さん自身であり、家庭であり、社会、国家、世界なのです。 人間がおかれた実情と絶対者 摂理のみ旨を成してゆくに、涙の峠を避けられない悔しい事情があるのは、なぜでしょうか? それは人間が絶対者が指向する一つの位置を捉えることができず、変わることのないその位置で、変わることのない関係を結んでいないからです。それゆえこんな結果が生じたと、断定する他ありません。どんなに優れ、どんなに満天下に自身の名を上げて号令する者であっても、覆るときは彼も転落の運命なのです。ですから歴史路程で、民族を指導した中心、あるいは愛国者が、天を中心にこの世界人類のまえに善に近づく真理を表明した聖賢賢哲が多いとしても、彼らも歴史的な批判の対象になり、歴史の祭物となって消えていったのです。 それでは、私たちが持っている現在の主義や思想や観念、私たちが立てる生活の目標等はどんなものでしょう? それも変わることなく原則的な中心が現れるまでの、一つの過程的なものに過ぎないのです。過程的なものは一つに合わさることがないのです。 完全無欠な中心が立つときには、自分が持っているものを満天下に誇れば誇るほど、これがむしろ恥ずかしいことになると、知らねばなりません。天下を動かす成功者であるとしても、何かが波のように押し寄せ、心を揺り動かすことを感じてくるのです。これは、ある絶対的な一つの完全な存在、変わろうにも変わることのない明瞭な一つの核心存在がこの世界に浸透して、この時間にも動いているからなのです。良心的な善なる人々は、それに向かって前進しているのです。 皆さんは中心を失った人間です。これを宗教的な用語で言えば、堕落の報応というのです。怨痛で憤ろしい堕落の報応です。これは創造以後、堕落の歴史路程を経てきた我々の先祖たちも願わず、現在の人間も願わず、未来にも願わないことです。こんな恨みおおい汚点、恨みおおい堕落の報応によって、人類は四方に押し流され、こっちで倒れ、あっちで倒れ、こっちに追われあっちで分かれて、死の道を歩んできたのです。こんな中で生まれた人間ですから、苦しみであるのです。このような立場の我々であることを、知ってこそです。 それでは天が願わざる堕落が起こったのですが、これをどうするのか? もしもこれを解決してくださる神様でなかったら、とても悲しいことです。今日世界は左右両陣営に分かれて対決しているのですが、この歴史的な苦しみを解決できないでいます。私たちは一つの新しい世界を出産させるべき立場におかれているのですが、人間が空想して計画したそんな何かによっては不可能なのです。理念に傾き、思想に傾き、主義に傾いている我々の心を、駆り立てることはできません。我々は我々自ら、我々の体の細胞と神経を動員して力をつくして新しい園、新しい理念世界を目指して駆けることができません。このことは人間ならぬ絶対者、天宙の中心の価値を決定することのできる一人のお方を通してでなければ、解決することができません。 それゆえ有難いものは、この世のある主義ではなく、ある団体でもなく、ある指導者でもありません。こんな惨めな環境を解決することのできる方法を持つ、絶対者がおられるという事実です。中心を失って、故郷を失って、何ほどの価値も見出せない破滅した人類を、救援することができる神がおられるという事実以上に、有難いことがないのです。ですからある主義や思想を越えて、自身の人格と価値を越え、神を尊重しなければなりません。良心がある限り、これを否認することはできないのです。 私は誰のために存在しているのか ですから歴史は覆ってきたのです。左が右に、右が左に、先が後に、後が先に、上が下に、下が上になって、四方八方が逆になって来たのです。そうではありませんか? 皆さんの一日の生活もそんな生活として、一年もそうであり、一生も同じだというのです。家庭生活や社会生活も、このような環境において覆っているのです。 前後、左右、上下が逆になって変遷してきた歴史路程において、天は一つの解決点を求めているのです。私たちは誰のために生き、誰のための働くかが問題です。右の座に立たねばならないのに、悔しくも左になっている恨があったとしても、天のために存在する人間にならねばなりません。 倒れても倒れても、この作戦をしてこられた神がおられるという事実を、人間は知らないのです。ですから善を指向する人々、即ち道に従う善なる人々は、時代々々それぞれに残酷な目に遇ってきたのです。彼らは位置が変わるたびに肥やしにされ、時代が変わるたびに肥やしにされてきたのです。 時代の変遷に従って無念にも、多くの血と汗と涙を流しました。彼らは当時においては滅びる者であり、哀れな者であり、恨みを受けて当然の者として、民族の怨讐として消えたようであったのです。しかしながら彼らの目標、彼らの中心、彼らの生活感情は、むしろ一つの理念を求めて、摂理の中心に向かうことであり、さらには神に向かうことであったのです。このようなことを徹頭徹尾やってのけた人々が、歴史を覆してきたのです。滅びたような者が歴史を目覚めさせ、失敗したような者が歴史を収拾したことは、歴史路程が立証する事実なのです。 今日私たち自身は、どこにいるのか? どんなに中心をつかむことができない混乱した環境におかれても、どんな死の場に入っても、自分自身が誰のために存在するかを知らねばなりません。これを教えてあげたいのが神の心です。これを万民のまえに教えるために神は宗教の歴史を通して、メシアや救援思想を立てられるのです。ですから私たちは誰のための存在するのか? 天のために存在しなければなりません。死ぬのも天のため、生きるのも天のためです。このような者は、死しても死んだ者ではありません。 いずれ歴史は世紀々々、時代々々を経ていって覆り、壊されるのです。その時代にどんなに大きく成功したとしても、それが天地の中心と接することができず、神の目的と通じなかったら壊れてしまうのです。またその当時には壊されなくとも、時間的な差はあっても十年、百年でなければ何世紀後には、必ず壊されるのです。このように覆る歴史路程に処している皆さんなのです。 このような歴史路程に処している皆さんなので、どんなに家庭を抱き、子を抱いて愛したとしても、それもやはり一度は入れ替わるのです。六千年の歴史を経てきたのですが、その心情の中心はいつか一度は替わるのです。今まで人類の歴史路程において、生活を通した事情は年ごとに替わり、世紀ごとに替わり、時代ごとに替わってきたのです。全部が一度は替わってきたのです。終わりの日とはいかなる時か。心情的な中心が、人間自身も知らないで入れ替わる時が、終わりの日です。その時にはこの世の中の事は全部、入れ替わるのです。 今日までの人倫道徳は父母が子を愛し、子は父母に孝道をなし、夫婦に別あり、としなければなりませんでした。これは三綱五倫の礎石から今まできたのですが、これもやはり替わってくるのです。このように既存の慣習や規範などが自然的に替わる勢いが社会環境に、生活環境に浸透してくる日が終わりの日なのです。世界的な指導者、あるいはメシアがこの地上に現れるなら、このお方はこの問題を収拾しなければなりません。ですからイエスはこの地上に来て、誰よりもわたしを愛しなさいとされたのです。 それでは、異口同音に終わりの日と言うこの時に、皆さんは’自分が誰のために存在するのか’を知らねばなりません。皆さんは自分のために存在したら駄目なのです。国の為に、世界の為に存在しなければなりません。さらには、ある主義や思想を足場として、天と地の為に存在しなければなりません。天と地の為に存在するという、自負心を抱いて現れる群れとならねばなりません。 今日すべての宗教は’地’を怨讐としています。しかし’地’を怨讐としないで、一つの目的を果たす対象物としなければなりません。そうして天と地はわがのものであり、私は天と地の為に存在すると、自負できなければなりません。 絶対者がおられるとして、彼が立てる主義と思想、理念はどのようなものか? 天と地の為ということです。さらには神と人類の為に存在し、自らその価値を尊重視し、自らその位置を高く評価し、そうして自らその方向に徹頭徹向かって行ったと自負する群れが、この地に現れなければなりません。これを天は望み、これまでの人類もやはりこれを願っているのです。 第二次世界大戦以前までは、物を奪う闘いをし、それ以後今日までは人を奪う闘いをしてきたのですが、今お終いになって、神を奪いあう闘いが起こるのです。神を奪うために互いに私は三段で、あなたは二段(異端)だ、と主張するのです。 皆さん、昨日の新聞でも見たでしょうが、これからはこれよりもっと大きな問題が起こるのです。今まで天は宗教団体をそっとしてきたのですが、これからは世界的な思潮、世界的な運勢をぐるぐる渦巻きにさせるのです。動機的な立場に立って問題を解決するか、相対的な場に押しだして解決させるかされるのです。それゆえこれが成就するときまで、多くの宗派が壊されるのです。 神の摂理が終結するためには 人類歴史が一つの目的世界に向かってゆく過程で、数多くの民族が壊れて替わったのです。一つの帰結点を求めて立てようとされる神の摂理も、このような路程を経るのです。ここにおいて、最後に残って歴史を収拾する理念は、天の為、地の為、人類の為にという理念です。ですから人類を通し、神を通し、天地を通す心情基準を持って、自分の価値を天上天下に誇り、歌うことができる人々が出なければなりません。さらには地と天と神は我々のものであり、神は我々のアボジであり、私はそのお方の息子であると自信をもって言える群れが、出てこなければなりません。 今まで家庭を持ってみなかった神であり、国を持ってみなかった神であり、世界を動かしてみなかった神が、そんな個人を求めたらどんなに喜ばれるでしょうか? 神はその人間を中心に社会の基本となる家庭の形態を得て、その家庭を中心に社会を形成し、その社会を中心に民族を形成し、国家を立て、新しい主権世界に向かって出発することができるのです。 神様はこの地上にメシアを送り、彼を新郎として人類は彼の新婦であるとされました。これは何を意味するのか? 歴史路程において、神が最も捜し求めてこられた一番の基準が、アボジと息子・娘、即ち真の父母と真の息子・娘の基準を立てる歴史のペイジを記録するための、起点を立てることであることを、知らねばなりません。 今は精神を引き締める時です。自分が持っているものを、再び考えてみる時です。めししゃもじを握って、もう一度考えてみなければなりません。目前に見えるすべての万象に対して再批判して、自分の生活的なすべての条件を再収拾しなければなりません。天心を通して、どのようなものが正しく、間違っているかを冷徹に判断して決定し、正しいものは取り、間違ったものは切り捨てるのです。 最後の時に、このような事が起こらねばならないのです。誰のために? 自分のためではなく、神のために。神の為というとき、自分自身がそうなら自分を切って捨て、家庭がそうなら家庭を切って捨て、国家、民族、世界までも未練なく切って越えてゆくのです。自分自らが誤ったすべてのことを放棄し、変わることのない一つの中心と通じる位置と方向を得て、生活の中で目的の主体たる神の価値を唱うのでなければなりません。こんな人がいるなら、彼は人生行路において大勝利者です。人間はこのような過程を経てゆかねばならないのです。多くの人々が滅び、多くの民族が滅亡していっても、神の摂理のみ旨が終結するには、このような核心的な過程を経ていってこそです。 皆さんたちは星回りが良いのか運が良いのか、時代的な恵沢を受けて良い時代に生まれました。鞭打たれるにも直接打たれ、賞を受けるにも直接受け、話を聞くにも直接聞き、叱責されるにも直接聞くことができる時に生まれたのです。皆さんは韓民族、即ち韓国の民として生まれても、韓国の民としてのみではなく、世界を代身する民族という立場を離れることはできません。自分の民族のみのために、自分の国のみのために生きる時は過ぎ去ったのです。今は世界主義が台頭する時代です。互いに対決して闘争する過程では、一社会の主義や思想を越えて、それ以上の価値的な位置と方向をもって現れない限り、到底新しい時代に向かって行くことはできません。また支配された民族にはなっても、支配する民族にはなれないのです。 この地の上の人間たちは、今まで何を支配してきたのか? 物質を支配し、肉体を支配することに精力をつくして来ました。その反面、宗教は物質と肉体を切捨て、良心を支配して来ました。これが二つに分かれた歴史路程です。私たちは知らなくとも神は、歴史路程において良心的な歴史の因縁を広げていって、一つの中心理念を持つ存在を立て、人間が彼と一つなるという目的を持って来られたのです。今から二千年前、即ち、堕落以後四千年目に、良心の方向を失った人間たちのまえに息子のような、プラス的良心型として現れた人がイエス様です。彼は真の人、善なる人であったのです。 歴史の帰趨と求道の道 それではこの歴史は、どのようになるのか。何を中心にして帰結するのか。物質と肉体を中心とした歴史的な観や理念、主義や思想は世界の基盤になることはできません。世の因縁を断ち切って、良心に従って善を指向してゆく人々、即ち、求道の道を行く人々が世界の基盤になることができるのです。彼らの行く姿は惨めです。哀れです。顔を見ても境遇を見ても、哀れな人々です。彼らが行く道は寂寞閑散としています。その道には家族も付いてきません。独り、独り行く道です。一度行けば、二度とは行けなこです。この道でみ旨が果たせなければ、倒れて滅んでしまう道です。求道の道はそうだというのです。 私たちがイスラエルの歴史を参考にして見ても、その道を行ったら再び帰って来ることができなこであると知るのです。帰って来る日は死です。イスラエル民族がエジプトのパロ宮中を喜んで脱出して、荒れ野に向かって力強く駆けてゆく時には、言葉にもならない希望と所望に溢れていたのですが、その道は悲惨な道だったのです。風呂敷も持たずに行く道であり、安らかに眠れる布団一つも持って行けなこだったのです。すべてが放り出されて行く道です。その道は飢える道であり、渇く道であり、よそ者の道であり、ぼろをまとう道であり、病んで倒れる死の道であったのです。今日までの人類歴史路程を経てくる間、道を愛する数多くの人々はそんな道を歩んで来たのです。その道は愛する息子・娘を捨てて行く道であり、天的な因縁をもって死んでもその道で死ぬ道、一生を懸けて行かなければならなこです。 骨肉をえぐるような痛みに涙を流しても、愛する家族をおいて背を向けて行かねばならぬ運命の道です。だからといって、この道を行くにおいて明瞭な目的があるわけではないのです。漠然とした道です。求道の道を求めてさまよう人、真に哀れです。同時にこのような道を求める家庭も哀れです。このような民族があるなら、この民族もまた哀れです。 天に直接背反したのもイスラエル民族であり、天のことを台無しにしたのもイスラエル民族です。哀れな民族です。唯一神の理念を持ち、どこへ行ってもその中心だけは忘れてはならない彼らは、行く所々で虐殺され、虐待され、今まで流浪孤客の身でした。哀れな歴史路程です。天の歴史がこうであることを、私たちは知らねばなりません。この道は二人で行けないのです。ただ独りで行かなければならなこです。 こんな歴史路程で、世は世として、天は天として行くということではありません。個人を立て、家庭を立てたとする基準を立て、この個人を再び率いて送り出さなければなりません。四千年の間こんな道を行った人々、その全体の価値を代身して送られた一人のお方が、まさにメシアです。そのお方がメシアなのです。このメシアは、我々の先祖たちが流した血の結実体、犠牲の結実体、苦労の結実体、涙の結実体、汗の結実体なのです。また先祖たちの復活体であり、怨讐を打って先祖の恨を解くべき中心存在であり、カナンの約束を受け継ぐお方なのです。 神人平等の時代が来なければ 今日の世界は、肉体と物質のために闘う世界です。どんなに経済学、科学、思想が発達したとしても、それが我々人類に平和をもたらすことはありません。それをもっては駄目なのです。心の世界に入って、この肉体と物質を再鑑別させるある主義か、天的な動きが歴史的な終末時代に現れない限り、この世界は滅んでしまうのです。今天が必ず一つの中心を決定すべき、最後の時代に逢着したのです。このような時代に生きる私たちは、この多くの問題をどのような立場で解決し、精算するのか? この問題が世界的に起こり、二つの思潮として現れるのですが、その一つが唯物史観であり、他が唯心史観です。さっと分かれてきたのです。地と共に、肉体と共にゆくなら滅びるのです。ですから神と共に、精算しなければなりません。 ここにおいて我々が提唱すべきことは心なのですが、この心の主体が誰か? これを持ち出さなければなりません。心の主体は神です。しかし漠然とした神様ではありません。 神を主とする時が来たのです。数千年の歴史路程を経てきたのですが、神を主とする主義、思想がいつ現れたでしょうか。出て来なかったのです。どの民族、どの国家の理念や主義思想も、神を主とする主張はしなかったのです。影のように漠然としているのが、今の民主主義です。これからは人権擁護の時代を越えて、男女平等権を主張する時代を越えて、神権を擁護して、神と我々人間が平等であるという場まで行かなければなりません。今まで神が、神の役目をしてみなかったのです。 神が神の役目をしたみないというのは、何でしょうか? 神と人間が平等の場に入っていないということです。誤ったことです。神権が擁護されなければなりません。神権を擁護するのです。私たちは創られた主体とは何らの関係も結んでいない、接するにも接することができない立場にありながら、何が平等で、何の自由でしょうか? 神と平等の立場に行かねばなりません。その場に行くには涙なしにはならず、痛悔して胸を打たなければなりません。神を正しく見ない立場を越えて、自由と平等を歌い’わがアボジ’といえば’おお ’とされる場に行かねばなりせん。イエスが復活して後、マクダラのマリアが抱きつこうとした時に’触れてはならない’とされたのは未だ時が来ていなかったからです。終わりの日には、神が愛の手をのべて’わが息子・娘よ’と万民を抱かれる時です。ですから神権擁護を叫び、神人平等を叫ばなければなりせん。こうして神と人間が一つになって自由の天地で歌う時に、神の復帰歴史も終わるのです。我々人類の所望も、すべて成るのです。 今まで人間たちは、そのために神が動いて来られたことを知らずに、眠ってばかりいたのです。自分の子女を愛して生きてはいても、そんな人間を眺めて涙ぐむ神がおられることを知らなかったのです。人間は平和らしい家庭、自由らしい家庭を歌っているのに、神は涙を流して来られたのです。’おまえたちはわたしの息子・娘なのに、怨讐の家庭に入って、平和を歌っているのだよ、怨讐の祭物になっているのだよ’と涙ぐんでおられるのです。天までとどく怨讐サタンの懐に抱かれる道であるのも知らず、自分の子女を抱いて生きる群れを眺めるとき、狂わんばかりであったのです。このようなことを、誰が知るでしょうか? 神の願いと中心人物たちが歩んだ道 言葉もなく真を求め、黙々と善を求めていった我々の先祖たちは、人生を通してただ一念、神が喜ぶ所望の一日を苦待したのですが、終わりの日というこの時まで、その一日を迎えることができなかったのです。この一日を成すお方に逢うことができず、侍ることができなければ、人類はどうなるのでしょうか? これを考えるとき、私たちは新たに覚醒しなければなりません。新しい覚悟と、決意をしなければなりません。憤り怨痛なる神がおられ、惨めで哀れな私たちの兄弟がおり、神が成そうとされた一つの主権と理念が立たない怨痛なることが残っている事実を、知らねばなりません。道を求める人々は、みな家庭を持たなかったのです。すべてがよそ者で、裸でした。哀れな群れです。どこへ行っても一晩も安らかに休むことができなこを歩んだ人々が、いわゆる神を父と呼んできた人たちです。怨痛、怨痛なることです。 昔、ノアも怨痛でした。アブラハムも怨痛でした。また曲折は知らず、その事情は知らなくとも、その曲折と事情の対象者として選ばれた者たちも、やはり怨痛なる路程を歩んだのです。神の為という一念であったヤコブも、ハランに向かって行くとき、石を枕に涙する路程を経たのです。怨痛なることです。モ-セも同じです。豪華絢爛たる外的なすべてのものを備えるパロ宮中のもろもろの条件が、彼の心情に平和と幸福をもたらすことなく、満足を与えなかったのです。彼がおかれた場は、怨讐の場所であったのです。ですから一片丹心、天のまえに膝を屈し、人知れぬ涙を流す祈祷を止めないモ-セであったことを、皆さん知らねばなりません。 モ-セの天に向かう心が懇切であり、わき起こってふきあがり、遂には宮中を蹴飛ばして出たのです。天が許される時を苦待したモ-セは、世の中を察すること、前後をわきまえることができる年齢、四〇才になった時にイスラエル民族に向かって、宮中を蹴飛ばして出たのでした。彼がゆく道は、どんな道でしょうか? 豪華に三食をたべ、絢爛に着飾った彼が、一着の服と一足の履物で一片丹心、目的に向かう輝く忠節の心に染みて、苦役に虐げられる哀れなイスラエル民族を訪ねたのでした。このようなモ-セの歩みが悲惨であったことを、皆さんは知らねばなりません。 ではモ-セの四〇年の人生も怨痛ではありますが、イスラエル民族から背反を受けたことは、もっと怨痛なことでした。こうして怨讐の国エジプトにも留まることができず、ミデアンの荒野へと去ったモ-セの哀しみを、私たちは考えでみなければなりません。しかし環境が変わり、自分の体が見るも無残になったとしても、彼の一片丹心は変わらなかったのです。自分が行く道が歴史的な祭物の道であり、道人たちが越えて行った歴史的な路程であることを知るモ-セは、歴史的な道を行く民族の友となるために骨折り、未来の数多くの人間が行くべき求道の道を開拓する責任者の立場で、四〇年間羊飼の牧者生活をしたのです。 眺めやる草原地帯をカナンの地と見たて、草を食んでいる羊をイスラエル民族と思い、羊を抱えて泣いたモ-セであったことを、知らねばなりません。その地を抱き、羊を抱えて’神よ’と涙するモ-セを見やる神は、モ-セのその心情の土台が祝福できるところであったので、’おまえの立つ所は貴い地であるから、おまえの靴を脱げ’とされて訪ねて来られたのです。哀れな場にあっても、懇切な心に染みる位置がモ-セの心情であったので、神と因縁を結んだのです。神の為の道がこのように怨痛なる道であることを、私たちは知りました。この道はただ単に、モ-セのみが行った道ではないのです。 無念で怨痛なる道を行くべき聖徒 イスラエル民族史を収拾して、神の恨を解くために四千年の結実体として、メシアとして送られたイエスの心は一面では喜びですが、地上に来た彼の境遇は悲しく怨痛であったのです。彼はどうして他の人のように民族を得なかったのでしょうか? どうして権勢を持って生まれなかったのでしょうか? それは必然的な蕩減の路程を行かなければならないからです。これをご存じの神は憤りつつもイエスを十字架に送り、聖霊をこの地上に一つの中心として送ったのです。地は母の象徴ですから昇天したイエスの代身の、母神が来なければなりません。それでこの地上に来て祭壇を積んで涙を流し、人間と母子の因縁をもってきたのが、今までのキリスト教の歴史です。悔しく憤ろしいことです。無念なことです。 希望の一日を苦待して六千年の歴史路程を孤児のように、よそ者のように、ぼろをまとって喘ぐ群れが、キリスト教の信者です。いつの一日も平安に眠ることができなかった群れが、キリスト教の信者です。 自分が優れていて君は駄目だ、といってイスラエル民族は荒野でカラスの餌になり、禿げ鷹の餌になったのです。このような事を考えてみるとき、今日私たちは覚醒しなければなりません。覚醒して怨痛なる歴史上の事実を、我々が我々の時代に解怨するのです。すべての精力を注ぐのです。民主社会を論議して、神があると主張する世界の思潮のまえに我々は祭物にならなければなりません。 この時代に、天の福を受ける者は誰か? 安楽に眠る者ではありません。天が未だに安息されずにいるという事実を知るなら、私たちがここに安息することはできません。この世界のまえに怨痛なる道を行く群れは、この世界を支配することができるのです。怨痛でなければなりません。誰のために怨痛でなければならないのか? 自分自身のためではなく、神の為に怨痛でなければならないのです。終わりの日は怨恨を解く時です。 神様は愛したいその愛の心情を分け与えられずに怨痛であり、ご自身が立てようとされる民を立てられずに怨痛であり、ご自身が求めようとされる家庭を求められずに怨痛であるのです。私たちはかように怨痛なる神を思い、染みる心情で世界に向かい、のろしを挙げて行く群れにならなければなりません。このような群れが現れることを、神は願っているのです。 歴史は東西が一つの終結点をつけるためにぶつかり、回っているのです。ここにおいて倒れることなく、凄まじい渦巻きの中心に突きでて’神よ! あなたの悲しみと苦しみと恨の路程に、私を送ってください’とすることのできる群れ、荒野で羊を飼ったモ-セのような気概を持つ群れが出ることを、神は苦待されるのです。カルデアのウルで神様に忠誠であったアブラハムのような人の群れ、ハランで二一年の間、神に対して準備したヤコブのような人の群れを、神は苦待されるのです。きっとこんな群れが出なければなりません。 皆さん、今日涙をこぼして落胆しないでください。血と汗を流す恨があったとしても、落胆しないでください。世界の運命は今こそ、生死を決定する時に来ているのです。このような時に、皆さんはどこへ行くのですか? パロ宮中に留まるのですか? 我々が生きるここは、我々の故郷ではありません。きっと行くべき故郷があるのです。我々の先祖、アダムとエバから怨讐までも、ハレルヤとすることができる本郷があるのです。その本郷へ行くべき道が残っていることを、皆さんは知らねばなりません。これを残してゆく者は滅びるのです。滅びます。 心情で装うべき私たち 皆さん! 自分自身を明らかにするのです。自分自身を再分析するのです。自分自身を注視して、私の血は誰の血か、私の皺のかたまりは誰のものか、私の骨は誰の骨かを、知らねばなりません。’手よ、おまえは神様が握られる手だ。体よ、おまえが倒れる日に、万民が嘲弄したとしても、神様は抱いて涙されるのだ’と自任する皆さんでなければなりません。肉が裂けて鞭打たれ、鉄窓に閉じ込められる恨があっても、神様が鉄窓の間から手を差しのべ’わが息子よ! ’とされる人間になるのです。歴史的な思潮を越えてゆくなら、きっとこうでなければなりません。 時は来るのです。時を待つ私たちも急くのですが、時を求める神はさらに急いておられることを知らねばなりません。耐えきれずに倒れる人よりも、その場を解決できずに忍耐の場におられる神の心が、さらに焦燥であることを皆さんは知らねばなりません。 この話をここに立つ若い人の言葉とのみ思わないで、論理的な論拠を立ててそのような面に立脚して批判し、判断してみてください。今までのものと異なる何かがあってこそ、人類は再び生きることができるのです。その何かがなければ、滅んでしまうのです。生きたいままに生きてみなさい。いい加減にやって、幸福の基がなったように生きてみなさいというのです。滅ぶのです。アブラハムが取って神の前に捧げた祭物の死体の上に、いきなりカラスが降りて来ることを、誰が知っていたでしょうか。永遠無窮の平和の王宮を建設して生きることが、たやすいことだと思いますか? 決してたやすいことではありません。 今の時がこのような世界を成すべき時ですから、モ-セが身支度をし、アブラハムが身支度をし、ヤコブが身支度をし、イエスが身支度をしたように、我々も身支度をして出なければなりません。何のために? 自分の国の為ではなく、世界の為に、さらには天の為に、身支度をしなければなりません。 新郎を迎えるべき新婦たちよ! 貴方たちは内外共に装備して、装わなければばなりません。装うときは物でするのではありません。心情で装いをしなければなりません。人類の心情、神の心情、主の心情で装うのです。天の心情が自分の動機となって、地の心情が自分の結果になるのですから、わたしはアルパでオメガ的な、心情の結実体としての装いをしなければなりません。こうして神が遠くで見つめておられた歴史を引き寄せて近くで見ることができ、希望を求めた人類が、今までのどんな主義や思想もすべて捨てて’あなたは世界を与えても取り替えられません’とする人間が、この地上に現れない限り世界は滅ぶのです。これは空論ではありません。 今は生死が逆転する最後の時です。神の一線途上に立って、最後の決判をつけなければならず、勝敗を決定すべき時です。即ち、今私たちは神の一線に立っているのです。それではこの闘いは、どんな闘いでしょうか? 物質的、外的な闘いではありません。心の闘い、心情の闘いなのです。この心情には怨讐が多いのです。外的に現れる世の中のすべてのものが怨讐です。(停電により十秒ほど録音されていない) 神の一線とその一線を成した目的 サタンを咎め、讒訴し、呪咀し、試験したいすべての条件を懸けて闘う人間、一二〇年間ノアは数多くの怨讐の群れと、ただ独り闘ったのです。数多くの怨讐に対し、独りで闘ったのです。槍で闘ったのではなく、心で闘ったのです。怨讐たちの槍に体をやられるのではなく、心を突かれたのです。アダム以後一、六〇〇年間、痛手を負う神を代身して、心に傷を受けてきたのです。こうして彼は神が同情される立場に立ったので、神は彼を訪ねて来られたのです。そんな後にも一、六〇〇年間苦労された神の一線を敵に奪われず、その箱舟の告知を奪われなかったので、神はこれを中心に天使を動員して、洪水審判をすることができたのです。 こうしてわずかに神のみが取ることができる最前線に、ノアの箱舟を立てたのですが、ここに再びサタンの一線が生じたので、神の心情はどうだったでしょうか? 一、六〇〇年間無念に攻撃され、サタンの矢を受けなければならなかった事実をすべて整理して、一つの勝利的な一線を得て平和の園を立てるべきノアの家庭に、再びサタンの一線が生じたことは、あまりに怨痛なことです。 ハムの失敗は個人的な失敗につきるのではなく、歴史的は失敗であり、ノアの憤激は家庭的な憤激ではなく、天宙的な憤激であったのです。ところがこのような事実を、ハムは知らなかったのです。一個人として選び立てられたノアも、自分がこのように大きく用いられ、このように大きな価値の存在であることを知らなかったのです。地をすべて審判して、数多くの民族を魚の餌にしてしまっても、ノアの八人の食口だけは生かされた神のこの上ない愛を、彼らは知らなかったのです。 ノアの八人の食口がいる所は、神の愛の一線でした。神の愛の一線ですよ。ですから、ハムの失敗がそのように大きな恨をもたらしたのです。神の愛の一線が侵犯されたので、神は侵犯されたその所にはおられないので、彼らを再びサタンに渡し、四〇〇年間この民族を抱えて、無念さをこらえてきたのです。 こうして二千年目に、アブラハムを選び立てたのです。かろうじて立てた神の一線に、神の代身の人間を立て、人間をしてサタンを屈伏させようとされたことが、神のみ旨なのです。それで神はアブラハムを立て、以後イサク、ヤコブ三代を経て、かろうじて人間に対する作戦開始をする足場を立てられたのです。こうして初めてヤコブの時に至って、地上の神を代身する家庭を動かせる参謀を立てたのです。ヤコブ家庭が神の一線になったのです。 このように個人を経て、家庭を経て、民族に至って捜し立てたモ-セは誰で、イスラエル民族はどんな民族でしょうか? モ-セは神の一線の参謀総長であり、モ-セに従ったイスラエル民族は神の一線を守べき精兵たちであったのです。ところがイスラエル民族は行軍ラッパを鳴らして戦えという神の命令を聞かず、必死に叫ぶ参謀総長モ-セの言葉を拒否したのでした。こうして悲しみの祭物として、寂しい荒野に埋められたという悔しい事実を、私たちは知らねばなりません。 民族を捜し立てられた神は、サタンを民族に任せて眺め、ご自身は闘われないとされたのです。ところが民族が責任を果たさないので、神が加担されて再び歴史を率いて来られたのです。サタンとの闘いの一線に神が加担されることなく、人間たちだけが集まってサタンの都城を打ち破り、一つの世界を成そうとされることが神のみ旨なのです。ですからイスラエル民族は、神が共におられると、その権限をもってするのではなく、最も哀れな民族の立場に立たなければならなかったのです。民族を指導するには、その民族の最も哀れな立場に立たねばなりません。サタン世界を指導するには、サタン世界の末に立たねばなりません。神はモ-セを民族の責任者として立て、彼が最も哀れな場でご自身の心情を現すことを期待されたのです。 一、六〇〇年の歴史を率いてノアの時を迎えた神は、初めてノアを立てたのです。次には家庭を立て、民族を立てた後、イスラエルの国を立てたのです。このようにして神は、個人の一線を失わず、家庭の一線、民族の一線、国家の一線を失わないという位置におられなければならないのです。ですから神は、加重された苦しみを受けるのです。民族が責任を果たさないとき、神のまえに家庭の責任がプラスされ、個人の責任がプラスされるのです。 神がイエスをこの地上に送られたことは、地上の人間によって神の一線に責任を負い、霊的な闘いを実体的な闘いにするためであったのです。ところが地上の人間たちがイエスを殺すことによってイエスと聖霊が分かれて、今まで霊的な闘いが続いてきたのですが、肉の闘いまで加重されて来たのです。それで肉を打てというのです。この肉身の中にサタンがうごめいているので、打てというのです。怨痛なることです。 最後の一線 それ以後二千年が経過して、終わりの日になったのです。キリスト教徒を動員して神が動かれ、新しい第二のイスラエルを立て、新しい時代に向かって越えてゆくべき時が来たのです。イスラエル民族はイエスのみ言を通して、天国を建設する天の側の選民になるべきであったのですが、その時代を逸してしまったのです。それで国家の苦しみ、民族の苦しみ、家庭の苦しみ、個人の苦しみを、神とイエスと聖霊、即ち三位神が負うのです。今まで三位神がこの地上の悔しい者の父、迫害される群れの主人であったのですが、これがどんに哀れで、怨痛なる事実でしょうか? 皆さんはお父様に福を願いますが、まずそのお父様が、どのようなアボジであるかを知り、信じる主がどのような主であるかを知り、信じる聖霊がどのような聖霊であるかを知らねばなりません。それを知るなら自分の手に傷があったとしても’神よ、これを治してください’と祈祷することができないのであり、鞭打たれて倒れるとしても、神に許諾の祈祷をし難いのです。 世界的な終末の時代に神は再び歴史的な運命と共に、勝利の基準を立てる最後の天的な一線を捜し立てなければなりません。このような時に私たちは、世界人類のまえにのろしを挙げ、’全世界に広がるキリスト教徒よ! 道人たちよ! 団結せよ、良心ある人は動員されよ’というプラカ-ドを掲げなければなりません。我々が神の精兵として一線の高地に登り、サタンとの最後の決戦場に立つべき時が近づいてのです。有難くも感謝です。一面、憤り無念で怨痛ではありますが、これに責任を負って怨讐に仇を打つ時が来たのは有難いことです。今がまさにそんな時です。歴史的にこのような時なのです。 天は皆さん個々人に’某よ、あなたは第二イスラエルの天民として、この地上の怨讐を占領して勝利の地と、勝利の民を得ているか?’と問われるのです。今がそんな時です。自分は優れておまえは劣っていると、争っている時ではありません。全世界の宗教人が動員され、イスラエルの隊列を捜すべき時です。 それでは、どのような観に立つべきか? すでにお話したように、私は誰のものであり誰の為にいるのか? 私の目、私のすべての感覚機関は、誰の為にあるのか? 肉体は怨讐であり、心は天です。皆さんは悪の一線なのです。これが縦的に個人から家庭、社会、国家、世界まで展開されてきたのです。今は皆さんがこのように縦的に下ってきたことを横的に展開させて、昔のノアのような場に立たねばならず、アブラハム、ヤコブ、モ-セとヨシュアとカレブのような場に立たねばならず、さらにはイエスのような場に立つべき時なのです。皆さん、このような場に立っていますか? こんな時が来たのです。間違いありません。皆さんは固く決心しなければなりません。この言葉は、ここにいる人間の言葉ではありません。 多くの恨を抱いてきた韓国民族! この民族は’飢えよ、ぼろをまとえ、裸になれ’という聖書のみ言のように、皆なったのです。昔、天の為に出ていった人々がそうでした。この終末の時に、世界的なイスラエルを建設しようとされる神のみ旨があるなら、この最後の時代に、追われ突かれる祭物的な国家が現れなければなりません。飢えて呻く声が聞こえなければならない時が来たのです。のどの渇きに溜め息をついて泣く声が、聞こえなければならない時が来たのです。留まる所もなく、裸の身の上となった民族が出なければなりません。今我々の民族が、そうではないでしょうか? 我々は裸です。ですから物乞いをして食べるしかないでしょう? 飢えて病んでいます。そして閉じ込められているのです。地域的にそうでしょう。 天上に神がおられてこれをご覧になるなら、時代的な気運に従って、こんな民族を世界のまえに天の精兵として立てられるのです。このような運命の前に立つ三千万民族は、どんな姿になるべきか? 極めて小さな者であっても、神の血のにじむ心情を抱いて涙を流し、神の心情と共に動く哀れな孝子の姿、孝女の姿、忠臣の姿となって、神が抱いて慟哭される民族にならねばなりません。であれば、この民族は生きる道があるのです。 皆さん! 落胆しないでください。私たちがぼろをまとっているのは、私たちのためではありません。私たちが飢えているのも、渇いているのも、よそ者になっていることも、病んでいるのも、私たちのためではありません。それは世界の為なのです。このような立場にいるこの民族に、ただ一つの道があるのです。食べられないと泣かないのです。ぼろをまとっていると泣かないのです。病んでいると溜め息をつかず、閉じ込められていると落胆しないのです。六千年の歴史路程において、神のみ旨と善を捜し求めてきた人々の歩みがそうであり、堕落したその日から今まで、神もやはりこのような歴史を経て苦労されてきたのです。ですからこの三千万民族は、六千年の歴史路程の上につけられた神の悲しみの足跡を取り除き、慰労して差し上げる神の民にならなければなりません。 民族的に神を抱いて、我々のアボジの国の為に、我々のお父様が臨在される道を築くために、我々のお父様が住まわれる家を造るために、我々のお父様が行幸される国土を装うために、飢えても動くならばその栄光がどれほど大きいでしょうか? 飢えて渇くこの事情をもって、アボジの基台を開拓しなければなりません。我々が言うこともできない惨めな裸の姿であったとしても、この裸以上に苦しみの道を歩み、息子・娘を捜し求めておられるアボジを案じ、自分の身の上を忘れ、アボジの為ならと苦労する群れにならなければなりません。朽ちてゆく死亡世界を見やって苦しまれる神の心情を慰労してあげ、神の痛みと苦しみを和らげることのできる皆さんにならねばなりません。そうであったなら、絶対に滅びることはないのです。 統一信徒の皆さん! ここで語る人間は、ある一教派を主張したいのではありません。教派の看板が問題ではありません。うまくいくか、いかないかが問題ではなく、知るか知らぬかという唯識と無識が問題ではありません。問題はただ一つ、神のまえに捧げる供え物があるかということです。この供え物を準備するために、天のお父様のひもじい事情を知って、涙を流して飢える場であっても、神様にパンの一片でももてなす皆さんになり、渇く場であっても飲みたい一口の水を、神様にもてなす皆さんになり、裸になって一着しかない着物も売って神様に捧げ、病床にあっても神の苦痛を代身して喘ぐ皆さんになり、捕らわれの不自由な身であっても、神を代身して苦痛を受ける皆さんにならねばなりません。 天のお父様はこの民族に訪れるとして、その中でもどんな者を捜しておられるでしょうか? 飢える者を捜すのです。食べて踊る豪華絢爛なる場にいる者のアボジとして訪れるのではなく、飢える者の父として訪れるのです。ですから私たちは、飢える者でなければなりません。渇く者に訪ねるのです。それはご自身がそんな歴史路程をたどって来られたからです。裸を訪れるのです。ですから皆さんは、裸の場を経て行くのです。捕らわれの者に訪れるのです。病身の者に訪れるのです。そのような所に、神の心情が留まるからです。これを知らねばなりません。本心、天心を中心に、人類愛に喘ぐお父様なのです。 私はこの民族がそうであることを願い、我々の教団がそうであることを願い、我々教徒がそうであることを願うのです。一面から見れば、残忍な師であり、残忍な責任者であるかも知れませんが、天的な原則から見るとき、皆さんをこのような場に追い立てる立場ですから、この責任を果たさなければ人類すべてに災いが及ぶので、そうする他はないのです。皆さんはこれを知らなければなりません。 神の一線に立って戦勝兵となれ このように追いこむ目的が、何でしょうか? 自分一人が良く生きるためではありません。天国建設のための路程において、神の一線途上で勝利の精兵として凱旋歌を歌い、神のまえに栄光をお捧げするためなのです。私たちが行かなければ神が自ら行かれるなら、行かない訳にいかないのです。 自分の命が惜しくてこの道を戻る者がいるなら、彼は殉教して天上に行った数千万の天の食口の怨讐になるのです。彼らが鬱憤晴らしをすれば、怨讐に対してするのではなく、そこに追い込む者に対して鬱憤晴らしをするのです。ですから行かないとしても行かざるを得なこです。 ’私は天の祭物として天のお父様の懐に安らぎ、神と共に赤い血を流して神の一線に立つ精兵として、同志の手を握り、足を握り、体を抱いて涙し、血を見て涙する死の場であっても行きます’と決心する人間がいるなら、彼は世界を支配するのです。神を自分のアボジとして侍り、天のまえに忠心をつくす人間がいるなら、彼は新しい歴史の第一ペ-ジに記録される使徒になることを、知らねばなりません。 我々の赤い血は我々のの知らない間にも、寝ても覚めても行く道を促しているのです。人間は行くべき運命から抜けることができない存在であり、どうせ一度は生死の問題を解決すべき存在です。ですからどこへ行くかを、決定しなければなりません。私たちはペクマゴジの熾烈なる戦闘が、高く評価されていることを知っています。それは歴史に記録され、それぞれ残っているのです。今は天国建設のためにペクマゴジで倒れた精兵たちのような、祭物が必要な時です。皆さん! どうせ死んで一握りの土になる体であり、共同墓地の何坪かを埋める体です。 歴史の恨を体に担う皆さんが、残る最後の歴史を締め括り、新しい歴史を敷かなければなりません。天が長らく抱いて納める天的な闘争歴史の遺業を我々が相続して、これまでの九九回の戦いに失敗したとしても、残る一度の戦いに勝利を納めなければなりません。今までの敗北の怨みを洗い流して、歴史的な勝利を誇るサタンを打ち砕いて降伏させ、神のまえに栄光をお返しするのです。このような皆さんになるべきことを、よくよく知らねばなりせん。 皆さんが対している環境が、戦いの場です。皆さんが食べるごはんの一杯も、自分が着ている服の一着も、皆さんが見ている天下万象すべてのものが、戦いの条件に懸かっているのです。そのすべてが皆さんの手を通して、戦いの嘆息から解怨される一日を苦待していることを知り、どうか神の一線の精兵の威信を立てる戦勝兵となり、神の祝福を受ける皆さんになってくれることをお願いします。一休さんのような機知(トンチ)ではありません。奇知=人とは異なる知恵すなわち神様の知恵世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓