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奇   知   外   記

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2021.02.11
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最後の道を行かれながら振返られるイエス

1957年2月10日(日) 前本部教会


 祈祷
 お父様、一週間の間を御旨を中心にして闘って来たところの息子娘、サタンの巧妙な計巧にねじり倒されないために闘って来たところの息子娘たちがこの時間お父様の前にひれ伏しますから、お父様が親しく現われて各自の心を主管して下さいますように、この時間心にしみとおる望みを抱いている者がいるのでございますか、体にサタンの痕述を持っている者でございますか?愛の多いわたしのお父様、彼等に再創造の歴史を表して下さいまして哀れみの御手を広げてあなたが望まれる御旨の前に不足のない心と体でお父様に敬礼を捧げられる姿になるようにこの時間お父様が恵みを与えてくださって聖別してくださることを切に願い望む者でございます。

 愛なるお父様よ! 取るに足らない(つまらない)私たちを呼んで宇宙的な摂理を予告されようとなさるお父様の御心の前に、私たちの頭をたれてひれ伏しますからこの時間親しく私たちの心に命令してくださって私たちの体にみなぎらせて、願われる善の園に向かって願われる善の御旨に向かって願われる勝利の園に向かって、一息に走ることができるように引導して下さいませ。また御旨に対して奮発できる私たちとなれるように至らしめて下さって、自覚的な力と自覚的な決心を整えて出て立てるように許して下さることを愛なるお父様切に望んで願う者でございます。

 まだお父様の前に似合わない罪悪の要素が残っている罪悪者たちですから、お父様尊厳な能力の役事で私たちの罪悪の要素を除いて下さいまして、権能の手を差しのべて慰めてくださり、悔い改めの心を起こして下さることをお父様切に望む者でございます。

 この日は聖なる日慎んで申しあげる約束された日ですから民族のために集っている数多くの祭壇を祝福して下さいまして、勝利ののろしを上げられるように導いて下さいませ。お父様の栄光と慰めを受けるために、この時間敬拝を捧げている数多くの息子娘たちを祝福してくださって聖霊の役事を降臨してくださるのを愛のお父様切に願いつつ望む者です。

 お父様私たちのすべてのものをお父様の前に集まりましたから、お父様の前に似合う自分たちであるかもう一度自分たちを分析することのできるように導いて下さいまして、お父様に似合わない末備な事実が未だにも残っていたならば、全てのものを悔改めて全てのものをしてお父様の忠告とお父様の勧告を受入れられる私たちになれるように許して下さることを、愛なるお父様切に願いつつ望む者です。

 まだ闘いの路程が残っているこの時、私たちの心を合せて生命の園に向かって突進できる天の精兵たちになれるように許して下さいませ。一人ぼっちの(孤独)息子娘が地方に広めようと福音の御言を証明するために苦労の祭壇を立てているだろうとするのを知ってくださいます。彼らがどんな所に集ってもお父様が親しく役事して勝利の息子娘であることを証明して下さいました。お父様が親しく運行されて役事されることができる勝利の祭壇を備えることができるように引導して下さることを、愛のお父様切に望みつつ願うものです。

 この席に参席する息子娘たち、自己を中心とするある観念や主の主張を持たないように許して下さいまして、小さな子供のような心で自己の全てのことを皆取りだして、命令される御言のために自身の不足なるのを痛悔してお父様の前に申しあげることのできるこの時になる許して下さいませ。

 お父様の前に全てのものを任せられましたから、サタンが侵犯するこの時にならないように許して下さいまして、聖別の役事でなさって下さってお父様が親しく主管できるならば、お父様の栄光だけが現われるこの時となれるように導いて下さることを切に望みつつ願いながら、全ての御言を主の御名で申しあげます。アーメン。


 イエス様の降臨とユダヤ民族の不信

 今日のこの時間は最後の道を行かれながら援助されたイエス様と言う題目で少しの間話すものです。

 アダムとエバは堕落したので神様が望まれる理想の園を失ってしまいました。ちょうどアダムとエバは、神様と苦しみや楽しみを共にすることのできる善の園を失ったのです。そして彼等は神様の懐を離れるようになって、神様を慕いながら生きなければならない、はかない生涯を始めたのでした。そうして神様の愛の懐を離れて来た人間たちは今まで悲しい心情で神様を振返りながら、受難の六千年歴史を歩んで来たのです。このように私たちの祖先たちが天に向かって振返る生涯の道を行くことと同じように、今日の全ての人類を自身の本然の位置の回復を望んで天に向かって振返る生涯路程を渡って行っているのです。そしてて人間たちを救援するために来られたイエス様にも、地上から天に向かって振返ることのできる人々を探して来られたのでした。

 世の中の人々が、現われたイエス様(キリスト)の新しい福音のために自己の生涯路程を振返って、イエス・キリストを振返ることのできるのを望まれて、ひとつの条件として天の愛としてイエス・キリストを送られましたが、その当時人間だけではなく今日まで数多くの人間たちは天に向かってかえりみられるようにできるそのような主人公を迎えてすぐに仕えることができないので、天に向かって振返りながら行く生涯の目的を達成できないまま歴史は流れて来ているのです。そして今日の皆さんもいずれにしても天に向かって振返りながら行かなければならない運命に処しているのです。

 しかし人間自体の力では天に向かってとうてい帰ることのできないので、神様はイエス・キリストを送られて帰ることができる人間たちをして帰ることのできるようにされたのである。万一人間が彼らが願う方向通りに願ってそれが歩む通り歩んだならば、人間たちは神様の懐に帰って行く祈願を成就することができたのです。これが神様がイエス・キリストを送られた中心の御旨であったのを皆さんは確実に知らねばなりません。

 当時のユダヤ教人は勿論ですが、イスラエル民族と全世界の人類がイエス様に仕えて、天に向かってかえりみながら行かねばならない生涯の目的を完成して、神様の懐にかえらなければならなかったのに、人間たちが不信したのでイエス様はイエス様の通りに、人間は人間の通りに分かれて行ってしまったのです。そしてイエス様は自身の行く歩みを中止されて、地上に向かって援助される立場にいらっしゃったのを皆さんは心に刻まねばなりません。

 ところで人間の中には今日まで六千年という長い長い歴史過程を渡って来られながら、天に向かって   天のために自身の心を尽くして、力を尽くす聖徒たちがいなかったのです。また人間を代身して天に向かって苦難の道を行っているイエス・キリストの足取りを止めるようにするために、神様に自己の生命と自己の愛と自己の行動をかけた聖徒、すなわち汚れない祭物になる人間が一人もいなかったのです。これが神様の身にしみて願われたことを知らねばなりません。

 世の中を蹴飛して天に向かって哀願して行かなければならない人間たちが地上に固着して、地上の所望を中心と見做しイエス様を不信したので、神様が四千年間地に向かって摂理された御旨が挫折してしまいました。当時地上の人間が望んだ御旨を成就させてあげるために、神様がイエス・キリストを送られて下さったのに、彼らがイエス様を眺めてよくなって行かなかったので、反対に二千年という長い長い歴史を経て来られながら、神様が地上をもう一度振返らなければならない立場に立つようになってしまったのです。

 それならばイエス様が三十余の一生望まれた所願はなんであったのか? その方の所願はただ他人のためのものでした。エデンの園でアダムとエバが追われた時の感じた悲しみを悲しみの心を暮らしながらも、それを表現しないでただ人のために生活なさったイエス様でした。こんなイエス様を当時の人々が、自身の全ての所願を徊復してあげることのできる主人公として知って、イエス様に向かってよくなることができたのだったら、イエス様は十字架に行かずに済んだのです。

 無知な人々を覚醒させるため三十余の生涯を過ごされるイエス様と同伴して、同じような行動で神様に向けて行かなければならないイスラエル民族たちがイエス様に背反してから、イエス様は自身が行かなければならない歩みを止めるようになるのです。このように天から与えられた使命を完結させることができなくなったイエス様は、人々のためにもう一度天に向かって望まれる立場に立って、人間の代表の心で神様の懐で探し戻られる歩みを歩まなければならないのを皆さんは心に刻みつけなければならないのです。

 そのような訳で人々が神様とイエス様のために精神誠意を尽くして、イエス様が歩んで行かれるその方向に代りに歩んであげて代りに保護して差しあげたならば、イエス様が神様に対されたように人間を愛する神様の代りに人間に対することができてこの地から喜びの祭壇を備えて永遠の一日を迎えることができたのです。ところで当時人々が天に向かって歩んで行くその歩みを真似ることをしないので、イエス様はイエスのまま人間は人間のまま歩んで行くようになったのでした。

 ところで創造原理的である責任を負っていらっしゃる神様であられるので、人が行く方向をかえてイエス様を通して神様の懐に出て行くことができる勝利の一日を成されようとするのです。ところで地上に来られたイエス様は、イスラエル民族の排斥を受けて十字架まで行くようになったので、神様がイエス様を送って摂理される御心が失敗して戻るようになってしまったのを皆さんは確実に知らねばなりません。


 ペテロを振返られるイエス様の心情

 ところでイエス様が十字架の道、ゴルゴダの山頂の孤独の道を渡って行く時、誰をもう一度振返って御覧になったかといえば、愛する十二使徒の代表であるペテロをもう一度振返って御覧になられました。それは自身の後を一番前に従わなければならないペテロの心が変るようになるのを見て心配されたのでした。このように神様の御心を心配する自身の心が悲痛さにもかかわらず、愛する心でペテロを振返ったイエス様のその視線を今日の皆さんがもう一度感じる者にならなければなりません。

 しかしペテロは三度もイエス様を知らないと否認した。そして天の御心と完全に分離した立場に立つようになったので、イエス様とは関係ない立場に立つようになってしまったのでした。このようなことを御存知でいらっしゃるイエス様であったけれど、地上のある誰か一人でも死の道に向かって行く自身の後を死守してくれるならば、心で体で同情してくれることのできる一人の人間を探そうとされたので、愛する第一弟子ペデロを振返るようになったのである。このように一人の真の人を探そうとされる心が、愛する弟子ペテロを御覧になるその視線の中に潜んでいる(染みとおっている)のを、今日の皆さんは知らなければなりません。

 神様の全体的な摂理を責任を持って来られたイエス様に於いては、このような立場に立つようになる時これ以上の悲しむ場面がないのです。なぜならば人々の不信によってゴルゴダの道、死の道を行く自身の使命を引き継げることのできる一人を探そうとされる切ない心情を知らせる者が一人もいなかったのでした。そしてイエス様は言うに言えない悲しみに包まれたのでした。ただ神様だけがイエス様の切ない心情を知ってくださってイエス様の悲しい事情を心配してくださいました。

 イエス様は自身の三十余の一生をただ天の悲痛な事情を代身して歩んで来た苦労の路程を悔改して見るようになる時、人間に対して叱責したくて地上に対して呪いたい心がしみとおったのです。ところで自身のそのような心を抑制されて、自身の歩みを中止して従っているペテロを振返って御覧になったのでした。このようなイエス様の内的心情を今日の皆さんが感じないならば、イエス様を中心と見做す神様の御旨を代身、引き継ぐ万民の前に堂々と立てないことを皆さんは確実に知らなければなりません。

 それならばこのように孤独に苦難の路程で一生を終えられるイエス様を眺めるペテロの心はどんなでしたか。彼は過去イエス様と結んだ本性の愛の因縁を忘れられないで、孤独の中で呻吟して言うことができないもの悲しい立場に身を置いたのでした。悲しいイエス様を侮辱して罪なきイエス様を願望しながら、罪なきイエス様を縛って引いてゆくその姿を眺めているペテロの心ももちろん非常に痛かったのでした。

 しかしペテロは、イエス様が全人類を取戻すための代表的な使命を持って来られたメシアであるのを悟れないために弟子たちを代身して出て立てないで自分だけを考える立場に立って話していたのでした。この様な立場に立っているペテロの前にはしためたちが現れてキリストの群れではないのかと質問するようになる時、三度も知らないと言うようになってしまった。このようなペテロ一身の姿が地上の人々たちを代表する立場であったことを皆さんは明らかに知らねばなりません。

 私たちがこの様なイエス様とペテロの立場をもう一度悔改めて見るようになる時、三度も知らないと言うペテロをイエス様がもう一度振返られたのは、ペテロとイエス様との間だけに起こった事情ではなくて全歴史過程がそうなのを見せて下さったのです。

 全世界人類が天の道を行くところに於いて、サタンの前にキリストの御旨を代身する真なるクリスチャンの姿として現われるところには、必ずサタンの讒訴が三度あるようになったのです。これは六千年の歴史の中でアダムの立場、イエスの立場、再臨主の立場を象徴して現われるものと見ることができます。これがもう一つ終りの日に於いて世界的な一次大戦、二次大戦、三次大戦の形態として起こるのです。このようなことがこのように全歴史路程に現われるだけでなく、今日の皆さん個人の信仰路程にも現われるのを皆さんが知らなければなりません。


 ペテロの自覚

 それならば今日の皆さんが主に会う直前にどんなことがあるのでしょうか。ペテロが天に向かって「知らない」とした背反の時間にあったのとちょうど同じように終末を迎える今日の私たちにあっても、その様な時がやって来ることのできるのを知らねばなりません。

 私たちには外的なペテロの立場を溯勝利されるイエス様の後に従うならば、自身を探し立てなければならない。歴史的で摂理的であり信仰的な運命が横たわっています。この様な運命の峠をこえなければならない私たちは、どんな立場からどんな責任をしなければならないのを知らなければならないのです。

 またイエス様が十字架から復活される前にゴルゴダの道を歩まれたのとまったく同じように、終末の前世界のキリスト教人は再臨の時に主と一緒に復活の栄光を参与するために、最後のゴルゴダの道を歩まなければなりません。そのような時代に明らかに生まれたのを銘心しなければなりません。

 それならば今日私たちはどのような立場から信仰生活をしなければならないのか、ペテロに愛する先生様が何の罪なくローマ兵に対して引かれて行く時、心の中には切ながらも外には「知っている」と言えなかった瞬間があったのと同じように、今日の私たちにも世上的なある条件のために本意でなくイエス様を「知らない」と言わなければならない立場に置かれる時があるのだから、その時にイエス様を「知っている」と言わなければなりません。また私たちはそんな自身を置いて常に注意する信仰生活をしなければならないのです。

 地上のゴルゴダの道を歩まれるイエス様は霊界にも今日まで世界的なゴルゴダの道を歩まれて来ました。このように地上と霊界から愛する聖徒たちを後において自ら十字架の道、苦難の道を行かれたイエス様は、将来サタンと一代一騎打ちの闘いを展開されるのです。

 そんな接戦の時期が地上に現われる日、時、私たちはどんな立場に立たなければなりませんか。ペテロがイエスを知らないと言ったのと同じような立場に立ってはだめなのです。私たちはイエス様の立場に立って私たちの全ての事情と私たちの全ての罪と私たちの全ての不足を払いのけておいて、私たち自身を再反省しながらイエス様が歩んで行かれる苦労の道を死守することのできる勝利の息子娘にならなければなりません。そんな立場に立てなければ再臨される主様を迎えられる栄光の席に参与できないのです。

 ペテロは難しい立場に立てられる先生を三度も知らないと否認したけれども、イエス様は真情で自身の体を顧みてペデロを眺められました。そして自身の難しさや、自身の悲しみ自身の事情も忘れられて振返られるイエス様を見たペテロの心の中には一代変革が生まれたのです。ペテロ自身はそのようにイエス様を三度も知らないと言ったのにもかかわらず、イエス様は御自身の悲しみも忘れられたように真情で自身に危害を与え自身の将来を思念されるのを見てペテロの感情は爆発したのです。また主様と一緒に喜怒哀楽を一緒にしたところの昔の因縁を感じた瞬間、ペテロはその場所から自身の正体を知るようになったのです。

 イエス・キリストが天の御旨ひとつを成すために自身の生命を覚悟して天に向かって死の道を行かれながらも、少しも人間的な悲しみにうちひしがれないで、凛々しそうに人間の久遠の道を開拓するために努力するのと、不足な自身までも心配して下さるのを見ながらペテロは心から不足を感じたのです。ちょうどペテロはひたすらイエス様に対して忠誠を全てかけなければならない弟子の立場に立っているのを考えながら、神様を代身しているイエス様の立場と、イエス様を代身しなければならない自分の立場を比較して見るとき、自身がイエス様を信じる信仰とイエス様が神様を信じる信仰とは天地の差があるのを感じたのです。

 そして自身がイエス様を信じるとは言ったけれども、主様のように天を中心に生きて信じるのではなく、自分を中心にして信じていたのを知るようになった瞬間、自身を眺めるイエス様の視線の前に程度の衝撃を受けたのです。すなわち不信の自我を置いて嘆息したのでした。

 ペテロの通悔と新しい決意の価値

 天に向かう信仰路程にあって永遠不変の姿で宇宙的な使命を少も疑わないで祈って行かれるイエス様を眺める瞬間、ペテロの心が一変して一生の間主に対して生きなければならない衝動感が起こって来たのを皆さんは知らねばなりません。不信の自我を悟るようになる時からペテロはイエス様と自分との関係、あるいは互いの生涯路程を比較しながら、自身の不足をもっと感じるようになったのです。

 イエス様が天の御旨一つに対してこの地上の上の万民に対して、自身の幸福を求めないで自身の全部を天の前に祭物として捧げて、十字架に引かれて行かれながらも願望なされないイエス様の姿を見守りながら、三人の弟子は自分たちの生涯があまりにも個人中心的であるのを感じるようになったのでした。そうして自己を中心とされないイエス・キリストの前に、弟子たちは自ら自身を反省して、イエス様がいつも所望された御旨を引きつぎ受けてこの地上に対してその御旨を実践するというのを確約して盟誓することができたのである。

 その次にペテロはどんなことを感じましたが、自身の不信を感じると同時に周囲の不信を感じたのでした。罪なきイエス・キリストをどこの誰に罪のないというイエス・キリストを悪なる周囲の人々が縛って置いて鞭打ちながら喜んでいるのを見ながら、ペテロは逼迫されるイエス様の視線の中からイエス様のうら悲しくも孤独な心を明らかに分かることができたのでした。

 このように憤懣やるかたなき立場でも、天の道を守って行くのを見せて下されるイエス様の暖かい視線の前に、ペテロは周囲の環境の不遜さを感じたのです。そこでイエス様の弟子ペテロはイエス・キリストの側になれない悪の群れを滅ぼすために、主様がもう一度来られる時まで周囲の不遜な勢力と闘う覚悟をしたのです。

 天に向かって行くイエス様の善の不変の姿と周囲の環境の不遜さは、天地の差があったのでした。そして瞬間的に振返られるイエス・キリストの視線を通して、ペテロは自身の愚かだった生涯を精算することができたので、周囲の環境を浄化して善の基準を立てなければならない決心をしていっそう神様に向かったのでした。

 不平なく天に対して地上に対して万民に対して御旨に対して亡くなられるイエス・キリストの死を通して、ペテロはひとりでに主様を敬うようになって、その死の前に懺悔の涙を流しながら痛哭したのです。

 この事情が最後に振返られたイエス・キリストとして、自身を知らせる使徒がいるのを感じるようにして断たれてしまった天と人間の因縁が回復する瞬間、主を感じるようにしたのです。ペテロ一人だけ天と地そして万民と数多く使徒たちを代表して、神様の御旨の前に帰られたイエス様を置いて、自身の不足さを感じながら痛悔の涙を流したのです。このような主様が十字架に亡くなられる前に苦難を受けられるのを見て、ペテロだけが痛哭しながら悲しく泣いたのです。このようことがあったために、イエス様が使徒たちを中心と見なして役事することができる基準、イエス様と人間たちが互いに因縁を結ぶことのできる新しい基準が造成されたのを皆さんは知らねばなりません。

 クリスチャンたちがイエス様が十字架に亡くなられた以後今日まで神様の御旨だけをつかまえて、復活と再臨の時を待焦がれたのと一緒の立場を皆さんたちもいずれにでも経由しなければならないのです。そしてペテロのような立場も蕩減復帰しなければならないのです。これが皆さんの信仰の路程に残される最後の運命であると、皆さんたちは深刻な立場から真心でイエス様と自身の間を後を振返りながら、イエス様の志操を模範としなければならないとするのならば、イエス様のその姿勢の前に体を曲げて痛悔することができなければなりません。

 私たちが今まで信じて来た信仰生活の中に、主様が私たちを心配して私たちを主様のためにどのくらい心配しながら生きていたのか問題であります。自身はイエスを心配しながら一生の間生きたと言っても、如何に死の場を払いのけながら、ペテロを眺められたイエス様の生涯に比較されることができますか。今、蕩減復帰原則に対してイエス様が死の道で群衆らを振返られたのとちょうど同じように、私たちも死の道でイエス・キリストを振返るような自身にならなければなりません。そんな立場でイエス様を代身する立場に立てて、同時にイエス様を栄光の席に集って捧げるために、私たちが振返りながらイエス様の苦痛を代身して、イエス様の心配を代身しなければならないのです。皆さんにその様な一時があらなければならないのが問題だと言うのです。

 万一皆さんたちにそんな一時がなければ、終日ちょうど復活の栄光で迎える時にマグダラのマリアが復活されたイエス・キリストを掴まえたのと同じく、皆さんが復活の主様を掴まえて、私の主よ私の新郎であると言うことができないのです。イエス様が十字架の上からペテロを振返られて初めて、ペテロと三弟子は探してイエス様を直接掴まえて天国まで行ける聖徒たちはいないのです


 イエス様を振返らなければならない聖徒の責任

 今終末に処する皆さんがイエス様と同居することができてイエス様が運行されることができる真の聖徒、イエス様の愛を受ける真の弟子になろうとするならば、皆さんはイエス様が死の道を行かれながらもペテロを振返られたのとちょうど同じように、よくよくイエス様を心配してイエス様を代身してサタンに対して闘わなければならないのです。そのようにできなくては、栄光の主を助けて神様に敬拝を捧げられないのを皆さんは知らねばなりません。

 信仰生活をしている私たちであるが、私たちは一日一日の生活全体を通しイエス様のために心配する生活はすることができませんでした。それだからイエス様が数百数千度私たちを探し来られたが、不信する私たちの生活のために仕方がなく関係を断ちながら、寂しい目で私たちを眺めながら見られたのです。 イエス様が私たちを探して来られて寂しい目で私たちを眺められる時が多かったが、私たちはその方の事情とその方の心を知ることができず、自身だけのためにして自身の心通りにだけなるようにことを望む、変れる信仰生活をして来たのです。

 ペテロがイエス様に眺められる視線の前に自身の一生とイエス様の一生を比較して見た時、自身の不信を自責してあまりにも自身を中心として生きたことを感じたものでした。同じように皆さんも、皆さん自身をイエス様の三十余の生涯を比較して見て、神様に対して今日まで二千年間役事されて来られたイエス様の歴史的な生涯路程と比較して見る時、皆さんはペテロが感じたことのように自己を中心にして生きたのを感じざるを得ないのです。皆さんがこの様な不信の跡から抜け出られなくては皆さんはもう一度来られるイエス様に会う道がないのを知らなくてはなりません。それならば皆さんはどんな場所まで出掛けなければなりませんか。

 皆さんはイエス様が休む間なく与えられるその視線に照らし合せてイエス様の心を体恤することができなくては、十字架の苦難を前に置かれるゴルゴダの山頂ではなくて、十字架の峠を越えて復活の恩賜の場所まで出かけることができなければなりません。イエス様が自己を中心として生きられたのではなくて神様の御旨を中心と見なして生きられたのとちょうど(全く)同じように、皆さんも信仰生活をするのにおいて、自分が救援を受けるために自分だけが良くなるために信じる観念を持たないで、神様の御旨のために生きなければならないのです。

 自身が良くなるための信仰観念を持っているペテロは自身も知らない間に三度もイエス様を背反したのと同じように、今日の皆さんも自己中心とする信仰観念を持っていたのであるならば、ある時ある瞬間ある時期に自身も知らない間に天を排斥する日が起こるのを銘心しなければならないのです。ちょうど皆さんは自身を信じる信仰生活ではなくてイエス様を信じる信仰生活、自身を探す信仰生活ではなくてイエス様を探す信仰生活を、自身のためにする信仰生活ではなくてイエス様のためにする信仰生活をしなければなりません。ペテロが自身を探す信仰生活をする時に、言うに言えない苦難が彼に断ち塞がるようになって、結局はイエス様との関係を断つようになってしまった事情を悟って皆さんたちはそのような場所を避けなければなりません。自身のためにする信仰生活からイエス様を敬って神様を敬う信仰生活に変らなければなりません。

 またその次にはペテロが不信の環境を信仰の環境に徊復して、彼が不信したのを心を痛めるのと同様に、皆さんも神様が望まれない不信を見て言うに言えない義憤心と敵愾心を抱いて行かねばなりません。そして聖徒自身を中心とする善ではなくて神様を中心とする善でなくてはならず、またその善が自身と関係を結ぶようにしなければなりません。この善を探すべき時にこそ初めてペテロが神様の御旨が成されない環境を見て悲しいのと同様に、皆さんもペテロの立場を代身して、世界人類のために悲しむことができて天と地のために悲しむことができるのです。

 今日皆さんにはお父様の前にイエス様の前にあるいは聖霊の前に、最後の勝利の功績を立てなければならない責任があるのです。そしてゴルゴダの道を行っているイエス様に背反しないでその方の後を従って行くことのできる皆さんにならなければなりません。そして皆さんは自己を心配する者にならないで、かえって自身の苦痛を忘れながらイエス様の後に従って行きながら先生よと勧告することができなければなりません。ちょうど皆さんはイエス様の視線を受ける人にならないで、かえってイエス様の立場に入って心配な心情でイエス様を慰めてあげられる姿にならねばなりません。どこの誰がこのことを成しましたか。ただイエス様だけがこのことが成就される一日を待焦がれて、人々のために今日まで苦労の役事を繰返して来られたのです。

 今皆さんは生活の中でイエス様の心配の対象にならないで、全所望を掛けていらっしゃるイエス様の御心を、また神様の摂理に反逆する自身になってはならないのです。ペテロがイエス様を不信した後に自身を振返って見て嘆息したように、皆さん自身の不信を嘆息して、神様の御旨を代身する切ないイエス様の事情に通じる心で、死を覚悟して出て行かなければなりません。そうしてイエス様が行かれるその道を私も行かなければならない覚悟を持って出てゴルゴダを越えてこそ、復活されたイエス様を新郎として迎えることができて、天の前に喜びと栄光を捧げることができるのを皆さんは銘心しなければなりません。


 祈祷
 人類の歴史路程をさえぎって天の勝利の基盤を立てながら宇宙的なゴルゴダの心情と悲しい大路を渡って行かなければならない使命が、今日二十四億の人類に残っていますから愛のお父様よ、イエス様を送られて心配されたあなたの心配は昔のゴルゴダにだけ成されるのではなくて、今日私たちの目前にもその心配が奥深くあるのを知ることのできる私たちになれるように許して下さいますように。

 兄弟の自身の不足さを心配して泣くことのできる者に勿論ならなければなりませんが、まずイエス様が意味される決心を心配されて泣くことのできる息子娘になるように導いて下さるように切に望みつつ願う者です。私たち自体の不完全さを心配して泣く者にならなければならないのと同時に、神様の御旨が成されないで悪なる世界になって、イエス様に対してわめきたてながらけなすサタンのたぶらかしを見て涙を流すことができて、懺悔することができる私たちになれるように許して下さいませ。

 イエス様はその生涯路程に常に神様が眺められる視線を感じながら、蕩減復帰の路程を完結するため亡くなられる瞬間まで復帰の祭物で自身を捧げられるように、私たちも今日ある時にイエス様が私たちを探して来られたけれども、私たちを眺められる視線と探し来られるその足取りを忘れないように許して下さいますように。また今まで私たちがイエス様のその視線と歩みを排斥する時に成ることがないように多くを悟れるようにして下さいますように。

 お父様、私たちが一度ではなくて二度三度まで背反するにもかかわらず、変らずに私たち人間を探し来られるイエス様の心情をどんなにか慰めてあげたならば、どんなにか天の前に涙を流したのかを悔改めする私たちになるように許して下さいますように。お父様を慰めるあなたの息子娘、世界的な審判の時が遠くないのですから、宇宙的なゴルゴダの園が私たちの目前に近ずいているのを知りますから、私たちが自身を中心に生きる信仰路程を歩んで行かないように引導して下さいますように。

 私たちの生命は私のものではなくて、私たちが生活する生涯も私たちのものではないのです。ならば私たちが所望する所願も私たちのものではないのでありますから、私たちに対して生きる生活にならないように引導して下さいますように。私たちの能力と私たちの要求と私たちの欲望、この全てのものを自身のために持たないように許して下さることを愛なるお父様切に望みつつ願うものです。

 私たちがイエス様の代身の十字架の道に行っても、最後にイエス様の変りない信仰を知って行くペテロが心から嘆息して、神様を信奉する同志としてイエス様が十字架を背負って行かれるのを見て涙を流すのと同じく、ゴルゴダの審判の日が来る前に、私たちがイエス様の前に悔い改めの涙を流すことができるならば、宇宙的な悔い改めを引受けてお父様の前に泣くことができて、自身の間違いを吐露することのできる息子娘になれるように引導して下さることを愛なるお父様切に望みつつ願うものです。

 お父様、私たちがイエス様の歩みを代身して歩みますから、お父様が私たちにこの地上の哀れな人々を救援することのできる使命を与えて下さってゴルゴダの道を私たちが歩んで行けるように許して下さいますように。そうして私たちが世界のいたる所のサタンを打ちこわして、勝利の栄光の基盤を成して私たちの生前に復活されるイエス様に侍ることができるよう引導して下さることを愛なるお父様切に望みつつ願うものです。

 終末にお父様の御旨を私たちが成せるように許して下さいますように。不信の自我を脱ぎ捨てて、永遠に信じることのできる自我として不信の世上を離れるように役事して下さいますように。お父様と一緒に永遠に安息することができて、天の方に立ってお父様の愛を持って億万のサタンを屈伏させて号令することのできる息子娘になれるように、引導して下さることを切に望みつつ願いながら主の御名で申しあげるものです。アーメン。



一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。
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