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2021.02.14
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​​​​​​​​​​​イエス様が望まれる人間になろう​

1957年2月17日(日) 前本部教会


​  祈祷​
 愛の園と善の園を失ったお父様! 長い間の歴史を経過されながら立てて置かれるそのひとつの御旨を探すことが出来ず、望まれる本然の真なる人間を探せず、お父様の事情を今日ここに集まっている息子娘たちが感じられるように許して下さい。まして父の永遠な摂理を代身して、お父様の愛の懐にいだかれるのに不足なき弟子たちとして立たれるように、この時間役事してくださいますように。

 私たちはひとつから全てのことに至るまで神様に要求しなければならない不足な立場にいますから、お父様あわれみの差しのべる手で引きいれて下さいまして、また先祖たちから受け継いだ罪悪の力と性禀の私たちの心の門を閉じておりますから、能力の恩賜を現わして暗い心の門を開いて下さいますように。善に向って歩みができるように引導して下さるのを愛なる(天の)お父様懇切に望みつつ願うものでございます。

 天の御旨に向って進んで行こうとする望みのあなたの息子娘の前に、様々な難しさが立ち塞がっていますから、お父様よ力を許して下さいまして能力の善き手で私たちをつかまえて下さりながら、この者たちにあなたが闘われた全体の闘いをまかせて  に許して下さい。そうして、億万のサタンの前に神様の御旨を高く讃めたたえられる息子娘になれるように許して下さる愛なるお父様、切に望みつつ願う者でございます。

 この時間あなたの膝の前に現れるようになる我々、お父様の前に捧げる何を備えているのか自ら反省して悟れるように許して下さいますように。万一お父様が喜んで受けられる礼物がない場合、自分で懺悔してお父様の矜恤のめぐみを受けることのできるこの一時になるように許して下さることを、愛なる天のお父様切に望みつつ願う者でございます。

 天が我々に与えられる使命は我々一人個体だけをしてのための使命だけではなくて、民族と人類をして千千万の聖徒たちの怨恨まで解いて上げなければならない使命を私たちは知る者でございます。取るに足らない私たちにそのような天倫の御旨を成就させ捧げなければならない使命がありますから、この場所に不足なあなたの息子娘たちの体、心を祭物として望まれる宇宙的なその一つの御旨を成されまして、その御旨を成すのに少しも不足さがない私たち自体として立てて下さることを、愛のお父様切に望みつつ願う者です。まだお父様の御旨の前に、お父様の恵みの前に、お父様の愛の懐の前に容納(寛大)に受け入れられない要素を抱いている子女たちがいるならば、お父様よ、能力の役事として再創造の御言として対して与えて、この者たちをしてお父様の心を知ってあげられないのに対して悔信の涙を流すことのできるこの時間になるのように引き連れて下さいますように、愛のお父様切に願う者でございます。

 取るに足らない私たちに三千万の民族を代身して闘うことの出来る天の使命を任されたのに対して感謝するものでございます。御旨を眺めて集ったあなたの息子娘たちが闘いの旗幟を上げて天に対して行かなければならない宇宙的な責任にありますから、お父様よ、この者たちにあなたの能力を与えて下さいませ。

 この者たちがお父様の御旨に対して行けないようにでなく、あなたの感動の役事をあなたの直接的な感動をこの者たちの生涯を通して現わして、永遠不変の路程に向かって駆けて行けるようにお父様この者たちを引導して下さいませ。そうして億万のサタンと闘って勝ってすべての群衆の前にお父様が一緒される息子娘、主を証拠しても残りがあるように導いてくださるように愛なるお父様切に望みつつ願う者です。

 この日は聖なる日、伏秦(謹んで申し上げる)のために約束して立てられた日であるのを知っていますから、今日ここに集るあなたの息子娘たちがお父様の深くて高らかな愛の懐に抱かれて天性の生活をなすことの出来るように、恩赦を許して下さいますことを切に望みつつ願う者でございます。

 孤独な食口たちが四方に広げて許される御言を伝えるために苦労する折々毎に、お父様よ、約束される御旨を現わして下さいませ。そうして生きていらっしゃるお父様の息子娘というのを証拠して、暗黒圏内にいる大勢の民を目覚めさせる直接的に役事があらわれるように許して下さいますのを、愛なるお父様切に望みつつ願う者です。今お父様の前に腹這いの私たち、お父様が応答出来ない主義主張や行動があっても、自らそれをみんな出しておいて尊厳なされるお父様の恩恵として精算受けるために、温柔謙遜して敬拝を捧げることができる心を懐けるように許して下さいませ。

 この時間サタンが侵入しないようにお父様主管して下さいまして、苦難に勝って勝利することができるように導いて下さるお父様の恵みの前に、感謝敬拝捧げられるように引導して下さるお父様切に望みつつ願う者です。ただ、御旨(心)と人間だけがこの一時一緒して下さることを切にお願いしながら、全ての御言を主の御名を通して祈祷する者でございます。アーメン。


 <御言>
 今日は、しばらくの間イエス様が望まれる人間になろうという題目のみ言葉をもって皆さんと一緒に考えて見ようと思います。


 イエス様の降臨の目的

 神様の胸の中に隠れていた天の御旨を代身して懐いてこの地上に現れたイエス・キリストは、我々の祖先たちが間違った罪悪史を明白にして乗り越えて、勝利の山上に良き真の息子娘を探すために来られた方であることを皆さんは良く知っています。それならば、イエス様がこの地上の人間たちの前に現れるようになった時どのような心をもって現れましたか。堕落する前人間が神様と対した心を懐いて現れたのでした。イエス様は自身が見て聞いて感じて考えられる全ては堕落圏からサタンが喜ぶことのできる感覚ではなく、天性を代身した者であるなら、人間に対して要求された全体の御旨を懐いて生涯の標準を立て、新しい福印のみ言葉を宣布されるようになったのを皆さんが知らなければなりません。

 イエス様が御覧になられた目、イエス様がお聞きになった耳、イエス様がお話しになった口、香りを嗅がれた鼻、全てのものを感じられたその肢體は地上の上の人間が自身の願いを成就するために感じる肢體とは違ったのです。それはひたすら罪悪の世上を超越して、神様の心に一致して神様の御旨の前に応答して神様が喜べるみ言葉を自ら実践して、万民が自己を模範とし現れることができる一つの勝利の条件として立てられたのである。

 それならばそのような心を抱かれたイエス様が望まれる人間はどんな人であるのか、言いかえれば(言わば)イエス様が探していらっしゃる人はどんな人であるのか? イエス様が望まれる人の基準が何であるのかを知ってその基準を徊復する人がないならば、イエス様が望まれる御旨がこの地上に成就されないだけではなく、神様の御旨も成就されないのである。これを皆さんは確実に知らねばなりません。神様がイエス・キリストを通して要求なさった御旨は、イエス様自身を標本として世界的勝利の条件として万民がイエス様と一つになることでした。ちょうど万民がイエス様を模範としてイエス様と喜ぶことのできる人に成るのを、神様も望まれてイエス様も望まれたのでした。このようにイエス様は万民を復帰しなければならない使命を持ってこの地上に現れられたのに、彼が話された御言や彼が体で感じられた感情や感覚は、今日私たちが用いている言葉や私たちが感じている感情と感覚とは根本的に違っているのである。

 それならばイエス様を主として集っている今日の私たちはどのようにしなければならないのか。まずイエス様が天の御旨を成そうとされるその責任感と、宇宙に対して久遠の歴史を完成させなければならない全体的な責任を負われたその心情を推測して知らなければなりません。そうしてイエス様が感じて体恤して考えたその一つの基準まで進んで、イエス様と直接に対することができる相対的な立場に立たなければならないのです。そのような皆さんになれないならばイエス様はかわいそうな方になってしまうのである。

 神様は全力を傾けてアダムエバを造られて置かれて、彼らを通して喜びを感じられようとされたのに、彼らが堕落してしまったので神様の心中に悲しみがしみとおるようになってしまいました。この悲しみを解いてあげるために来られた方が誰だったのかと言うならば、すなわちイエス様だったのです。ところでそのようなイエス様が地上に来られ何をされようとなさったのか堕落しない本然の人間と一緒に堕落性を脱いで、怨讐サタンの讒訴を受けない者として神様の前に堂々と現れることのできる一人の真の人を探して立てようとされたのでした。


 主様に侍られないユダヤ教団

 このようなイエス様の前に四千年の間準備されたユダヤ教が、イエス様が喜ぶことのできる一人の人を捧げなければならなかったのにそのようにできませんでした。このような立場に立つイエス様は昔、神様がアダムとエバを造られて彼等を通して喜ばれようとなされたのに、かえって彼等が堕落したために神様が悲しみを感じられたのと同様、神様の御旨のため準備されたユダヤ教が不信するようになったために、十字架に亡くなられるようになるやいなや言うに言えないやるせなさ(うら悲しい)を感じられたのです。

 それだから、皆さんは先祖としての始める神様の悲しみを解いてあげるために来られたのだが、ユダヤ教団が不信のためにこのようにもう一度悲しみの立場に至るようになってしまったイエス様のその恨みを(怨恨)解いてあげる聖徒にならなければなりません。万一そのような人になれないならば、皆さんはイエス様が望む人間になれなくて神様が望む人間になれないのです。これを皆さんは銘心しなければなりません。

 今日私達はイエス様が望む、神様が望む人に成るために集ったけれども、私たちの周囲にはそのような人になれないように邪魔する条件がたくさん散らばっています。それはサタンが常に私たちの行く道を邪魔しているためです。このようにサタンはいつでも私たちの生活に讒訴の条件を探し出そうとするのです。

 昔アダムとエバが何のために堕落したのかというならば、聞こえて来る言葉がどんな言葉であるのかを分別することができなかったためです。天使長の言葉をエバが聞くようになった時、その言葉が真なる言葉であるのか虚の言葉であるのか分別することができなくて行動して堕落が生じたのでした。それならば今日これを復帰しなければならない私たちはどのようにしなければならないのか、正しい耳、真なる耳をもって聞こえてくる言葉が善なる言葉であるか悪なる言葉であるかを自ら分別しなければならないのです。聞こえてくる言葉がどんな言葉であるか分別できない皆さんになるならば、皆さんも知らない間にサタンの誘惑に天倫を台無しにすることをしでかして     皆さんは知らなければなりません。

 今日この地上には皆さんの耳に響いている言葉がたくさん与えられているのを知っています。その中には神様を代身する天の御言もあるのです。人間の享楽を中心とする言葉もあるのです。サタンを中心とする言葉もあるのです。ところで皆さんがこの様な生活周辺から鼓膜を響かせ、聞こえて来るこの言葉がどの園から聞こえて来る言葉かを分別することができなければ、ある時ある所から皆さんがサタンの言葉を聞くようになって、それに因るサタンは皆さんの生命を奪うようになるか知りません。そうであるから皆さんは常に悟って善悪を正しく分別することができるだろうと知らねばなりません。

 万民を救うために御言を伝えられたイエス様は、当時ユダヤの民に「耳のある者たちは聞くがよい」と叫ばれました。イエス様がこの御言を話されたのは正しい耳をもつ者は自分の御言を命の御言として聞くので確信するのです。ところでイエス様が呼び求める声を地上にいる人間が天の御言として信じてくれる者が一人もいなかったのでした。

 それであるから今日イエス様の悲しみを解いてあげるために集った私たちに、イエス様が伝えた御言は自分の生命に代る御言です。天を代身する御言と思って耳を傾けるように思わなければなりません。またそのような私自体を反省して見なければなりません。皆さんが耳を傾けて天の御言を聞く者になるだけが、イエス様の御心の前に正々堂々立てることができるようになるのを確実に知らねばりません。

 そしてイエス様が四千年間苦労なさった神様の心情を代身する御言で、エデンの園からアダムとエバが堕落する全体の事実を(恢復)回復するための神様の事情を代身する御言で、感動の御言で、堕落世界を徊復するための復帰の御言で、民族の前に伝えられたのにその御言を聞く者が一人もいなかったのです。このようにイエス様を信じることができない先祖を持っている(備えている)私たちは、神様の御言とサタンの言葉を分別することができず堕落したアダムとエバの血統を受継いだ私たちであるので、復帰の道を行く路程に私たちを邪魔するサタンたちが多いのを悟って、自分に聞こえて来る一つの言葉もそれが本当のものであるのか虚であるかを正しく区別して聞かねばなりません。万一真と虚を正しく分別できない皆さんになるならば皆さんは神様の息子娘になることができないだけではなく、イエス様の新婦にもなれないのです。

​ イエス様の新婦になる資格​

 それならば終りの日を迎えている今日の皆さんがイエス様と永遠に別れることのできない新婦になるためにはどのようにしなければならないのか? イエス様が耳があっても知って聞けない民たちを見られて、やるせなさと寂しさに陥り吐露されたその声を皆さんがもう一度聞いて、その方を慰めてさしあげることのできる者にならなければなりません。そのような皆さんになるときに神様が願われる御旨、イエス様が望まれた御旨、千千万聖徒が願う御旨を皆さん自体として成して上げることができるのです。このように皆さん一人個人の耳を通して聞こえてくる御言の中には、歴史的であって宇宙的である責任が伴っているのを確実に知る皆さんにならなければなりません。

 その次には正しく見て知る人にならねばなりません。四千年歴史を代身して天から送られたメシアが、そのように非常に軽い姿で生まれるだろうと当時の人々は夢にも思わなかったのでした。そしてメシアを見てもメシアとして見れなかったのでした。ヨセフの子供として生まれて三十余生涯を、子供一人で大工の仕事をしたイエス様が、神様が初めて万民の前に見せてくださる一人の主人公だったのを、それを誰が知っていましたか? 誰も知りませんでした。誰も知らなかったのでした。

 しかし今日皆さんは、イエス様が歴史的な苦労の十字架を負っていらっしゃったのを正しいと思わなければなりません。ちょうど彼の一身自体は、神様が四千年間苦労された全体の路程を蕩減することのできる苦労の祭物として生まれたのを、正しく(間違いなく)見て知らなければならないのです。万一、当時の人々が神様がイエス様一人を探して立てるために四千年歴史過程に数多く先知者たちを送られて、イスラエル選民を形成して現されたのを知ってイエス様を知ったならば、なぜイエス様が十字架を負われましたか? イエス様を正確に見ることができて知らなければならなかったユダ民族の目が暗かったために、イエス様は一人ゴルゴダの山頂に残るようになったのです。しかしイエス様は一人で神様の御旨を、自身が喜びの場所に至ることのできなかったその事情と自己自体に万民の前に、または神様の内的な性相を万民の前に見せてくださるため呼んでその事情を知ることのできる人を探されようとされたのです。ところで、そのような一人の人をイエス様は探し立てられないで、結局十字架に亡くなられるようになったのです。そうであるから、今日六千年歴史を終結させるために御旨の道を歩んでいる皆さんは、皆さんと一緒に御旨の道を行くことのできる人を探して立てなければなりません。万一皆さんがその様な人を探し立てられないならば、イエス様が生まれた時追いやってしまった私たちの先祖達の過誤を、蕩減を立てることができないのである。これを皆さんは銘心しなければなりません。

 そのようなわけで今日皆さんは、皆さんの心をお父様の前に立てて置いて、亡くなられたイエス様がどんな姿で私たちに対されて呼ばれていたかを知らねばなりません。ちょうどイエス様が一人で泣き叫ばれ亡くなられた以後、聖書まで送られて今日私たちに向かって切なそうに手振りしていたならば、私たちに対して切ない心情を行動で現れていた事実を知らねばなりません。そうして皆さん自体が二千年前イエス様を知ることのできないユダヤ教人の立場を蕩減して、イエス様に対してやっぱりあなたは四千年だけに神様の御旨を代身する勝利的な一人自体として現れる存在としてだ、と言いながらそれに敬拝を捧げることのできる人にならねばなりません。それだけではなく、イエス様が来て行かれた以後二千年という長い長い歳月を通して、皆さん一人自体を探し立てるために霊的な世界からイエスと聖霊が苦労し来られたのを悟って知る人にならねばなりません。万一そのような皆さんになれなければイエス様の当時に結ばれた四千年の恨みを解くことができなくて、イエス様以後二千年歴史に結ばれて神様の悲しみを解いてさしあげることができないのです。それであるからこのように歴史的な栄光を背負っている皆さんは、過去の先知者たちが伝えた御言や行動したその姿をやたらに批判してはならないのです。

 それであるから今日このように皆さんが私たちに向かって手振りし話されるその聖人の前、歴史的な使命にいらっしゃるイエス様の形状の前に温柔謙遜に敬拝を捧げることができて、イエス様の友人になれる一人の存在が現れなければなりません。そのような一人の存在がこの地上に現れたならば、皆さんはその方を模範として三十余一生涯の路程を経て持って、二千年間苦労されるその心情を、実証的に慰めてあげることのできる新婦の席に行くことができるのです。


 イエス様を模範としなければならない我々

 それならば皆さんが罪悪の虜にされて死亡の墓の中で呻吟するようになった時、イエス様が皆さんを何度か探してこられるのを知っていますか? 皆さんは知らないのです。蕩減復帰しなければならない運命が残っているこの地上であるので、イエス様が十字架に亡くなられたその路程をその通りにおいてにするためにイエス様は皆さんを探してこられたのです。ちょうどイエス様が十字架の救援の摂理を立てる事ができるまでには、神様が四千年間に先知先烈者たちを送って摂理された苦労の歴史があったので、神様は皆さん自体を通してこれを再蕩減復帰しようとされたのです。言いかえれば私たち一人自体がたとえ一人個人であるけれど歴史的な価値を持てるようにして、イエス様と完全に一つになることのできる心を抱けるようにするためにイエス様は探して来られるのです。六千年歴史の罪悪の血統を脱がなければならない皆さんであるので、イエス様は数多く先知先烈達が地上に御旨を成就させることができなかったその恨みを解怨するために、皆さんを探して与えていらっしゃるのです。ちょうどイエス様が、ある時ある所にあっていても神様が堕落しなかった所のアダムに対されたのと同じような心情で皆さんに対して下さいます。

 神様はノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、四大先知者など多くの先知者たちを通して御旨をなされようとされたので、彼等は神様の御旨をみな成して捧げる事ができませんでした。この様な歴史的な全体の摂理の御旨を成して捧げるためにイエス様が来られたり、イエス様もユダヤ民族の不信によって御旨をみな成す事ができなくて十字架に亡くなられたのです。今皆さんがこれを引き継いで受けて成さねばならない歴史的な責任を完遂しなければなりません。そうして皆さんは宇宙の中心存在であるイエス様に似なければなりません。

 ちょうどイエス様と同様に宇宙の中心存在として、歴史を代身してこの全ての者を蕩減させようとしてイエス様が見せて下さる生活姿勢を模範として、その通りに実践しなければならないのです。このような人にならなければ終日にイエス様から証拠を受ける事ができるのです。今までキリスト教徒は十字架に亡くなられた主様だけを眺めながら信仰生活をしていました。しかしそうしてはならないのです。皆さんは四千年の歴史過程の一生を通して蕩減するイエス様というのを知らねばならず、イエス様の全生を眺めながら信仰しなければなりません。

 今日も、過去に来て行ったりしたアブラハムやモーセ、あるいは洗礼ヨハネの使命を担当する人々がいるので、彼らは個人的な使命だけするのではなく歴史過程に生まれた数多くの人々の使命を果しているのです。皆さん自身もこんな使命と責任を負っているので、その使命と責任を完遂するならばイエス様の全生活を模範としなければならないのです。よくよくそのような皆さんになるならば皆さんは新しい人になることができるのです。

 今日キリスト教徒の中によくよくイエス様の御言に耳を傾ける人々がどのくらいいますか。イエス様は六千年間、ある一時安らかな時がない程に苦労の道を渡って来られる神様の切ない心情を持って、人間たちを探して来られたのです。ところでそのような心情を持ってイエス様を迎えてイエス様の心を慰めてイエス様のその尊厳な聖人の前に、イエス様が眺める自体として立った聖徒が少なかったのでした。今日真の聖徒になるための道を行く皆さんがまだそのような基準に到達できないならば、皆さんも皆さん自体を反省しなければなりません。そしてひと歩みもっと行く皆さん自体を天の前に祭物として捧げられなければならないのです。

 今日人間はイエス様が切ない心で自分たちに向かって手振りしても見ることができず知らない人々になったのです。それだから今皆さんは聞くことのできる耳を持つと同時に見ることのできる目を持たねばならないのです。皆さんは真理の御言を聞くことができると思うと同時に見る事ができると思わなければなりません。その次ぎにはイエス様を代身して真理を話す事のできる口を持たねばなりません。ちょうど皆さんはイエス様が伝えたかった内的心情を代身して、この地上に生きている可愛そうな人々に、見て聞いた六千年歴史とイエスの生涯と事情を正しく紹介してあげられるような人々にならなければならないのです。この様な人々を探していらっしゃるならば神様も探していらっしゃるのです。

 今日皆さんたちはイエスの心に涙ぐむ話をしなければなりません。二枚舌を持つヘビの血統である皆さんであるが、皆さんは二つの言葉を話してはならないのです。皆さんは神様の側の御言を聞いて神様の聖さを見てその事実を偽り無く、二つの舌を持つ人間ではなくてひとつの舌を持つ人として万民に現す事のできる人にならなくてはならないのです。神様はこの様にあなたの舌を代身することのできる義憤ある人、イエス様の舌を代身できる一人を探していらっしゃるのです。


 御言を伝えなければならない真の聖徒

 本来私たち人間は神様を中心に生きる本性を持っています。神様によってを負う本質を持っている人間の心はいつでも、天性の心に似た、それを自分たちの真理の標準として見なすのを願っています。この様な本心を私たちがもう一度徊復して、イエス様の心と体を見て、イエス様の言葉を聞いて、もう一度それらを私たちの心と体の中心として立てなければなりません。さらにこれを通して私たちはイエス様の代身存在になってこの死亡世界にイエス様が伝えられた御言を伝える私たちにならねばなりません。天はこのようにイエス様の御言を伝える口と舌を持つ者たちを探して来られたのを皆さんは知らねばなりません。

 今日人間たちは二つの話をする人になりました。心は一つなのに二つの話をする人間になったために、これを精算して一つの話をする人間として徊復させるためのものが摂理歴史だというのです。みなさんが万一神様の御言を代表して話をして、イエス様の心情と生命を代表しているこの様な自信感をもって、一つ一つの生活をして一生を変り無く過ごして行くならば、皆さんにはサタンの讒訴がないのです。また皆さんはサタンの試練をうまく通過することができるのです。

 そうであるから終末に処す今日の皆さんは真なる聖徒にならなければなりません。ちょうど六千年歴史を代身して神様と一致することのできる御言、数多くの先知先賢たちを通して教えられる御言、さらに個人的にではなく全体的な御言、そしてイエスと聖霊が二千年間苦労されながら伝えられた御言を皆さん自体が実体的に証しすることができて、再創造の歴史を起こすことのできる神様の御言を伝えなければならないのです。

 よくよくそのような人がいたならば、千千万聖徒たちがその御言を歓迎するのであるならば、天を慕う人々も自然に霊界の動員を受けその御言に従うのです。またその御言を永遠の御言として生涯の最高の御言として、立てた不変の心情で自己の生命をかけて伝える者がいたならば、神様がいないのではない以上、イエス様と聖霊、千千万聖徒達がいないのではない以上、彼等の加護の下に必ずこの地上に再創造の役事を成しているのです。それで今、私たちはイエス様がされる御言が二千年前のだけ該当する御言ではないのを知らねばなりません。それならばイエス様の切なさは何なのか、終日が近ずけば近ずくに連れて、また審判の日が近ずくならば近ずくに連れて、イエス様は、人間が世界人類を探すために来られた当時の心を模範として祭物の路程を経て神様の方に抱かれるのを望んでいられるので、このようなイエス様の心を知らなくて、自分の気の向くままの生活で暗闇に引いて行って審判の台に引いて行ったのです。このような姿を眺めているイエス様は言うことのできないやるせなさを感じられたのです。

 それだから皆さんは、二千年前に救援摂理を終結させるために来られたその時の心よりもっと切ない心で皆さんを眺めていらっしゃるイエス様の心を、その内的心情を体恤して、それを代身して人間に話すことが出来なかった歴史的な全体の摂理と、全宇宙に対するイエスの御言を万人類に伝えてあげる真の人にならねばなりません。イエス様はこのように、あなたを代身して御言を伝えることのできる真の人間が現れるのを丁寧に見ていらっしゃったのを、皆さん知らねばなりません。

 そして天倫の御言を代身するイエス様であるが、それをみんな話されることができず亡くなられそのやるせなさを感じて、審判の恐ろしさを知らない人間に神様を代身して御言を伝えて、聖霊を代身して御言を伝えて下さる真なるクリスチャンをイエス様は探して来られたのです。そして神様も全ての人間がイエス様の一生を模範として、それによってあなたの愛の懐に抱くのを眺めて長い間の歴史を歩いて来られながら苦労されたのです。

 今皆さんは皆さん自体を軽率に考えてはならないのです。皆さん自身は自ら考える時至極に末備なのであるが、神様は六千年間皆さん一人を探すために苦労して来られたのです。またイエスが二千年間苦労して現れて来て、数多く先知先烈たちが長い歴史過程を経て来ながら苦労して出て来られたのでした。それで皆さんは皆さん自体を尊く認めてサタンとの終りの勝負を決める戦いで、神様が勝利の一つの条件を立て、捧げるための祭物とならねばなりません。そうして「宇宙を代身して神様を代身して堂々と責任を負って生きたのです」と言うことの出来る勝利者になって、どんな言葉でもどんな命令でも受けることが出来なくてはなりません。実際この様な自身になっているのかを皆さんは反省しなければなりません。

 私たちが平凡な社会生活にあって、外的に見れば神様の子供やサタン圏内にいる人にも似ているようにみえます。しかし神様は、イエス・キリストが切ない事情で人類を救おうとされた御旨を代身する人格者、あなたの性禀を代身してこの地上に来られたイエス・キリストの内外的な人格の基準を、完全にこの地上に成そうとする信念を持って真の息子娘を探していらっしゃるのです。

 万一、皆さんがよくよくその様な心情を抱いていたとするならば、皆さん自体が喜ぶ日が生じたと心のままに喜ぶことが出来なければならないならば、楽しい日が来たとしてむやみに楽しむことが出来ないのを感ずるのです。なぜならば神様の悲しい心情は、皆さんの家庭を越えて社会を越えて全ての世界、天にいる千千万の聖徒の怨恨まで由来するためです。それで皆さんは神様の悲しみの心情を皆さん個体で中断させなくてはならなくて、皆さん個人や家庭に局限させて生きる人にならなくてはならないのです。

 皆さんは時間と空間を超越して天宙の全ての存在と心情で共鳴することの出来る人格基準を持たねばならなくて、全体的な完成を代表する価値の存在にならなくてはなりません。このような人がこの地上にいたならば天は落心しないのです。またこのような人は地獄に別れてこそ行くことが出来ないのです。このような責任を負って一つ一つの生活の中で環境の悪に対して闘わねばならない皆さん自身を見極めて見れば、心は神様の御旨を受入れられるが体はこれを反対するのです。それならば神様が望まれる完成の基準は何であるのか。それは人間が心から神様の御言を受入れて、体がもう一度その御言を受入れて一つになるのです。そのような後にはその御言が周囲の環境に伝達されるのです。万一神様の御旨が私を中心としてこのように成されて行くならば、神様が許される心を中心を通して私の心が永遠を慕いながら感動させることが出来るのです。このような基準を皆さんが地上に完成する前には、永遠の神様の真の息子娘になることが出来ないのです。

 それならば神様の息子娘の証拠は何で知ることが出来るのか? 皆さんの行動それ自体だけでは知ることが出来るのではありません。行動は誰でも出来るものであるのに、それ自体を見て判断することは出来ません。行動するのはその人の心に出る神様の息子娘です。イエス様の友達と言うことの出来る内的価値の要素でなければならないのであれば、それがもう一度実態的に現実に連結されねば神様の息子娘となることが出来るのです。神様から心に命令して聞こえて来るのを体と自由に与え受けることの出来る関係、ちょうど心が願う通りに体が動いて、体が願うならば心が一緒に動いてくれることの出来る関係を成してこそ神様の息子娘となることが出来て、またこの地上に再創造の役事を成すことが出来るのです。

 それならば今日皆さんが今神様の前に「お父様」と呼ぶならば祈る前に何を考えなければならないのか。それは皆さんの心の核心を探して入って、その心の核心がイエス・キリストの形象を代身することが出来るのを自問自答してみるのです。堕落した人間の先祖からサタンが生命を奪ってしまったので、皆さんにはイエス・キリストの形象を代身することの出来るそのような性禀がなかったのです。そして今日まで数々に人間たちはこの永遠不変の心、人間の良心の核心的渓谷を乗越えて、越えて天倫の道理を立てて現れて来るために身もだえして来たのです。そのような訳で、万一皆さんがイエス様を信じているのでその心をもう一度帰一させるのには、皆さんがその心の命令を通して体を屈伏させるのは問題がないのです。

 神様の御旨を相続する者

 ところで今日人間はここで苦しんでいます。心に遠くから響いて来るものが体を刺激するのが、その体が順応できなくているのです。それは体を刺激する力が不足するためです。それで今日皆さんは体に強く刺激することのできる心の力を育てなければならないので、そのためにはイエス様の心情と御心を正確に相続する者にならなければなりません。

 そのような訳で今日のキリスト教信者がイエス様に対して祈祷しています。彼らは苦難のイエス様を慕わないで栄光のイエス様だけを慕っているがそれではだめです。復活と栄光があるまでには、人知れない苦難の路程を歩まれたイエス様であったのを知らねばなりません。それであるから皆さんも人知れずに苦難の路程で勝利して栄光の席に出て行ってこそ、歴史的な罪悪の轡を脱ぎ捨てることができて、復活されるイエス様の心に相対することができる価値を持つ存在になることができるのです。またこの地上に全体的な復活の役事を成させることができる一人の主人公にれるのです。

 今、今日の皆さんはお父様の前に祈る時に愚かな祈祷をしてはならないのです。皆さんは皆さんの心を通して祈祷することのできる人にならねばなりません。皆さんが体を通して現れる言葉や行動が皆さんの心の中心と連結させる時、その言葉や行動は神様とサタンはたはある人の前にも恥かしくなくて当然なのです。神様は即ちこのような存在を探していらっしゃるのです。

 そのような訳で皆さんの心に永遠に実存できる本性の力があったならば真なる人格を形象しなければなりません。皆さんがあるものに対してある場所に身を置いてもその様な永遠不変の核心的な真理を受入れて、それを中心として言うのであるならばその言葉は神様の代身再創造の役事を成させるようになるのです。それならば今皆さんが闘わなければならない怨讐はどこにいるのか。皆さんがイエス様が聞かせて下さった御言を信じて、見せて下さる路程通り歩んで行きながらイエス様を代身して御言を伝えるようになる時、皆さんを邪魔する者が何でしょうか。それは世上を通して入ってくるサタン、肉を通して侵犯してくるサタンの矢じりです。エデンの園で第一番目に近い立場にあった所の天使長がエバを堕落させたのと一緒に、今日の皆さんにあってもサタンが最も近い姿で聞くにはよいものを持って現れるのです。また現れる御言がそんなようになるように現れるのです。それだから皆さんは皆さんの心を守ることのできる皆さん自身の聴覚があらねばならず、資格があらねばならず、変らない心の基準があらねばなりません。万一皆さんにそのような基準がなかったならば、皆さんが予期しえない瞬間に持ちあげて来るサタンの侵犯を遮る(止める)ことができないのです。

 反面に皆さんがその様な不変の核心を持って心が願う通りに体が動くことができて、常に神様が喜ぶことのできる生活をするならば、皆さんにはもっと神様に全部たまえて与えて下さるのを懇求する祈りが必要ないのです。堕落した人間であるので復帰の運命に逃れようとするから贖罪の祈祷が必要であるのです。そのような訳で今日の皆さんには最も重要な、ちょうどさんさんと輝く太陽の力に比較することのできる心の核心を持つのであるならば、皆さんが心体で動いて定めて全ての万象を区別することのできる宇宙的な知識、知識人の尺度を持たねばなりません。そうしてイエス・キリストが天性を代身して全体の御旨を代身された御言を皆さんが引き継いでこそ、人類に伝えることができる者たちにならねばなりません。そうすることのできる者たちになれなければ神様は皆さんを安心して信じて対することができないのです。

 なぜならば神様は善の行動としてだけ現れる者に相対されながら、真なる御言としてだけ自身を現される方なのです。偽りの姿で現れる神様ではなくて、ひとえに一つの御旨、一つの性禀を持たれる神様であられるので、来たり行ったりする二つの心を抱いている人間とは相対することができないのです。これを皆さんは確実に知らなければなりません。


 善なる者に相対される神様

 そして皆さんはサタンよりももっと恐ろしいものが人であることを知らなくてはなりません。神様は善としてサタンは悪として各々自体の立場を現しているが、人間は二種類の行動を兼ねているのです。神様を信じて現れる時には善として現れるようになって、サタンを中心とする時には悪として現れるようになるのです。それで今日の皆さんは自身の立場をどのようにとらねばならないのですか。皆さんの実生活でサタンの立場をとってはならないのです。立体的としてや平面的としてやサタンの讒訴条件にひっかかる生活をしてはならないのです。絶え間ない祈祷と精誠の生活を通して鋭利な刃物のような知恵で善悪を正しく分別できるその何かを持たねばならないのです。

 しかし皆さんは知恵だけを追求してはならないのです。なぜならば知恵だけ追求して見るならばサタンのように悪賢い人になりやすくて失敗しやすいためです。それならば信じるならばできると言ったキリスト教がどうしてこのように分裂したのか。皆さんが信じるならばどの程度まで信じなければなりませんか。イエス様を眺めながら所望を抱き、信じて来たところの御言の内容はどこまでであるのか。神様の御旨を代身して立てられた真理の基準はどこまでであるのか。今日までの言葉だけではだめなのです。真理の核心である神様の人格を抱いて神様と一体と成す不変の姿にならなければならないのです。そうして時代が変って環境が変っても変らない生命体にならなければならないのです。皆さんが神様と一体となれば、神様が不変の姿ならば皆さんも不変の姿になることで、神様が唯一の存在になるのであるならば、神様が永遠にその理想の園を離れられないならば皆さんもその理想の園から離れられないのです。

 ところで現在皆さんはその様な立場にいないのです。皆さんは現在皆さんが朝に起きても夕方に寝ても昼に行動しても、サタンよりももっと恐ろしそうに思わなければならないのです。天宙を台無しにする張本人であるサタンではなくて人間にあるのです。天宙を繁栄することのできるのも人間であるのです。皆さんはこのように天宙を台無しにして繁栄するようにするのが皆さん自身であるのを銘心しなければなりません。そして皆さんは天の標的になることができて、サタンの標的になることのできる岐路に置かれているのです。このような岐路に立っている皆さんが天の側に屈しようとするならばどのようにしなければならないのか。まず皆さんは天の言葉を聞いて知らねばなりません。さらに天の模様を見ることができなくては、天の話をすることができなくてはならないのです。そのような皆さんになって善悪を分別する標本の役割をしなければならないのです。そのためにまず皆さんは皆さん個体を探すために闘わなければなりません。同時に環境を復帰するために闘わなければならなくて世界と天宙を復帰するために闘わねばなりません。このような過程を歩んだその後イエス様が皆さんに探して来ることができるのです。それならばイエス様はどんな姿で来られるのか。復活の理想的標準として来られるのです。そしてこの地上に来られて、最高の福音を宣布されるのです。また全ての栄光を現されるのです。

 このような宇宙的な復活の主が来られるようになる時、皆さんは審きを担当しても、死に会うようなことが会っても、変らない主様に侍って従う人にならなければなりません。そうでないならばイエス様の姿を見て、イエス様の御言を聞くところとして止めるのです。新郎新婦の関係を結んで天を代身して永遠に愛を与え受けながら生きている新婦になることができないのです。復活直後にマグダラのマリアがイエス様を探して行く時、イエス様は「私に触れてはならない。私はまだ父の身元に上がっていないから」(ヨ二十:十七)とおっしゃいました。そうであるがイエス様はマグダラのマリアが彼自信を慰めることのできる心を持っていたので彼女に現れたのである。

 このように、自身を越えて天倫の理想と御旨を感じてこそ、その感じる心に主様は現れるのです。皆さんが神様の御言を聞いて神様の御言を代身して伝えることができるならば、主様は上がられなくても来られるのです。かえって主様が皆さんに向かって上がって手まねして、腕を開けていらっしゃるのを皆さんは知らねばなりません。神様もやっぱりそうなのです。


 真の息子娘が現れるのを望まれる神様

 今日私たちがこのような宇宙的な責任を担当することができないならば、眠っている民族と世界を自覚させることができません。今は時間と空間を超越する四次元的な世界として捉えている時です。このような時皆さんは、主体性を取揃えている天倫的な人格者、或いは天宙的な人格者が現れるのを望む天の内的心情を推測しながら、生活の中で聞くことができて見ることができて話すことができる人になったならば「神様よ来ないで、イエス様よ来ないで」と言っても神様とイエス様が皆さんの元にやって来なければならない、やって来ざるを得ないのです。またそんな人たちが多く現れてこそこの地上に平和が来るのです。

 今日皆さんは上がってゆくために祈祷しないで、神様が皆さんを探して降りて来ることができるように祈祷すべきことを知らねばなりません。神様が皆さんを探して降りて来るようにすることのできる人格者、イエス様の新婦になることのできる真なる(キリスト者)クリスチャンがこの地上に現れたならば、神様が親しく興動して彼を探して下さるのです。ちょうど神様が六千年間苦侍して来た真なる平和の息子娘、真なる人の息子娘がこの地上に現われたならば、神様が喜ばれるだけではなく万物万象まで彼等と一緒に喜ぶようになるのを皆さんは確実に知らねばなりません。

 このような天宙的な使命の責任を二つの肩に負っているのが今日のキリスト教徒であるのに、それを深く悟れないでただ「神様お父様」だけ呼んでいるのです。そうしてはだめなのです。十字架の道、逆境の路程を開(貫)いて勝利した後に「お父様よ」と呼ばねばならないのです。そのような者を天が探しているのです。また平素にそのような心情の基準を立てて生活するようになるならば、何を見るや否やする前に見せて自身が言う前に言葉がひとりでに出てくるようになるのです。このような見地まで皆さんが行かなければならないのです。

 ところでここに皆さんを遮る怨讐らがいるのです。イスラエル民族がイエス様の三十余の一生の路程に自分達の因習的な条件、歴史上に現われたある条件でイエス様を遮ったのと同様に、今日皆さんにもこのような事件が現われるのです。それだから今日の皆さんは歴史過程に現われたイスラエル民族と同じ姿になってはならないのです。歴史的として終わってくる過去の因習を果敢に打破して行くべきことを知らなくてはなりません。復活の結実に向かって新しい理想の園を探して行く皆さん! 歴史の過程的な現象を皆さんの体心に連結させて天の御旨にしみとおってキリストに従って、キリストの人格を代身することのできる皆さんにならなければなりません。その様な皆さんになってこそ、新しい理想の園で神様が話して見せてあげて聞いてあげて見たいものを受けて担当することができるのです。

 イエス様が天地万象に変わらない現実に入って行っても変わらない(不変の)姿で歴史過程で現われた因習的な条件を打破して神様を愛されたその路程を、今日の皆さんが模範にしなければなりません。天の御旨の道を行くところにあっても皆さんの環境がぶつかって来ても不平を言わず、恐ろしさと恐怖に感じるサタンの試験が来てもそれに勝って主様に侍ることのできるものにならねばなりません。そして皆さんは主様に侍る所にあっても自由の中にも最高の自由栄光の中にも、最高の栄光喜びの中にも最高の喜びの席で主様に侍らなければならないのです。そして歴史的に現われたサタンのすべての讒訴条件を逃れてお父様を呼ぶことができなくてはならないのです。そのような者にならなければ天は皆さんが話す前にまず皆さんを探し与えられるはずです。それだから皆さんはそのような基準を皆さんの生活過程で立てなければならないのです。

 神様はこのように御自身の宇宙的な愛を中心に見る体恤的な人格の価値を持った一人の人、イエス様を代身して歴史を代表する人格の価値を持った一人の人をまず探して来られたのである。このような人が集って国を探して世界を探して天地を探して与えるイエス様は望んでいらっしゃるのです。またそれが神様の御旨であるのを皆さんは知らねばなりません。

 今日皆さん自身がサタンの讒訴条件にとらえられていても、あるいは皆さん自体を屈伏しようとして億兆万の逆境が押しよせて来ても、皆さんは不変の姿で神様とイエス様の中にある全体の秘密を引き継いで持ってそれを解いて捧げる実体者になって、サタンの讒訴条件を逃れるだけでなくサタンと闘って屈伏させることのできる勝利の主人公になって、神様を慰めることができてイエス様を慰めることができなくてはならないのです。

 イエス様が三十余の生涯を歩まれて十字架に亡くなられた日が近ずいた時、愛する弟子達を集めておいて「私はまだあなた方に話すことが多くあるが今はあなた方には耐えられない」(ヨ十六:十二)とおっしゃいました。これを見るならば使徒たちがイエス様の御心を悟れなかったのを知ることができます。それだからイエス様の御心を悟れない使徒ではなくて、イエス様の御心を悟れる新婦になって妻の立場まで行くことのできる人格の基準を立てて、イエス様が残した御旨を責任を受けてイエス様を安息させて差し上げられる人にならなければ、サタンを屈伏させてサタンを抱いて神様の前に行って「永遠な勝利の栄光を一人お受け下さいませ」ということのできる人にならなければなりません。そうしてこそが六千年間復帰摂理していらっしゃる神様の怨恨が解かれるのであります。イエス様が探し望まれた真なる新婦を探すことができるのです。さらにイエス・キリストが望まれる真なる妻を探してこの地上に平和の園を建設することができるのです。

 今御旨に従って立った皆さんは自身がサタンよりももっと恐ろしい存在だと言うことを銘心して、どのような過程でどんな難しい路程があったとしてもどのような険しいことがあったとしても、皆さんの心の中に決められたその御旨を掴んで天倫の公認を受けるその日まで変りなく闘って勝利する者になって、イエス様の前に謙遜にひれ伏すことができなければなりません。皆さんがそのような人になってこそはじめてイエス様が望まれる人になることができるだけではなく、すべての人類がそのような皆さんを愛の標準としてお父様の前に栄光の席に立たれるのです。これを皆さん銘心しなければならないのです。





一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

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Last updated  2021.02.14 19:13:52
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