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奇   知   外   記

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2021.11.18
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​​​​​​​​​​​​​「我々と善悪闘争史」

1984年3月11日


 宗教生活においての習わしは聖日礼拝、聖日の夕拝、水曜日の夕拝、金曜日の夜の集いです。一週間に一度集まるくらいは熱心でなければなりません。

 私たちの統一教会は、継続的活動をしているので、アメリカでは水曜日に集まっていませんね?(朴先生、「はい」)。これからはそれを修正しなければなりません。いかなる宗教団体においても、集会を数多くする方がいいわけです。

 きょうは、『我々と善悪闘争史』という題目でお話ししましょう。堕落した私たちの世界には二つの道がある、ということは原理を通してはっきり知っています。一つは善の道であり、今一つは悪の道です。では、もし堕落ということがなかったなら、この世界はいかなる世界になっていたのでしょうか。そのことを皆さんは明確に知らなければなりません。

 善悪の定義は、『私』を中心としてなされます。皆さんが善悪を決定する中心になるということなのです。では善と悪はいかなることかと言うと、善は神と連結され、悪は神と反対存在であるサタンと連結されるのです。善の道は栄光の立場に連結され、悪の道は地獄に連結されるのです。

 今日の社会においても同じようなことが言えます。善なる人は自然に高い所に上がって行き、悪なる人は自然に落ちて地獄に行くのです。善は上向きとなり、悪は下向きとなります。それは誰を中心としてなされるかと言うと、善悪はいつも『私』を中心として決定されるという事実を知らなければなりません。このようにみる時、皆さん一人一人は『私』を中心としているのです。性が異なり、性格が異なっていても決して自分を善と悪から切り離すことはできないのです。常にこの二つの言葉は皆さんの左右に付いているのです。善と悪が他にあるのではなく、『私』と直結されているのです。

 最近の若者たちは、社会悪とか、ユートピアとか、善の世界が云々と言っていますが、それは他にあるのではなく自分の中にあるのです。自分から始まらなければならないのです。このような観点を忘れているのです。ですから、いくらPRで、「ユートピア、善の世界ができる」と言っても、今日の『私』がその世界と関係を結ぶことができなければ、それは私と何ら関係がないのです。

 アメリカには、良い学校が多いけれども、その学校がいくら良いとしても、『私』がその学校と関係を結ぶことのできる学生とならなくては、私と何ら関係がないのです。したがって、すべてはあなたに結び付いています。皆さんが善悪のすべての決定の出発点であるわけです。一般の人が善悪について考える時、彼らは自分から離して考える傾向があります。しかし実際にはそれは正しくないのです。自分と関連のない善悪はないのです。

 誰しも自我というものがあります。だからあなた自身の観点から考える場合に、自分の善はどこにあるのかということを考えなければなりません。それが問題です。善というのは自分と関係なく、そこらにころがっているのではありません。私と離れているのではなく、私と直結されているのです。悪についても同じです。私と連結されています。ですから私を中心として上がったり、下がったりします。

 では自分自身の善をもつためにはいかにすればいいか、自分自身の悪を清算するにはどうすればいいかという問題が、今日皆さんの生活の当面の課題なのです。自分の中のどこに善悪の根拠があるのか、これが問題です。

 堕落することによって人間は二つの面をもつようになりました。それは霊的な面と、肉的な面です。それは間違いありませんね?(はい)。

 堕落しなかったら、人間は神を中心とした二つの性稟を表すはずだったのですが、堕落したことによって二種類の人間になってしまったのです。肉的なものは悪の基盤となり、霊的なものは善の基盤となってしまったことを知らなければなりません。したがって私の体はサタンの舞台となり、私の霊は神様の舞台となるのです。善悪の根拠地はどこにあるかと言うと、他にあるのではなく私自身にあるのです。地獄へ行くのも『私』にかかっているし、神の人になるのも『私』にかかっているのです。それゆえ神様もサタンも『私』を中心として闘っているのです。

 パウロですら“わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう”と、嘆きつつ闘っているのです。

 理想世界やユートピアを追求する人は必要ですが、その前に、私の体はそれに反対する要素で完全に占領されているので、自分自身に規律を与え、理想世界に至り得るような自分自身を備えることが、最も重要な問題なのです。これを解決しない限り、いくら「善なる世界だ」、「天国だ」と言っても、何ら皆さんとは関係がありません。

 私の体は善なる舞台と悪なる舞台に引っ張られていますが、善なる舞台へ引っ張られた時は神様が役事し、悪なる舞台に引っ張られる時にはサタンが役事しています。何の話かわかりますか?(はい)。では善と悪は同居することができますか? それはできません! 私の体が悪の根拠地になっていて、心は神の根拠地になっているとしたら、どうすれば良いのでしょうか。それが問題なのです。善と悪とは共存することができないのです。もし共存すれば必ず闘争になります。そのような闘争の要素を私がもって天国に行ったら、闘争は決してなくなりません。もし天国に行けば直ちに「あなたには悪が介在している」と言われて、追放されるでしょう。それで今日、私たちは信仰生活を必要とするのです。

 宗教の使命は、私の体の中で闘争するサタンの根拠地を清算することです。このことを知らなければなりません。今日、宗教を信じている人たちは、自分を覆い隠して、この世界の善を求め、悪を分別しようとしています。しかし、それは宗教の本来の目的から逸脱したことなのです。

 今日、終末時代においては、民主世界は唯心世界、共産世界は唯物世界と、二つに分かれていますが、それらは闘争する大きなブロックとなっているのです。その原因は何かと言えば、人間個人によるものなのです。このことをよく知らなければなりません。『私』という種を植えておいて、それが実を結んだ結果なのです。今日の世界の人々は、共産世界と民主世界の問題は、アメリカとソ連がそれぞれに責任をもつべきだと考えていますが、それがいけないのです。それが問題ではありません。問題は私の個体にそのような要素をもっているという事実が、より恐ろしいことなのです。このことを明確に知らなければなりません。

 では何が問題かと言えば、サタン世界において、私たちはいかにしたら悪を清算することができるかということなのです。これを大まかに言うならば、肉的なものにはサタンが相対するから、肉的な基準が要求するすべてを否定しなさい、という原則を立てざるを得ません。

 きょうの題目は『善悪闘争史』ですが、善悪闘争はどこから始まったかと言うと、人間個人個人の中から始まったのです。これを清算していかなければなりません。それは、誰からやらなければならないかと言うと、自分自身からやるのです。家庭に勝たなければならないのではなく、『私』に勝たなければなりません。私が最初なのです。自分は国家的な基準で、世界的な基準で、あるいは霊界に行ってからの闘いに勝とうと思うのではなく、まずその闘いは、私自身から勝利しなければなりません。何の話かわかりますか?(はい)。皆さんもそう思いますか?(はい)。実感できますか?(はい)。

 我々は本当に善と悪を明確に知っているでしょうか? 真理を知れば、真に解放されるので、善を追求する人は肉を打つのです。この闘いを続けるのです。

 私たちの日常生活は、良いものがあれば先に良いものを食べようとします。それで、サタン側の悪い食べ物と神側の善なる食べ物と、どちらを先に食べるか、根本的にどちらに属するかを自分自身に聞くのです。食べるにおいても、私は善のために食べるのか、悪のために食べるのか、それが問題なのです。

 食べ物というのは、この宇宙の共有物であり、共同価値をもったものなのです。その食べ物は“善い人々に食べられたい”と思っています。そして“善い人々の栄養素となり、善のために用いられたい”と願っています。しかし悪い人々が食べて、悪い人々の栄養素となるとしたら、その食べ物は喜ばないでしょう。着る服も同じです。「私は善なる人に着てもらいたい。悪なる人は嫌だ」と言うのです。問題は深刻です。日常のすべてがそうなのです。考えるのも、話をするのも、すべてが善と悪の二つに分かれているのです。だからすべては自分自身の中で決定されます。『私』がいかなる人間となるか、これが問題です。

 ではサタンを防御しながら、善なる方へと行くことのできるのはいかなる道なのでしょうか? 宗教は善なる道へ行く方法を教えてくれます。宗教の教えは肉体が求めるものをすべて拒否するのです。すべてを否定するのです。自分を中心として高くなろうとすることを、みな拒否しなければなりません。そのために昔の修道士たちが苦行をしたのです。仏教においても同じように苦行をするのです。例えば、ある人が空腹となって、心を失い、“食べ物を得るためには何でもしよう。物を盗もうと構わない”と、そういう考えになるとします。その時、その人の中にある善なる心はその欲望に対して“否”と言います。食べ物を食べること自体は基本的に毎日必要なことです。しかし私たちはそれがいかに重要であるかということを知っていたとしても、根本的な基準に立ち戻って考えなければなりません。

 その次は眠りです。眠りたい時は、自分の体面もなく眠りこけてしまうのです。イエス様がゲッセマネで祈る時、三弟子が眠ってしまったのと同じようなものです。自分たちの先生の体面も何も思わず、先生が死ぬようになっていても、それは自分とは全く関係なく、眠たくて仕方がなかったのです。しかしそのような場においても神の人であるならば、神の法律に従って生きなければなりません。

 次は何かと言うと、情操的な愛の問題です。これをいかにコントロールするか? それが今日までの宗教界の重要な問題であり、肉体を制止する闘いでした。そのために自分自身を全面的に否定したのです。なぜそうしなければならなかったかと言えば、人間が堕落したという悲しい事実から出発したからです。皆さんは、『善悪闘争史』と言えば外部で起きていることと思いがちですが、皆さんの内部においてもこのような闘争史があるのです。どうですか? 皆さんも闘っていますか?(はい)。

 それは、目や、耳や、鼻や、口や、自分自身の中における闘いなのです。ではこの闘争史において何を残していかなければならないかと言うと、善を残していかなければなりません。多くの人々がそんなことはどうでも良いと言っていますが、それは地獄へ至る道です。そのような人は粉々に破壊されてしまうのです。

 戦争の中で最も恐ろしい戦争とは何であるかと言うと、『私』を中心として闘う戦争が歴史上最も恐ろしく、かつ永遠に続く戦争なのです。第二次世界大戦が問題ではありません。問題は永遠なる戦争の第一線の舞台に立っている『私』なのです。皆さんは善の世界と悪の世界を行ったり来たりしています。善の側から悪の世界へ行くのは簡単です。しかし、悪の側から善の世界へ行くことはどれほど難しいことか知れません。何倍も何十倍も難しいのです。堕落というのは落ちることです。落ちることは簡単です。しかし、上る時は何十倍も難しいのです。上る前に、落ちる力をすべて否定しなければ上ることはできません。そのためには落ちようとする力と闘って、それに勝利しなければなりません。

 問題は何かと言えば、善なる所から下がっていくことのないように、善の側の力をいかに強くするかということです。それには自分自身が常に善を求める生活を習慣化しなければなりません。習慣というものは恐ろしいものです。皆さんはチーズとか、バターとか、ハンバーガーを食べる習慣があります。だから韓国に行った場合、御飯や、赤唐辛子味噌(コチジャン)、キムチなどを嫌がるのです。アメリカの海外宣教師は帰って来るや否や、マクドナルド・ハウスに行くのです。(笑い)外国に行って十年、二十年たってもその習慣は変わりません。理解できますか? ですから、私たちは善い生活を習慣化しなければなりません。ここで問題は、このようにすれば何の利益があるのかという損益関係の商売を実感するような生活環境をいかに探し求めるかが、重要なのです。

 こちらに上がっていけば(黒板を使いながら)どうなるかと言えば、そこには愛の園、本質的な愛の世界が増えるようになります。こちら(黒板を示しながら)に下がれば嫉妬があり、どんどん分裂します。統一理想平和世界は、統一と融合なくしてはあり得ないのです。またユートピア的世界はすべて善なる世界であり、悪なる世界はあり得ないのです。これが結論です。

 善なる世界、ユートピアは、神と人間が一体化したところから始まります。これが原則です。神様と善の人間はもちろん善の側です。では悪の世界とは何でしょうか? それはサタンと悪の人間です。サタンと悪の人間、神と善の人間との違いです。だから天国を造る上で、最も重要なことは、サタンと人間との協力関係を打破することです。サタンと人間はいつも皆さんを主管しようとします。それが皆さんの運命です。これが問題です。それは非常に重要な決定的な基準となります。

 皆さんは神と善い『私』をもたなければなりません。皆さんはどちらに属していますか? 皆さんはどこに位置していますか? それは非常に深刻な問題です。そのような根本的なことを皆さん個人の基準において決めなければ、統一教会がどうだとか、神様がどうだとか、アメリカがどうだとか、世界がどうだとか何を話しても無駄です。まず神側に立ってから世界を語り、善なる人となってから、世界を論じなければなりません。

 統一教会のメンバーは、一般の人々よりは善人だと言われていますが、一日の内で何時間善の側に生きているか、何時間悪の側に生きているか比較してみる時、善の側に立った生活は数時間しかなく、多くの時間を悪の側の生活をしている事実を知っています。自分自身に聞いてみなさい。何時間善の側に立っていますか? 皆さんはピストンのようなものです。善と悪を行ったり来たりしているのです。皆さんは善いピストンですか? 悪いピストンですか? これは深刻な問題です。笑いごとではありません。共産主義問題や、世界の問題よりも、『私』の問題がより大きな問題なのです。すべてこの世が悪く、自分は善くて、悪なることは自分と関係がないと思いがちですが、これはいけないことです。すべては『私』と直結されているのです。すべての悪の根拠地は『私』にあることを知らなければなりません。

 私たちはこのような環境を総清算し、いかに収拾すれば良いでしょうか。結論として、私たちにわかりやすく、一言で内容を言うならば、いかに善なる側と連結し、悪なる側から逃避するかという問題が常に重要なのです。何の話かわかりますか? 私を主張する時にサタンが入って来るのであり、私を否定し全体を主張する時には神が入って来るのです。この観念を強くもたねばなりません。

 皆さんは何かを人に貸す場合は公的であり、借りようとする場合は私的であるためにサタン的なのです。一生涯人に借りをつくらないという道を行かなければなりません。これが問題です。わかりますか? この一点で分かれてしまうのです。ある人が皆さんに十を与えたら、皆さんはその人に十一を与えなさい。もし百を与えられても、百一を返すならば(黒板を使う)、いつもこの線上にいるようになります。十を受けたのに九しか返さなかったら、借りを残したので(黒板を使う)既にこちらに下りているのです。ここで百を受けたのに、九十を返したら(黒板を使う)既にここに下っているのです。これは理論的ですか? 理論的ではないですか?(理論的です)。

 それで統一教会は“為に生きなさい”と言うのです。ですから家に帰っても、親に借りをつくってはなりません。父と母の愛に対して、私はそれ以上返してあげるのです。アメリカの若者たちは自分は両親を愛そうと思わないで、“両親は自分を愛してくれない”とだけ考えています。両親が悪いということは、あなたたちも悪いということになります。両親は愛してくれなくとも、自分は両親を愛することが孝行の道です。悪い両親は皆、頭を下げるようになります。「私の息子が一番だ。あなたが一番だ」と言って、どんどん上ることができます。神がナンバー・ワンであるから神に近づいて行くのです。

 この原則からみる時、イエス様の“汝の敵を愛せよ”という教えはどれほど素晴らしいことでしょうか。敵を完全に超えていくことができるのです。愛の前には、敵も頭を下げるのです。愛の負債を負った者は胸を張って歩けますか? お金において負債があってもそれに捉われるのですから、愛の負債を負ったら、どのようにして返せばよいでしょうか? 自分の生命を捧げてでも返さなければなりません。それは『私を主張する』ところに起こるでしょうか? 『為に生きる』ところに起こるでしょうか? どこに起こるでしょうか?(為に生きるところです)。これは間違いのないことです。このことを知らなければなりません。統一教会はこのような内容があるので一番恐ろしい戦争に勝利するために、決定的な原則を立てたのです。皆さんはこういうことを明確に知らなければなりません。何の話かわかりますか? もう、わかりましたね。

 したがって、話をする時も、自分のためではなく全体のために話し、見るのも聞くのも全体のために見て聞くのです。なぜそうしなければならないかと言うと、サタンは『私』を中心として見ようとしているので、『私』が全体のために為す時、サタンは私を離れてしまうのです。

 男女が結婚する時も、私は一番の美男子、一番の美女がいいと思うのです。そういう時は一番醜い相手になります。だから自分は美男美女よりも、最も醜い相手がいいと思えば、どれほど素晴らしい結果になることでしょうか。そこにはサタンは一歩も近づくことができないのです。そういう生活をする人は昼も夜も恐ろしいことはありません。夜はサタン(悪)が支配すると言いますが、悪なる世界も暗い所も怖くありません。そういう人は夜には灯台のように輝きます。生命の道を歩む人は、後ろに多くの人がついて来るのです。私たちは食事の時も、文を書いている時も、何をしていても、いつもすべてが善悪の闘争の中にいるのです。

 アメリカは一時、レバレンド・ムーンのために大騒ぎしたことがありましたね。今も大騒ぎしていますが……。先生がアメリカに来たのは、金儲けをするためだったのでしょうか?(いいえ)。先生は歓迎されようとして来たのですか?(いいえ)。アメリカを讃美し、救うために来たのです。しかしアメリカは、私に激しく反対してます。先生はアメリカに対して借りはありません。奉仕することにおいても、愛することにおいても、先生は誰にも負債を負っていません。

 先生はアメリカへ来て、滅びゆくこの国をいかにして救おうかと考え、『ワシントン・タイムズ』をつくりました。そして、いかにしてアメリカが共産主義によって支配されることを防ぐか、そのことを日夜考えました。共産主義との闘いを一人で背負ってきたのです。後になって、米国の人々はレバレンド・ムーンに負債を負っているということを知るようになってきました。そして少し謙遜になって、レバレンド・ムーンの話を聞こうとする姿勢を見せてきました。(拍手)

 皆さんは一生の間で、どれほど負債を負ったか、貸しをしたか、それが霊界に行って評価されるのです。

 統一教会は、アメリカ社会に対して善い影響を与えていますか? それとも悪い影響を与えていますか?(善い影響です)。今日、統一教会はどんどん発展しています。いくら悪口を言われ、いくら反対を受けたとしても、統一教会がどれほど素晴らしく発展してきているか皆さんは知っていますか? 皆さんは何年たっても変化がないので、いつも同じだと思っているかもしれませんが統一教会は発展しているのです。今では、アメリカの著名な人たちが先生を訪ねて来て、先生に指導を求めるようになってきたのです。(拍手)ですから自分自身との闘いは早く勝利して、国と世界のために闘うことのできる人を、神様は切に願っておられることを皆さんは知らなければなりません。

 先生は居眠りをすることができません。先生は統一教会のメンバーに「眠りに勝利しなさい」と教えているのに、私が眠ってはいけないのです。その時間も私は仕事をするのです。負債を負わないためです。何の話かわかりますか?

 ですから統一教会のメンバーは死の立場においても先生を恨んだりすることができないのです。“先生、私は宣教の地において今死なんとしています”という、そのような場においても、先生には頭を下げて行こうとするのです。先生もそうです。“神様! どうして私にこのような苦労をさせるのですか”とは思いません。それは、神様の前に借りをつくろうとは思わないからです。かえって神様に負債を負わせようと思うのです。自分を最悪の環境に押し込んだとしても、“いかに神様に負債を負わせるか”考えるのです。そのために、神様と私の間に億千万ものサタンが介入しようとしても、そのような隙を与えることがなかったのです。

 だから、「レバレンド・ムーンは悪い奴だ、悪い奴だ」と言って、引きずり下ろそうとしても、どんどん上がって行くのです。統一教会のレバレンド・ムーンは反対を受けながら、発展するのです。神様がいるとしたらどちらに味方するでしょうか? 悪口を言う人のためにもし奉仕しようとすれば、私たちは更に発展するのです。神様はそのような人の味方をするのです。

 先生はこの世的感覚から言えば哀れな状態です。安楽に生活できないのです。先生はイーストガーデンの古いメンバーを連れて歩きましたが、誰も先生には屈服しています。なぜならば一生懸命努力するという競争において、誰も先生に勝ることはできないからです。だから、先生は誰にも負債を負っていません。先生はサタンが侵入できるような余地を少しでも残すことを望まないからです。先生は常に神の領域に生きるようにしています。

 皆さんはベルベディアの聖日礼拝に来て、先生がいないと寂しいと思いますか?(はい)。皆さんはベルベディアに何かを受けるために来ますが、既に皆さんは先生にますます負債を負う何かを受けているのです。(笑い)自分たちが消化することのできる基準に応じて、受けるのです。それは他に分け与えなければなりません。枝に芽が出るのと同じように、先生が為したことを、皆さんもその分野に出て行ってそのとおりにするのです。皆さんが必要なので、皆さんに付いて歩き、皆さんが好きで、生命の要素が得られ、信仰の役事が普及されれば自然にそうなるのです。

 皆さんは闘う時、敗者となりますか? 勝者となりますか?(勝者です)。“私は全生涯をこのように生きる”と明確に決意することです。そうしたら先生は皆さんを好きになるでしょう。

 皆さんは悪い人でも善い人でも、若い人でも老いた人でも、すべて等しく愛さなければなりません。その人が好きか嫌いかを判断する前に、私がその人のために何を為したかを考えなさい。それは水のようなものです。水はいつも高い所から低い所に流れます。皆さんが自分を下の立場に置くならば、水は自動的に流れてきます。それが自然の法則です。また低気圧があれば自動的に気圧が流れてきます。だから皆さんは真空地帯、あるいは低い立場を作らなければなりません。先生はどこに行っても低気圧圏をつくるようになります。すると善なる霊が皆集まって来るのです。そこで善なる運動が始まるのです。

 先生が行く所にはいつも何か重要なことが起こります。先生は何もしなくとも、人々が論争したり議論したり、善悪に分かれて大騒ぎするのです。このごろになって、ようやくレバレンド・ムーンが善人だということになってきたのです。(笑い)しかし前のレバレンド・ムーンと今のレバレンド・ムーンが異なっていますか?(いいえ)。アメリカがレバレンド・ムーンを支持するようになったということは、アメリカの生きる望みが濃くなってきたということなのです。これから多くの人が「レバレンド・ムーンは素晴らしい。レバレンド・ムーンの運動を一度知ってみたい」と言ってどんどん押し掛けて来るようになるでしょう。もしそのようになれば皆さんは二番目になってしまうでしょう。外部からは朝早く来て待っているので、皆さんはベルベディアに入る場所もなくなってしまうでしょう。

 皆さんの中でベルベディアに来るのも、「きょうは先生が来られないので、私は行かない」と言ったら、それは誤ったことです。先生が来られればなお良く、先生が来られなくても「先生が来られた以上に神様に精誠を尽くし、神様にお会いしたい。(アーメン)(拍手)私は先生よりももっと早く来て、神様の前にいつでも準備する」というそのような心が必要です。神様はそのような人を必要とするのです。そうすることによって準備がなされるのです。皆さんがこのことが正しいと言うなら、これから発展して良い所に行く希望があるのです。

 第二次世界大戦が問題ではなく、ソ連とアメリカの闘いが問題ではなく、『私』の中で永遠に続くであろうこの闘いを、いかに平和にしていくかが極めて重要なことです。これを成さなければ、平和な世界になるのでなく、みな地獄になってしまうのです。先生はこのことを知っているがゆえに、この道における第一の標語として『宇宙主管をする前に自己主管をしなさい』ということを掲げてきました。自分自身を主管できない人が、世界を主管することはできないということです。

 先生は極端から極端まで主管することができます。普通の人だったらとても極まで達することはできないでしょう。先生は世界のためになることで、これよりも大切なものがあると思われる時は、直ちに方向を変えることができるのです。そのような生活をしてみると、統一教会が成立するようになり、神様が私と共におられ、歴史において私一人のために霊界にも問題が生じ、地上界にも問題が生ずるのです。今では南米の政治家はもちろん、アメリカのトップクラスの人たちが私を必要とするようなことが続いて起きています。どう思いますか?(素晴らしいことです)。(拍手)

 自分が霊界に行く日が来た時、過去を振り返り、両親に負債があるかどうか考えます。先生は両親に借りをつくりました。しかしその負債を両親に返そうとはしませんでした。国と世界のために返そうとしたのです。それが両親の望むところでしたので、霊界において私を“誇ることのできる子供である”と讃美するのです。また先生は文家にも借りをつくりました。先生のために文家は多くの被害を受けました。蕩減条件を多く払いました。しかし先生はその負債を文家に返す代わりに、国と世界のために返そうと努力してきました。皆さんに代わって、先生の家族に代わって、人類と世界のために尽くしました。

 先生が国家から、世界から、神様から『ムーン・ファミリー』として歓迎される時には、先生だけが受けるのではなく、ムーン・ファミリー全体が歓迎を受けるのです。

 先生は韓国に対しても負債を負っています。韓国の人々は「なぜあなたは、アメリカばかりを大切にして韓国を大切にしないのですか」と、不平を言うかもしれません。しかし先生が韓国に代わって世界を愛し、この天と地のためにそうしていることを知らなければなりません。先生が世界と天と地から讃美を受ける時、韓国も讃美を受けるのです。その時になれば「レバレンド・ムーンよくやった」と感謝するようになるでしょう。わかりますか?

 先生はまた統一教会のメンバーに負債があります。それは、皆さんが先生の前にすべてを捨てて献身しているからです。しかし先生は統一教会を代表して世界と天と地のために先頭に立って闘っています。したがって、統一教会のメンバーが過ちを犯せば、それは先生がすべて責任を負わなければなりません。アメリカにおいても、アフリカにおいても何か少しでも間違ったことをすれば、すべて先生に覆い被さってくるのです。皆さんを代表して先生が勝利し、世界が先生に順応するようになる時、統一教会全体が同時に勝利するのです。

 先生がアメリカに来て、ある面では負債があるかもしれません。しかし、先生はアメリカを代表し、自由世界を代表して、共産主義と闘っています。先生がアメリカにおいて為したことに対して感謝する時に、全世界がアメリカを讃美するでしょう。こう思うのです。全世界と人類が先生に感謝する時に、その感謝は先生だけにではなく、アメリカにも向けられるのです。そのときにアメリカの人々はいかに先生の恩恵を受けていたかということを知るようになるでしょう。これは歴史の漸進的発展の道なのです。

 また先生は霊界からも協助を受けています。霊界に対して負債を負っているのです。しかし先生は神様の心情を解放するために闘っています。神様が解放されるその日には、全霊界が先生に感謝するようになるでしょう。先生を通して霊界自体の勝利が輝くようになるのです。しかし先生が最初に、自分自身の中における善悪の闘いに勝利しなければ、あらゆる闘いにおいて前進することはできません。

 先生が昨年の十二月に韓国へ行った時、韓国の人々が先生に対して「歴史的な英雄だ」とか「五千年史の偉人だ」とか言って先生を歓迎しましたが、自由世界においてもそう言われるようになるでしょう。(拍手)

 「レバレンド・ムーンはどんなに迫害を受けても決して屈することなく、全人類のために全世界のために闘った。このような人は見たことがない」と言って先生を讃え感謝するようになる時が来るのです。

 そして「彼こそ生きた聖人」であると言って讃える時が来るでしょう。

 先生はどうしてこのような勝利ができたのでしょうか? それはいかなる思想によるものかと言うと、それは『為に生きる』この一言でしかありません。先生は誰に対しても負債を負わないようにしてきました。民族がわかってくれなかったら、涙を流しながらわかるまで福を祈ってあげるのです。そうすることによって、サタン圏を完全に主管することができるようになったのです。生命の道を行こうとする時は、不可避的にこのような道を行かざるを得ないのです。このことを明確に知らなければなりません。

 先生は足を見ても、「足よ! 君はいつ国のために世界のために歩いたのか? 目よ、鼻よ、口よ、手よ、いつやったことがあるのか?」と問い質します。すると手は先生に対して「命令してください。何でもします」と答えます。私の口、私の精神すべてがそうなってこなければなりません。

 最後は死です。もし死が戸口に来た時に皆さんはどうですか? 先生はその時も自分に何も負債はありません。先生にとって死は決して恐れるものではないのです。特に興進様が行かれた後、霊界は一層近くなりました。霊界と地上界の発展と跳躍は表現できないほどです。興進様も知らないで行ったのですが、行ってみて、先生の偉大さを知ったのです。先生はこのような内容を明らかに説いて、霊界と地上界を接近させ、統一的運勢を引っ張ってきているのです。(拍手)

 神様御自身すら先生に感謝されるのです。「このように霊界も地上界も解放してくれる素晴らしい息子を自分はもっていたのだ」と感動しておられます。それらすべては『為に生きる』ということを原則にしてきたからです。どんなに困難で、希望もなく、突破できないように思われた時でも、この原則に従って対処した時にその困難を脱出することができ、希望をもつことができたのです。

 先生は白人に対して大変厳しく言う時もあります。それはなぜかと言うと、そのままにしておけば、人類を滅ぼしてしまうことになるからです。アメリカが変われば全人類の希望となります。先生はアメリカを戒めたり、厳しいことを言ったりすることにおいて負債があります。しかし未来のアメリカを偉大にすることによって、その負債を返すことができます。

 このごろの評判がそうです。裁判問題においても、言論界が、百人なら百人全員が同じ答えでレバレンド・ムーンを支持しているということは歴史的事件なのです。(拍手)それは決して先生が立派だからではなく、自分との闘いにおいて勝利しているからです。皆さんにもこれは重要な問題なのです。わかりますか?(はい)。皆さんはこれがぼやけています。明確になっていません。

 これからはそのような自分とは縁を切らなければなりません。皆さんは事務をとっていても、話をしていても、いかなる所に行っても、常に善と悪を区別しなければなりません。どこに行ってもこの二つがあるのです。わかりますか? できるだけ汗を流してやりなさい。汗を流して、汗を流して……。

 一番恐ろしい戦争は何ですか?(自分との闘いです)。この問題を解決しなければ、たとえ先生がいくら地上天国を建設しても皆さんとは関係がないのです。はっきりわかりましたね?(はい)。境界線をはっきりと引きました。先生はこのような観点からドクター・ダーストを見ています。(笑い)個人的レベルにおいて打って、また家庭的基準において打って、またアメリカ全体の代表として打ってテストします。だからと言って彼と争うのではありません。彼が我慢できなくなって“ワァー”と爆発したら先生はやめます。(笑い)そのようなことが東洋人にはできます。しかし西洋人にはできません。東洋にはそのような素晴らしさがあります。その次に先生の前に現れた時に、彼はどうしていいかわからなくなるのです。“先生はなぜ自分を怒らないのか”と不思議に思います。そこで先生は彼に微笑んで見せます。すると彼はますますどうしていいのかわからなくなってしまいます。このような原則で、どれほど余裕に溢れ、どれほど素晴らしい人間をつくるかということです。もうわかりましたね?(はい)。

 闘争史の中心は『私』なのです。(黒板に書く)皆さんに一つ聞いてみましょう。敗者になりますか? 勝利者になりますか?(勝利者です)。誰のためですか? 誰のため? 私は全体の中心ですから、全体のために勝利するのです。その目標に向かって出発しなければなりません。(はい)。

 皆さんはあらゆる面において善でなければなりません。本を読んでいても、文を書いていても、食べていてもみな善でなければなりません。たとえ美しい人と出会っても、問題を起こしてはなりません。わかりますか? 何の話かわかりますか? その時、彼女を讃美し、彼女のために思いやることこそ真の崇高さというものです。またアメリカでは女性たちが先生を見て泣いたりしますが、先生は何も考えません。

 彼らの両親が愛した以上に彼らを愛し、姉、夫、妻よりももっと愛するそのような心をもてば、神様が共にいてくださるのです。そうだと思いませんか? 神様はそうですよ。皆さんはどんなに悔い改めなければならない人生であるかということを知って、力強く、逞しく、素晴らしく生きなければなりません。(はい)。そのように生きるという人は手を挙げてください。

 皆様に神様の祝福がありますように……。(歓声、拍手)




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.11.18 20:23:24
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