|
カテゴリ:文鮮明先生み言葉選集(講演文)
「真なる人生」
1984年7月1日 ベルベディアにて 皆さん、『真』という言葉は何ですか?それは丸いものですか。三角ですか。四角ですか。その定義は何ですか。真に対する定義は何を中心として決めるべきですか。これが問題です。 真なる人間というとき、真なる人間にも目が二つあり、鼻が一つあり、耳、口、体があるのです。真というのはある一定した場所に制限されるものですか、一定した場所を超越するものですか? (超越するものです。)どのようにして、何をもって、どうして超越しなければならないのですか。それは何かというと、すべてを代表して計ることのできる内容を備えなければならないことを、私たちは知ることができます。 数字であれば数字の公式をいい、物理であるならば公理と定義をいいます。定義も公理も同じであり、公式とは小さなものです。公式は単位をいいます。単位は簡単なものですが、公式的というのはすべての物を比較することのできる主体性をもつことによって、公式として単位として決定さ九ゝのです。それが間違うと、小さな机の上での計算は、莫大な宇宙には合わないのです。その計算尺などは十二段階とか十段階のものを使うのです。それは小さいけれども形態は合っていくのです。そうでなければかみ合わないのです。そうでなければかみ合やいのです。全体が合わなければ成立しないのです。全体の存在の成立が衰失してしまうのです。それは人間の世界でも同じです。 真なる人がなぜ生まれるのでしょうか?人間が生きていくためには、スケールのように力を連結させて世界へと拡大させていくのです。すべてが規格に合うようになって拡大していくのです。 そこで人間が生きていく上にも、そのような公式的な道がなければならないという結論が出ます。人間が腹中のなかから生まれるのも公式による、すべての自然の法度、理法によって生まれ、成長していくのも理法と共に成長し、生きていくのも理法と共に生きていくのです。この真なる理法を真理と言うのです。 腹中生活においてもそうであり、地上生活においてそうであり、霊界生活も法度に合うように生きていかなければなりません。そうでなければ問題が生じます。 ですから東洋人であって、西洋人であっても、黒人であっても、白人であったも腹中から生まれてくる公式的過程は同じでなければならないし、生きていく過程も同じでなければならないし、永遠の世界で生きる方法も同じでなければなりません。 ではここで、私たちに共通なるものを探してみるときに、西洋人の生き方と東洋人の生き方は異なっていることに気付きます。それが問題です。まず、御飯を食べることが異なりますね。西洋人はフォークとか道具を沢山使って食べるし、音を立てないで食べているが、東洋人、日本人は箸一つで食べてしまいます。(笑い) では、ここにおいて何が共通するでしょうか?それは食べて栄養を補充するということが共通します。 手で掴んで口の中に入れて噛んだとしても、噛むことにおいては同じです。では何が真理かというと、手で持って口の中に入れて噛むことであり食べることです。箸で食べようが、フォークで刺して食べようか、手で食べようか、口の中に入れて噛んで消化することが真理なのです。 子供は母親に食べさせてもらうのですが、誰が食べさせようともそれは関係ありません。口の中に入れること、噛んで消化させることには違いないからです。いくら口のところまで持ってきたとしても、口が開かないでじっとしていたらどうしますか。そこで真理は、正に歓迎を受けるわけです。手がいけば、口は自然に開きます。次に、口は物が入ると動き出します。 真理の前ではすべてが歩調を合わせて、互いが協力し合うのです。服を着る時は皆違うのを着るでしょう。何が真で公式なのでしょうか? 体を保護し、防禦するのです。体温を保護します。良い服を着ようか、悪い服を着ようか、それが問題ではありません。例え紙の服を着たとしても体を保護すれば服なのです このようにみる時、今日の人々はどんなに価値のないことでしょう。ただ良い服を着て、自慢したりするのです。服を着る目的は体温を保護することが真であれば、それ自体が良いとか、悪いとかよりも、保護することが重要なのであります。これが共通性です。 私たちの真なる目とは何か? 一点にフォカスを合わせて、はっきり見えるようにしなければならないのです。その一点は高すぎてもいけないし、常に均衡がとれていなければならないのです。それが一つの真理なのです。共通なる真理なのです。それで目には目医者、耳には耳の医者と、それぞれの医者がいるのです。その医者たちは、治療をするのに何を標準としてするかといえば、この原則線を中心としてするのです。それですべては、原則的な真理の基盤の上に立って、それらの連合されたものが、更により大きな原則に従って、だんだん拡大するようになっているのです。このようにして、宇宙構成の形態を考えることができないのです。 皆さんはどこも悪い所がなく、健康でここに来て座っています。そして先生の体の中で四百兆以上の活発な細胞を中心として、四肢百体の各分野は選択と除去、収拾と除去、このような闘いをしているのです。そしてそこに相克が起きると、“ああ! どこが悪いのだ。異常だ”ということになるのです。 そのようにすべてが自体で均衡をもって、完全な健康体を保っていくには、宇宙的な選択と、高底を調整する運動法則によって、定着された場においてなされるのです。この細胞の間を十キロメートル、百キロメートルと延長すれば、人間一人ではどのくらいに大きくなるでしょうか? そういうものが歩きながらバランスを取っているということは、どれほど神秘的なことでしょう。それらのすべては自分勝手な思いで動くことはあり得ないのです。 細胞において目があり、鼻があり、耳があり、各々あるのです。その細胞が人のようであるとしたらどうでしょうか? 細胞は探し易い所を求めて行くでしょうか。まず、三角地細胞は帯があるとしたら細胞はそれを登って行こうとするでしょうか。平地があるとしたらそちらに行くでしょうか? それは同じです。なぜかといえば、私たちに似ているからです。人に似たので同じなのです。。もし障害物があるとすれば、それを越えようとしますか、障害物のない楽な所に行こうとしますか。一つの細胞が一カ所に付いているとすれば、「私はこの場がとてもいい。これから動かなければいい」と言うだろうか。ここから始まって、全体を一回りして戻ってきてみたり、こちらから回ってみたり、あのように回ってみたりしたいと思いますか。それとも動かないでいたいでしょうか。一つのセンターを中心として、関係を結び通じ合いたいでしょうか。どちらですか? 最初ですか、あとの方ですか? (二番目です)。どうしてそうですか? それは、それぞれの細胞がちょうど皆さん一人一人のようだからです。そのようにすべての共通な理法もどのような道を行こうとするかと言えば、良い道を行こうとするのです。妨害されたり、制裁される道でなく、自分が行ける良い道を選ぶようになるということになります。では、いかにすればそのような自然で、より理想的な環境と関係を結ぶことができるかということが重要な問題です。 そこで何をしようとするのですか? 大きくなろうとするのですか、小さくなろうとするのですか? (大きくなろうとします)。皆さんのすべての活動は、大きくなるために運動するという結論が出ます。では、ゆっくりと大きくなるのがいいですか、速く大きくなるのがいいですか。ゆっくりですか、早くですか? (早くです)。 ではなぜ早く目的を達成したいと思うのですか、なぜですか? それは一回りするためです。こういうものが(黒板を使って説明)センターを中心として回るのです。一回りする時、これはどれほど骨の折れることでしょうか。速くなると加速度が加わって、周辺の妨害を除去することができるのです。それを知らなければなりません。 これが、速く回ることによって、自己操縦が可能で、自分の意のままにすべての環境を超越して越えていくことができるのです。それで私たちは速いのを願うのです。速ければ同じ道路を行くにしても、遠くまで行くことができるのです。なぜ、ゆっくり行くのが嫌ですか? それは自分が大きくなればなれないからであり、成長しないからです。速い方は早く障害のない境地に入るのです。そして一度入れば永遠に続くのです。 では一つの細胞が「ヨーイ、ドン!」で、“スーッ”と回り出す時を考えてみなさい。どれほど多くぶつかるかを。ある細胞がそうなのではなく、全細胞がそうなるとしたらどうなるでしょうか。大変なことになるでしょう。爆発してしまうでしょう。皆さんがじっとしていても、「ワーン」と耳にサイレンの音よりももっと大きく聞こえるでしょう。ですから公的理法は必ず必要であり、公的、秩序維持のための道がなければならないし、共通的な道がなければならないという言葉が成立するのです。分かりますか? ではあらゆるすべての細胞が、ある会議を行い「これはこのようにしなければならないし、あれはあのようにしなければならない」としても、会議の結果に従った公式過程の道を歩むためには、ここを通過して(黒板を指す)行っていいけれど、こちらに行ってはいけないというように、全部を構成しなければならないという結論が出ます。それで真なる真理、統一教会でいう『個性真理体』という論理が出るこです。これは特殊な用語です。個性真理体という言葉は、不思議に聞こえるけれど仕方がないのです。西洋の人たちには、このような説明をしなければ分からないでしょう。神学校を卒業して『P・H』という博士号をもっているロイド・イビーという兄弟がいますが、彼は哲学を勉強していますから、宇宙のことは何でも分かっているように思っているかもしれませんが、この個性真理体ということを本当に分かっているとは思えません。 ここで言おうとしていることは、どんな細胞でもも一定の個性をもっているということです。自分自身の目的とか、個性をもっているということです。西の方であれば西の方を中心として“私は西の細胞です”と主張するのです。東西南北があり、上下があるので、東にいるべき細胞が南に行ってはならないのです。それぞれの立場にいる細胞が南に行ってはならないのです。それぞれの立場にいる細胞にとっては、それぞれに方角が違い、違った目的をもっています。それはそれぞれの立?によって異なります。それぞれの細胞が、それぞれ従うべき法律、法則をもっています。もしそれに従わないなかったならば、破壊的な結果が生じます。そうでしょう?(はい)。 皆さんも、(前にいる郭先生の娘さんに)あなたの名前は何ですか? (全淑です)。郭錠換先生の三番目の娘ですが、それは間違いなく個性真理体です。母親の愛、父親の愛、皆同じです。私は兄弟たちとは関係ないとか、関係あるとか勝手にすることはできないのです。全淑はおとなしそうな顔形ですが、姉の立場、自分の立場、父、母の立場に立ちたいと言っても自由になれません。しかし心はそうではありませんね。そうでしょう? 関係を結びたいのです。 ここで問題が生じます。自分の思う通りにできないのです。これが問題です。どうですか? 修練生たちのためにこのような話をするのです。先生であっても、自分の思うがままにすれば、それは悪魔の典型であり、破壊の典型です。父も母も兄弟もそのように思って動けば、家庭が完全に破壊状態になってしまうのです。自卅を中心として来れば、すべてが「来るな」と防御します。皆さん方はこの四十億人類の中の一人ですか? それを否定した中での一人ですか? 四十億人類の上の一人ですか? では人類が全部自分を中心として生きていけますか、どうですか? だからお互いのための四十億人類の中の個人の立場であるという結論が出ます。 個人が合わさって家庭、家庭が数多くの家庭と合わさって氏族、氏族が合わさって民族、国家となり、世界に数多くの国々があるのです。そこです。そこで制限された環境の中に生きているのです。文化の背景が異なる環境に住んでいるのです。ですからここに共通なる真理の道を中心とし、一つに連結することのできる基準を通さなければ、関係を結ぶことのできる基準を通さなければ、関係を結ぶことができない世界である、という結論ができます。 人間は個人から出発して、どこへ行っても事故も衝突もなく、二十四時間、昼も夜も、あらゆるいろんな所で生活していますが、その目的や動機は何でしょうか。いったいどのような考えをもってそれぞれに生活をしているのか、それが問題なのです。個人個人の密集したところでも、ジャングルの中でも生き残ることができる、その秘密は何でしょうか? それは、個人個人の生活の様式が上がるか下がるか、あるいは謙孫になるか傲慢になるかに掛かっています。個人個人がお互いに争って、相手を打ち負かして進んでいくのか。前の者を押しのけて、あ互いに争って生きるそのような人間は周りの人から歓迎されるでしょうか? (いいえ)。では周りから受け入れられて歓迎される生き方とは何でしょうか。もし皆さんがいても自分自身の生き方でもって争っていたならば、それは大変なエネルギーを消耗しますから、疲れてしまい決して長続きはしません。しかし皆さんが環境と調和して、周りから受け入れられるような生き方をするならば繁栄し、更には勢力をもって継続していくことができます。 そこで、一つの必須の基本的な公式、あるいは原則的とは、自己中心的に生きることは常に抵抗に合うけれど、他のために生きる運動であれば歓迎されるということです。彼の為にいくという時には、すべてが門を開くのです。個人も門を開くし、家庭も門を開くし氏族も門を開き、民族も門を開き、世界も門を開き、歓迎するのです。 そういう道は何であるか、そのような道は何であるか、それを私たちは探さなければなりません。統一教会はこのような観点から“為に行く”のが原則であり、“為に生きるために生まれた”という天倫をもっているのです。為に生きる人であればあるほど、主体になるのです。中心になるのです。これを知らなければなりません。責任者となるのです。(黒板に書かれる) 静かに考えてみなさい。為に生きる人は、全淑の父母がいくら強くとも、父母の為に生き、尽くすのです。全淑がノックをしたら門を開き、「入って来なさい」と言います。そうですか、どうですか? また、皆さんが学校に行った場合に先生の為になることは、一生懸命に勉強をすることです。そうすればどんなに怖い先生であったとしても、ノックをした時に「どうぞ入ってください」と応えます。皆さんの兄弟、姉妹の誰もが、為に生きるという犠牲の道を行けば、愛でもって歓迎されるのです。そうですか?(はい)。友達同士であっても、為に生きる人は真夜中に訪ねて行ったとしても「どうぞ入ってください」と言われますか、自分だけのため訪ねて行って、盗みをしたりする人は門を防がれてしまうのです。 先生がアメリカに来て、「先生の為に行う」を言っていたならば、今ごろは法廷闘争に遭って、至る所で「来るな!」と門を固く閉められてしまうでしょう。しかし、今まで何も知らなかったので反対した人々も、今はすべてを開いているのです。皆さんが開いたのですか、自分たちで開いたのですが? (自分たちです)。なぜですか? それは、宇宙が発展し、和合することのできる宇宙の原則によってです。為に生きる原則において、アメリカの法務省、国務省、国家自体が迎え入れるのです。先生がこのまま進んでいく時、アメリカの政府も先生の側になり、この宇宙も先生を支援してくれるでしょう。 ではここで『真なる人生』を生きると言うことはどういうことを言うのか、一つの公理を立てようと思います。いかなる所にも通じる原則ですから、これは万苦不変であり、過去、現在、未来ですから、これは万苦不変であり、過去、現在、未来に共通したもので、“為に生きなさい”ということです。もしここに、孔子が現れ、イエス・キリストが現れ、釈迦、マホメット、聖者といわれる人々が現れ、神様が現れ、「あなたたちはどのように思いますか」と言った時、「はい、そのとおりです」と言うでしょうか、「いいえ」と言うでしょうか? (はいと言います)。人生を生きていくには、真なる姿で生きていくだた一つの法であるということを知らなければなりません。そこに真のルールがあるのです。そこである家庭において、“為に生きる”息子がいるとしたら、その息子が長く生きれば生きるほど、主体となるであろうし、長ければ長いほど中心に入っていくのであり、長ければ長いほど責任者となっていくのです。 皆さんの父や母が、どのようにして主体となり、中心となり、責任者になっているかということは、皆さんの父母が息子や娘の為、家庭の為よりも、全体の為に生きたのでそういう立場に立つことができたのです。これを知らなければなりません。愛国者も同様です。その国の民、国の主権者の為に生きた人なのです。一生の間、国の為に生命を尽くしてきた人は、歴史に残ることのできる愛国者として追慕されるのです。これはこの宇宙のすべて、世界のすべて、人生のすべての法に従って、不可避な結論であるので、そのようになるのです。 ですから聖人とはいかなる人であるかと言えば、全世界万人の為に生きる人であり、永遠に昼も夜も、為に生きようとする人であり、人間ばかりではなく自然と全宇宙の為にも生きる人が聖人なのです。そのことに異議がありますか? そのように定義を下したとしても誰も否定する人はいません。 ではこのような宇宙を創られた神様、このような法度を立てられた神様は、いかなるお方でありましょうか?この全宇宙のために“きょうも為に生きる”ということにおいて代表的立場に立っておられるお方が神様なのです。それゆえにそのお方に会うには、知識の王様であるからと言っても知識でもって会えないし、能力の王様であっても能力でもって会えないし、権力の王様、金の王様、物質すべてに対して王様であるからと言っても、それらをもっては会うことはできません。 では神様と会える人は誰でしょうか? お金持ちですか。権力者ですか。知識人ですか。神様にとって、それらの人々は必要ないのです。分かりますか? 統一教会の皆さんの中では、神学校を卒業したとしても、“為に生きる”と言うことは知らないで、「私は神学校を卒業したので、私は責任者になり、統一教会で上にならなければならない」と言うような主張をしてはなりません。まずは為に生きなければなりません。 真なる友達は為に生きる人であり、真なる先生も同様であり、真なる父母も同様であり、真なる主権者、王も同様であり、真なる兄弟も同様です。真なる社会も、国も、真なる地上天国、真なる天宙も同様です。それは間違っていますか? どうなの? (はい、正しいです)。それはしばらく考えてからの「はい」ですか、自然に「はい」と言えたのですか? (自然にです)。 皆さん! 食べ物が口に入れば自然に口は動き出し、食べ物が胃袋に入れば自動的に消化します。アメリカはいくら力があるとしても、アメリカの為に生きる人が来たら門を開けるし、アメリカの損になる人が来たら門を閉じます。自分の為にのみ生きる人は原則的に除去されます。家庭において自分の為に生きる女たちは、これからは悪党の鳩首の妻となるでしょう。そして踏みつけられて死ぬでしょう。 全部に真なるという言葉が付いているので、そのようなことを真なる道であると言うのです。(黒板に書かれる) 分かりますか。真なる人の道は為に生きる道です。先生もそのように生きていかなければなりませんし、お母様もその道を行かなければなりません。息子、娘たちもそのように生きていかなければなりません。ここでパスしなければ天国ではなく、地獄に行くのです。水平線以下に行くのです。 自分がお腹が空いて食べたとしても、商店に入って勝手に取って食べられるでしょうか。なぜそれがいけないのでしょうか。他の人たちはお腹が一杯で残りは捨ててしまったりするのに、一つぐらいは自分の思うままに食べてもいいのではないでしょうか。共産党はそれを主張するのです。なぜいけないのですか? それは私を中心として、自分だけを中心としているからです。 お腹が空いて食べたい時には、その店の人を通じて貰わなければなりません。私が主体で、その人がくれることによって食べられます。“あの人は私の為になる人であるから、私が上げることは良いことである”とそのように考えればそれは良いこととして成立するのです。 このような原則において法律であり、そのような原則と公式基盤のもとで法が制定されたのだということを知ったので、私たちは社会の公法と公理を遵守しなければなりません。その主人に対して、国というその主人に対して違法となれば、それは除去しなければなりません。 神の国に入ろうとする欲の多い人は、昼夜祈ってばかりいます。自分だけを中心として神様に福を与えて下さい。夜でも福、昼でも福を下さいと言います。福を与えたとしても自分の子供のことしか考えないし、自分の家庭だけが良くなることを祈ります。そういう人は祈祷すればするほど滅びなければなりません。罰を受けなければなりません。この宇宙全部から除去しなければなりません。そのような祈りをしてはいけません。すべてはっきりした基点を中心として区別しなければなりません。 皆さんは全体のために、可哀そうな国が袋くなるために、もしお金が必要であれば自分の力を尽くし、それでも足りない時に“神様助けてください”と祈ります。それは当然のことです。しかしそのような祈りを神様が聞き入れるでしょうか、どうでしょうか? 欲しいと言うので友達に上げた後に、「また下さい」「また下さい」と言うのと同じです。はっきり分かりましたか? 皆さんの中で“私は祝福を受けた家庭の子供である。統一教会は私を貴重に思わなければならない”と思う癖があれば滅びます。三十六家庭は、天と地を代表して立っていることを知らなければなりません。天と地を大事にしていかなければなりません。より大事にしていかなければなりません。先生の家庭は、先生自らが大事にするより以上に大切にしていかなければなりません。 三十六家庭は、先生が自分の子女までも投げ出してカインの子女を愛したのと同じように、自分たちの子供を愛する前に外に出かけていって、カイン世界の子供たちをまず愛さなければなりません。自分自身の子供たち以上に、カイン世界の子供たちを愛さなければならないというのが原則です。この原則に反するならば、三十六家庭であろうとも失敗します。どうですか。それは間違っていますか? (正しいです)。 だから祝福の子女である皆さん方が、本当に神様を中心としているならばやそのような生活をしなければよい祝福は訪れません。先生はそのような人たちをギャングと祝福するかもしれませんよ。(笑い) だからいつも自分に奉仕されたいと思う人たちには一番良い教訓がギャングと結婚させることです。そうすればギャングたちは銃を突きつけて「自分に従え」と言うことでしょう。(笑い) 先生が「為に生きなさい」と言うことは間違っていますか? それは統一教会の原理であって、一生と世界と関係のないものですか。先生が間違っていますか、皆さんが間違っていますか? (先生が正しいです)。いいえあなたたちが正しいです。あなたたちです。(先生が正しいです。先生です。先生です)。(笑い) そのような原則が成立します。皆さんは“為に生きなさい”というこの道を行かなければならないので、苦労しなければなりません。今回、孝進様が修練会を指導するという責任が与えられました。だから先生は非常に注目しています。孝進様が成功するためには、本当に自分を犠牲にして修練会のために尽くさねばなりません。そうすれば皆から尊敬されるでしょう。もしそうしなかったならば、彼は皆の信頼を勝ち得ることはできないでしょう。なぜならばこれが原則だからです。皆のために奉仕するときにその中心人物となり、尊敬されるというのが原理原則だからです。どうですか。正しいですか。間違っていますか? (正しいです)。 もし本当に他の人の為に生きたいと言う人がいるならば、そういう人たちにあらゆる責任分担を与えることができます。先生はそのような顕微鏡で朴晋煕や、他の人々がどんな人間であるかじっと見ています。彼は自己中心的な人間であるか、また他の人はどうかじっと観察しているのです。この人はどれくらい行ってからストップするか、あの人はどうかよく分かります。統一教会にはミスター・カクもいます。ある時先生はミスターパクとかミスターカクに気合いを入れてみました。皆さんは分からなくても、先生はすぐに分かりました。 先生の後継者としてとして誰に委かせるかという問題を中心としてみる時、どの相対を選ぶか、責任を誰に委かせるかということは原則通りにやるのです。 例えば先生の銀行口座には何もありません。朴晋煕氏や郭錠煥氏の銀行口座にはたくさんのお金があります。そこで先生は「朴晋煕、郭錠煥、お前の銀行口座を持って来るように」と言います。すると「はい」と言うのです。今回も朴晋煕氏に対して、「あなたの家を韓氏に明け渡しなさい」と言って、じっとその表情を見ます。(笑い) 自分の同志を自分の家以上に思わないものは落第生です。 先生は昔、韓国である弟子に家を交換してあげなさいと言った時、それに対しその人は嫌だと答えました。その答えを先生は忘れていません。アメリカ的な考え方からしたらそれは当然でしょうか。どちらかの方が人を助けることになりますか? 兄弟を自分の家以上に愛せない人と、家のようなものはどうなっても構わない人とどちらが神側に近い人ですか。もし神様が、「イーストガーデンを食口たちに分けてあげなさい」と言ったら、先生は直ちにそのようにします。それをもっていて何をするのですか。この非常時にそれで何をしますか。先生はこのような思考方式をもっています。ですから何も未練がありません。イースト・ガーデンを出ていったとしても未練はないのです。そのイーストガーデンを明け渡せば、これから大統領にもなれる人を育てる場所となるかも知れません。分かりますか? レバレント・ムーンは大統領になれる人を育てる気になっていません。そうでないからそうすることができません。この原則は万古不変の天理のなのです。 裁判においても、私はアメリカの法廷に出る必要もないのです。出なくてもいいのです。アメリカの将来のために。国民のためにこれからの使命を見つめたとき、すべての人々を覚醒しなければならない私の責任があるので、法廷を通して覚醒することを願って法廷に出たのです。それゆえにキリスト教が、レバレンド・ムーンと一つとなり、アメリカの国民と一つとなったのです。 レバレンド・ムーンに対してあまりひどい処置をしたことを皆は知っています。このたびの聴聞会の事件を皆知っています。先生がどれほどアメリカの為にやったかということが、具体的な数字としてお金で計算されて出ています。アメリカの為に、外国人としてどれほど迫害を受けながらやってきたことでしょうか。そういう事実は必ず歴史をおいて追慕されるでしょう。 最近先生は、この国会の聴問会の場を利用して、司法省がレバレンドムーンを起訴する際の起訴のメモというものが存在していたということを発表し、聴問会の議長に対してその文書を公表するように、そして世界の人々、アメリカの人々、また宗教界の人々が真実を知る権利があるのだから、その文書を公開するように求めました。 このような過程においても先生は、統一教会の人々や特に古い人たち、例えばドクター・キム等の世話になっていません。先生が彼らに世話になれば滅びるのです。それゆえに先生は主体となり、センターとなり、責任者となるのです。 この前修練を受けていた先生の息子たちは、「カインを愛しなさい。世界的カインを愛さなくては、自分たちを先生が愛することができないということがこの頃分かってきて、先生を理解するようになりました。本然の愛の基準で、息子娘の愛の基準を探し、本然の妻と本然の家庭と本然の国を愛するために、可哀そうであるけれども、先生は不可避的にいかなければ天国は実現されないのです。このような過程から見れば、先生が自分たちをどれほど愛そうとしたかという、その本心を知ることができます。 それはカインが「先生御自身の子女たちを愛してください。私を愛してくださらなくてもよいです」と言うまで続きます。先生が“為に生きなさい”と言うことを分からなかったら、今日レバレンド・ムーンはこの場にはなく、ずっと以前に消えてしまっていたでしょう。統一教会と言うものも消えていたでしょう。自分を監獄に入れた人たちのために祈り、拷問をした人たちのために涙を流して祈り、為に生きようとする道を行ったので、宇宙が協助して発展してきたのです。 先生を打つ者はみんな崩れ、そのような国はみんな滅びていくのです。どうしてそうなるかと言えば、宇宙がそうなっているからです。先生が監獄に行くようになれば、皆さんは先生以上に世界の為に生きなさい。そうすれば統一教会は私がいなくても滅びないでしょう。そうですか? どうですか? (そうです)。それはレバレンド・ムーンのためではありません。絶対に「はい」です。分かりますか、何の話か? (はい)。 この宇宙は原理原則のもとで運行しています。はっきり分かったでしょう。皆さんは主体になりたいですか、どうですか? 中心になりたいでしょう。中心に。珍文、あなたも中心になりたいでしょう。 この前修練会の時、よりも化粧をしたりして大騒ぎをしました。そのような女たちはつまみ出さなければなりません。本当に思慮深い男であれば、地味で化粧もしないで全体を一つにしようとして化粧する時間にも掃事をし、化粧する人のために、早くできるよう手助けしてあげたりする人が分かるのです。だから大きな人間は大木のようなものです。蟻とか蝉とかあらゆるものがそこに住み付いているのです。それをみんな抱擁できるような大きな人間にならなければなりません。時には小さな些細な小競り合いやいさかいがあるかもしれませんけれども、それを大きな木はみんな構わずに受け入れます。だから化粧にばかり興味をもっている子女たちは、恐らくマッティングがあるからと思っているのかもしれませんけれど、その場合に、私の相対者となる候補者は誰だろうと思って、統一原理の講議も聞かずにただそんなことばかり考えているのではありませんか? (笑い) 先生には不思議にもすべてが聞こえてきますよ。また世界的に宣教に出ていますか、祈祷をしてみれば先生にはすべて分かります。それが先生の特別な認識能力なのです。それゆえに先生は皆さんの最も重要な祝福、結婚ということも正しく正確に行うことができるのです。皆さんはマッティングの時にも相手の顔しか見ません。奇麗かハンサムかしか見ません。けれども先生は全体を見ます。手を見ます。足を見ます。男性がハンサムなのは耳の形がいいのです。それから歩く姿を見ます。先生は着物の上からその人間をすべて見ることができます。そういう面ではレバレンド・ムーンが世界的チャンピオンでしょう。(はい)。世界的なチャンピオンから有名な人のサインを貰うことは易しいですか? これから皆がレバレンド・ムーンによって結婚した方がいいということになって、一人当り一万ドルでなく五万ドルを払ってもレバレンド・ムーンの所に行くというでしょう。だから私が食べていくだけのお金はどのようなことをしてでも得ることができます。本当にお金をつくろうと思えばいくらでも先生はやり方を知っています。だから先生はお金のことは心配しません。 先生は、皆さんを負債があるようなそういう人間ではなくて、人々に何かを与えることのできる人間に創り上げていきたいと願っています。それは何かと言えば為に生きることです。これが為に生きる人です。 では為に生きる目的は何でしょうか? 主体になってもそれだけでは満足しないのです。一つになる時は生命力が出てくるのです。そこには生命があり愛があります。分かりますか? では、夫が妻に「為に生きなさい」と言うときに、真なる愛が生まれるでしょうか。お互いに為に生きようとするとき真なる愛が生まれるでしょうか、どうでしょうか? これが基本原則です。父母が子供の為に生きるとき愛が生まれ、子供が父母の為に生きるとき愛が生まれます。このような関係においてのみ生命の永生があります。皆さんはどんどん大きくなっていくことでしょう。生命力が強いとどんどん成長します。それゆえに神様は宗教を通して“為に生きなさい”とか“犠牲になりなさいと言わわれるのです。 では天国はどのようになっていますか?天国とは地上で他人の為に生きた人たちが行くところです。統一教会は強力で力があります。生命が強いので力があります。一つ間違いのないことは統一教会の食口同士がお互いの為に生きていないことです。統一教会の先生と食口とはそうではないのです。先生は食口の為に生き食口は先生の為に生きています。 皆さんは先生がイースト・ガーデンで良い生活をしていると思うかもしれませんけれども、世俗的な観点からみれば惨みな生活をしています。心の字架を背負ってるのです。だからきょうのように雨の日はNFTの活動をしている食口たちが雨の中で苦しい思いをしているだろう。あるいは、共産圏の国で働いて牢屋に入っていたり、処刑されたりしている食口がいることを思うと、いつも心が苦しくなります。だから昼寝はできません。 先生は肉体をもってしてはすべての食口一人一人を取り扱うことができませんので、先生のところに来る食口をすべての食口の代表として、先生とお母様は色々と尽くして、服を買ってあげたり、もてなしたりするのです。そして為になろうとし、何かを与えようとするのです。先生とお母様はいつもすべての食口の為に、自分たちの子供たち以上に良いものを買ってあげようとしています。 それゆえ、宣教に行って殉教するようなことがあっても、イースト・ガーデンに向かって祈りながら死んでいくのであり、恨みながら死んでいく人はいないのです。先生に“為に生きる”という天理の原則があるので、それは継続されるのです。 彼らは統一教会の誇りであり、自分の先祖たちの誇りでり、霊界に行っているすべての人々の誇りであり、一族ばかりでなく一国の誇りなのであります。何の話か分かりますか? ですから、為に生きる道のみに生命力が伴うのです。生まれることにおいても、女は女の為に生まれたのではなく、男のために生まれたのです。そうではないでしょうか。だから私というのではなく、我というのです。結婚は誰がやりますか? 夫婦が(我々)がやるのであって、私がやるのではありません。 皆さんの思春期というのは、宇宙の原則の特定な期間での設定であって、皆さんが設定できるものではありません。結婚するということは、男も女もその相手に自分のすべてを捧げるのです。自分の体をきれいに保って、女は男のために捧げるのです。清く保ってよく管理して出合うのです。今日のように自分勝利にデートをしたり、フリーセックスをしたりすることは、滅びゆく悪魔の考えです。 父母の愛を受けようとしたら、父母が愛するすべてを愛してから愛を受けることができます。それを知らなければなりません。自分の家や家庭であれば、自分たちの父母が愛しているすべてを愛し、主人である父母の愛を受けようとしている全部を愛してから、父母の愛を受けなければなりません。そうしないでそのまま受けようとすればどうなるのでしょうか。父母が大事に思っているものを愛する気持ちがあったら、それを自分勝手に扱かったりするでしょうか。ある品物が元はここにあったのに、あちらに置いてあったとすれば、それを元の所に父母の代わりに移しておかなければなりません。父母が愛するすべてを愛してから、父母の愛を受けることができるのです。 それではなぜ十七歳から十八歳という思春期があるのでしょうか? それは父母が愛するすべてのものを愛するための訓練の期間であることを知らなければなりません。自分の両親が祖父母を愛するので、私も祖父母を愛さなければなりません。分かりますか? 次に親戚を愛するので、私も親戚を愛さなければなりません。次に父母は、子供たちを愛するので兄弟姉妹を愛するのです。そのようにして愛をもたなければなりません。では神様の愛を受けようとするには、どうすれば良いでしょうか。それは同じことです。同じ原則です。ただ広さが異なるだけです。 ある国に行って、その国の王様が愛する土地と民を愛すれば、その王様の友となることができるのです。分かりますか? 皇后となったならば、王様が愛するごとくにその国の民を愛すれば、王様が喜ぶことによって、その愛を受けることができます。それは夫婦の生活でも同じです。 妻が喜ぶ者を愛してから妻を愛することによって、その妻は自分を愛していることを知るのであって、その妻の喜ぶ者は何一つ愛さないで妻だけを愛するというのは話になりません。統一教会のお嬢さんたちを見ると、前線にいる人たちはだめです。「事業をやっているビジネスマンと結婚すれば、良いものを着て平安に生活できる」という考え方は、この原則に合いません。(黒板をたたく) 何の話が分かりますか? では、“本当に為に生きる”という価値の観点から見た場合、最も価値ある生き方をしている人は誰でしょうか? 統一教会のお嬢さんたちは伝道師の婦人にしなければなりません。この頃祝福家庭で生まれた男の子をじっと見ていると、お金をもうけることを考えていますね。お金をもうけようとする人は皆、伝道師にしなければなりません。 先生は皆さんの世話にはなりません。皆さんの世話にはなりたくありません。皆さんが良く勉強をして、専問家になったとしてもそれを頼りにするレバレンド・ムーンではありません。先生はすべてを作っておきます。すべてを作っておきます。ですから先生の世話のなる人の方が多いです。皆さんの世話になろうとは思いません。むしろ先生が願うことに対して実践する人を訓練しようと思います。より楽に暮そうとする人は地獄の近くまで下りて行こうとする人であり、より難しく暮そうとする人は天国の近くまで昇って行く人です。皆さんはどちらを選びますか、女性たちはどちらですか? 金元弼先生の娘ヨンスク、どうですか? 先生が一見したらすぐに分かります。先生はある意味で不思議な人です。どんなに先生の近くにいても、神様から遠い者の名前は先生は忘れてしまいます。毎日のように呼んでいたとしても忘れてしまいます。そして顔を見ても知らない人のようで、はっきりと焦点が合いません。先生は昔怖い人でした。怖かったのです。そのような何か不思議なものであったからこそ、今日まで来れたのです。一生の間、迫害を受け、このように続けてくることがどれほど難かしいことだったでしょうか。それは米国の大統領よりも、この世の誰よりも困難な道です。何の話か分かりますか? アメリカの責任者たちは先生に、「そうしてはなりません」と言います。「ここはアメリカですから、今までのアメリカのやり方があります。ですから東洋的なやり方はうまくいきません」と言います。しかし不思議なことに、神様がこのような方法でアメリカにおいてうまくやっているのです。そのお蔭で私たちはここにいます。したがってどれほど苦しかったでしょうか。ドクター・ダーストはどう思いますか? なぜ顔を赤くしますか? 互いに北極と南極が出会うことは難しいことです。皆さんを一つにすることはどれほど難かしいことでしょうか。先生はそのような立場において仕事をしているのです。しかしこの原理原則があるから可能なのです。二人、三人が一体化して道を整えておいた所は神様が行っても引っ掛かりませんが、自分たちを立てて自分たちの法道を作くればすべてに引っ掛かります。皆さんは神様がおられることを知っているでしょう? (はい)。神様に属するものは何ですか? この万物であり自然です。その次に人間です。では神様はこの自然の中でどれを残して、どれを除くのでしょうか? すべてが必要なのです。人の中でも誰を除き誰を残すかといえば、すべての人が神様は必要なのです。 神様も自然を見るとき、私は春だけが好きで夏や秋や冬は嫌だと言うことはできません。神様は「私は四季が始きです」と答えます。ですから夏が嫌いでも、夏が好きになれるように学ばなければならないし、冬と秋が好きになれるように学ばなければなりません。雪が降れば、世界的に積った雪を見て、神様が喜ぶ時、私も喜ばなければなりません。そうならなければなりません。自然を見る時、そのような心をもたなければなりません。また雪や嵐の時、早くそれが終われば良いなと思うのですが、神様は何かを表わそうとしているのです。 自然を愛なければなりませんが、人間の中でも五色の人種がいます。神様は白人だけを好みますか? 神様が白人だけを好むなら、白人は白い服だけ着なければなりません。どうして青とか黒の服を身に付けるのですか? すべてが矛盾しています。部屋に入れば赤、黄、青で飾ってあるし、なぜ黒いピアノがあるのですか。なぜ黒板があるのですか。 白人は白色だけを使えと言ったらどうなるでしょうか? 死んでしまうでしょう。私は白人が嫌です! (笑い) 白人は夜もなくさなければなりません。夜は暗いからです。それが白人の優越主義ですか。その主義は滅びる主義です。それはどのくらい続くと思いますか? 冬がいくら長いとしても三カ月しか続きません。 先生はアメリカに来て、「神様は色盲である。白人の優越性などというものはなくさなければならない。すべては平等であるべきである」と宣言致しました。そのために白人たちは先生を好みませんでした。実際に、何も先生は白人以外の少数民族のために応援しているのではありませんけれど、今や黒人や黄色人の少数者たちの方が先生を支持しています。だから白人の皆さん、青い目をし全髪の人たちも注意しなければなりません。なぜならば、神様の目には何らえこひいきすべき人種はいないのです。 人種戦争が起きたら、有色人が総動員して白人を攻撃するということを皆さんは知っていますか? そうなれば白人は滅されて、取り除かれてしまう時が来ます。常に白人が支配すると思ったら間違いです。神様はそう思いません。自由世界において世界を愛する者、人類を愛するものに対して、神様の哲学を考えるのであって、白人を中心として、この世を白人が勝手に支配していけるとは考えていません。 神様の愛は、自分より人類を愛さなければならないし、過去と現在と未来の人類を愛さなければならないので、先生は地獄に行っている霊界までも解放しようとするのです。人はまず、真理の道を行かなければなりません。(黒板に書かれる)生命の道を行かなければなりません。愛の道を行かなければなりません。この三つがいかに偉大であるとしても、為に生きる基盤なしでは、すべては従ってきません。このように生活する人が自然に主体になります。主体というのは生命の力が強くなければなりません。そうでなければ主体になることができません。また主体とは何かと言えば、愛を代表する主体でなければ相対を引っぱっていくことができません。中心となるためには真理が真でなければなりません。中心となるためには力がなければなりません。中心となるためには愛がなければなりません。 そして責任者というのは、発展させた永遠へと導いていかなければなりません。真なる者でなければならないし、真なる生命と真なる愛の関係を結ばなければ責任者になれません。皆さんもそう思いませんか? このようなことを教えるためにはまず一度、他人の為に生きるということを教えるのが良いのです。皆さん方がこのような生き方をする時に、皆さんはプラスとマイナスと連結することができます。すなわち皆さんは調和のある人間、円満な人間となることができます。そして皆さん方が巨大なプラスとなり、他のマイナスと一体化することができます。そしてより大きマイナスとも一体化するようになります。だから為に生きることなくしては、絶対に球形になることができないのです。球状になることができません。分かりますか? どこに行っても、どこに行ってもそうです。父母も為に生き、子供も為に生き、祖父母も為に生きるのです。そうすることなくしては連結することはできません。このようになれば自然に大きくなります。吸収し、吸収され、このようになります。先生は話も良くでき、いつも話すことが好きですか、子供たちの話も良く聞きます。十回聞いても、またそれ以上聞いても、「もっと話しなさい」と言います。その語る時が異なるのです。環境が違うからです。 だから今まで、「私たちの先生は母親よりも良いし、祖母よりも良い」と言うのです。先生を他の人と比較することができないのです。そのようにして成長していくのです。呼吸することによって、語ることによって成長するのです。何万回もやるこので生命が維持されるのです。一日一回だけ深呼吸をすればいいのではないか、と言っても何回もやります。食事も一回だけではなく毎回続けて食べています。だから皆さんは本当に真に共感する耳をもって人の話を聞かなければなりません。 先生が韓国の影島という所で一番最初の教会を創って、ソウルにいたら「教会の落成式も全部終わったから先生来てください。来てください」と言うので行きました。行ってみると食口たちが大勢来ていましたが、そこに八十歳を越えるおばあさんが一人混じっていました。そして他の者たちが待ってきたにもかかわらず、その年取った婦人に一晩中話をしてあげました。どうなったでしょうか? 他の人々はなぜと思ったのです。その時、先生は全体を代表してその一人の老婦人と話をしたのです。 普通の教会の牧師なら、大学の教師とかそのような人と話をするのですが、先生はそれとは異なります。昨日来たドクター・チャーベスは、何年も前から先生に「公式的に自分を招待してください」と言ってきていました。しかし先生は知らぬふりをしていたのです。それで昨日、夜中の十二時になっていたのですか、一度来たかったら来なさいと電話をしたら、「どうか連れて行ってください」と言ったので連れて来たのです。そのような人もいるために、統一教会の群は自分勝手に来れるのです。なぜそうなのですか。ドクター・チャー・チャーベスは自分勝手に王様にも会えるし、大統領にも会っていた人で、この世、天地を自分のもののように思っている人ですが、統一教会においては一番低い所にいるのです。 また財務長官をしていたアンダーソン氏も三、四年前から会ってほしいと言っていたのですが、まだ会っていません。知らぬふりをしているのです。ドクター・ダーストに頼んでも会えないから、ドクター・郭とか、ドクター・朴の所に行って頼んでもきても今だ成功しません。このようにすることは良いことですか、悪いことです? しかし、統一教会の海外の宣教師たちが来たら、昼食を食べさせ、洋服を買ってあげたりします。神様が御覧になる時、レバレンド・ムーンは良くやっていると言うか? (良くやっていると言います)。これは正に聖書が言っていることです。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイによる福音書第二三章十二節)ということです。これが聖書の教えです。だから真なる人が行くべき道はどうあるべきか分かりましたね。(はい)。すべての人は真理を願いますね。(はい)。生命というのは発展するものです。しかし愛がなければ統一できません。統一教会というのは愛に基いています。これを得なければ主体となることができないし、中心となることができません。真のある所は力が強いのです。強い力で愛は必ず一つとならなければなりません。 なぜ人々は主体になろうとするのでしょう。これを知らなければなりません。そこには真があり、生命力があり、愛の統一力があるからです。中心もそうなのです。このような原則を基盤として内在しているので、私たちは責任者になろうとし、主体になろうとするのです。これを全体に束ねることができ、これを全体に交流させる一つの道があるとしたら、それが為に生きる道であります。これを知らなければなりません。 小さな真理から大きな真理を求めていくのも為に生きる道であり、小さな生命から大きな愛から大きな愛にいくのも為に生きる道しかありません。小さな責任、小さな中心からより大きな中心、小さな主体から大きな主体へいくのも為に生きる道がなければ絶対にできません。皆さんがそれを実践してみれば分かることです。先生は人生を通してこのことを分析し、ずっと以前にこの結論に達しました。これは驚くべき真理です。 山登りに行くにも誰よりも先に行って、他の人か皆先に座っても、先生は周りを一まわりしてから座るのです。他の人よりも一つを余分にします。お腹が空いた時、美味しい食べ物を他の人はより沢山食べようとするけれど、先生は十分食べたいと思っても他の人よりも先に箸を置きます。刑務所においても先先生はそれを実践しました。統一教会の責神者として、先生は夜も誰よりも遅く眠ります。皆さんの方が先に眠りたがっているでしょう。先生は二階に上がって何かやっています。お母様が可哀そうですね。先に眠らなければならないし、先生がいない時に起きなければならないからです。しかし不平を言うことはできません。それを誇りにしなければなりません。自分の為に妻の為に不平を言ったら罰を受けます。だから先生は雨が降る日でも仕事をし、台風の日でも山に登ったりします。だから「台風の時なのに、山に登ってくるなんて気違いである」と人に言われたこともあります。それでも万物を祝福します。木や、森や、山や、鳥や、虫を祝福してあげます。何の話か分かりますか? 他の人は皆、渡れ切ってしまっても、私たちは行かなければならない。為に生きることとはどのようなことでしょうか? それはどれほど人生において余裕が必要なことでしょうか。疲れたとしてもその場においてもう一歩一歩踏み出すのです。 では皆さん、為に生きますか? そのようにしますか? そのように生きますか? (生きます)。するには一日でもしますか、生きるのは永遠です。やりますか? 生きますか? と尋ねられた時の答えは「生きます」です。 一つ話をしましょう。美しい女に醜い男を得ることが、この女にとってはより為になる道ではないでしょうか、どうですか? それが最も為になる道です。そのような醜い男性を宇宙の男性の代表として愛し尽くすなら、神はその夫婦を祝福し、その子孫から世界を指導する人が現れます。先生一人が生まれてくるまでに、先生の先祖たちの中で、最も醜い女性を誰よりも愛した人がいたかも知れないし、醜い男性を愛したという最も美人の先祖があったに違いありません。だからその家系の中の先祖たちの功績の報いとして先生が生まれたのです。先生は地上に現れた人間の中で最もユニークな、最も尋常でない人間であると思っています。 一つの例として、祝福の時、珍輝男の母親は教会に入って何カ月だったでしょうか、新しく入教したばかりだったのです。三年以上にならなければ祝福は受けられないのです。ところが、かつては原理は毎日教えていた講師の洪氏を突然呼んできて、あなたたちは私の話を聞いて結婚すれば良いことがあるだろう。どうしますか?」と言ったのです。彼は私の妻となる女性は三年以上の経歴のある立派な人をと思っていたのですが、先生の言葉に従ったのです。その結果、子供の一人は先生の娘の夫に、もう一人は先生の息子の妻となりました。先生の先生の予言は当たったでしょうか? (当りました)。これは想像することもできなかったことです。 先生は何家庭かの男性を見て、「あなたの子供はこのような子供を生むだろうから信じてやりなさい」と言いましたが、間違いなく先生の言う通りになりました。今や二人はどうなったかといえば、先生に感謝しています。自分たちの基準で、自分の良い妻とか夫はこうであるべきだというが、それはあなたたちの基準なのであって、どこに保証がありますか? もし先生の言う通りにやったらその子供たちがアメリカの大統領となり、世界の生かす大統領が出てくるようになるはずなのに、それを破壊してしまった時には、霊界が何と言うでしょうか、どれほど後悔するでしょうか、何の話か分かりますか。誰の為に結婚しますか? 女性たちは誰の為にしますか? 夫の為にします。女性が夫のためにすることは自分のためにすることです。そのためにするのです。夫はなぜ結婚するのですか? 妻のためにするのです。私が結婚しなかったら、その妻が滅びるので結婚するのです。私が結婚しなかったら夫が滅びるからです。だから今までは間違っていたのです。反対に考えていたのです。これから夫のために結婚し、妻のために結婚するのです。なぜ愛するのですか? 夫と後孫のために愛するのです。そのように愛することによってこそ、良い後孫が生まれます。夫のため、後孫のために愛するのが妻の愛であり、妻を愛し、後孫のために愛するのが夫の愛でなければなりません。 私が愛されるために結婚をすると言うのは間違いです。愛は授け受ける為にあるのです。女性たちはいつも愛そうとしないで、愛を受けようとするのです。分かりますか、何の話か。 女性の胸、乳房は自分の為ではなく、男性の為です。自分の為大きなお尻をしているのですか? 女性は容れ物のようなものです。受け皿のようなものです。自分の為にできたものは何一つとしてないのです。自分の物ではないのです。自分は両親のものでしょう。なぜ両親が生んでくれたかと言えば、愛で連結されているからです。愛を授け受けることによって、子女が生まれてくるのです。はっきり分かりましたね? 愛を受けようとして結婚するのではなく、愛そうとして結婚するのです。それを訓練するために父母を愛し、いたずらな弟や、意地悪な兄がいて、意地悪やいたずらをされながら、教育を受け学んでいくのです。男性というのは女性がもっていない性がもっていない性格をもっています。だからそれが魅惑的であるということになります。それで自分の家庭で訓練をするのです。両親から叱りを受け、兄弟たちに意地悪をされ、殴られながらでも愛そうとするのは、後で夫に侍るための訓練なのです。 朝早く起きて、何でもやらなければならないのです掃除もしなければなりません。意地悪な弟がいれば、“ああ! 私が意地悪な夫に出会っても捨てられないために神様が意地悪な弟を与えてくださったのである”と思って消化しなさい。そう思えばどれほど楽でしょうか。自分の部屋に入ってきて、引き出しの物をみんな取り出して混ぜられることも、これからそのような夫に出会った時に乗り起えるための訓練なのです。 女性はよく物を包んでおきます。先生もそうでしたよ姉が何人かいましたけれどその包みを全部ほどいてみなければ気がすまなかったのです。(笑) それはみんな訓練ですよ。夫が妻のヘソクリなど隠していたものを開けてしまっても、文句を言ってはいけません。それは夫の権利です。(笑い) アメリカでは夫が妻に乞い願うことがあります。「私はこれぐらいお金が必要だからどうかください」と。男性がそうあってはなりません。百ドルでも必要な時は一度に使ってしまいます。しかしいつでもそうであってはなりません。全部を妻に与えることもあります。それが男性の世界と備性の世界と異なる所です。 家庭は結婚をして立派な妻と夫を作り出すための訓練場であるので、両親は厳格でなければなりません。為に生きる女、為に生きる男でなければ結婚をするな! 何の話か分かりますか? (はい)。 孝進! これからは為に生きる女、為に生きる男を作らなければなりません。あなたも祝福を受ける前まで、どれほど飛び出したかったことか、知っていますよ。もし化粧する道具が障害になるなら、夜中に全部トイレに流しなさい。(笑い) そうすれば心が安らかになります。なぜ笑いますか? 今は修練途中だからそうしなければなりません。だから男性がするような運動もやらせたりしています。そのようにして男性らしい男性をつくるのです。そのような国民を沢山もっている国家は興え、その家庭は興えます。もしそのようにならないとしたら、先生は嘘つきで詐欺師です。万物復帰をしなさい。人類を愛する為に伝道をしなさい。このようなことを犠牲的にやりなさい。そのようにして十年二十年過ぎると、座っていて相手の欠点と長所を見ぬき、どうすれば良いかがすっかり分かります。 先生は自分で行います。外国に来て反対を受けながらも……。みなさん先生の思想に染まりましたか、どうですか? 男性たち答えてみてください。(はい)。 皆さんが外に出て歩いたとしても、統一教会の原理と学んだものを抜き去ることはできません。なぜかと言うと、統一教会の原理と学んだ基準と生活方式に染まっているのです。統一教会がそのように厳しかったので、単時間のうちに世界的に発展したのです。六カ月の内にすべての世論をひっくり返しました。どうですか、そうしましたか? (ひっくり返しました)。これまでは機関銃のような非難や迫害の嵐がありましたが、完全に変わりました。そこで早く成長し発展していくためには、徹底的に素早く行動しなければなりません。先生が黒板に書いたことは間違いないでしょう? (真理です)。 皆さんは主体となり中心となりたいでしょう。そのためにはどのようにしたらいいですか? (為に生きることです)。百人いて百点ですかここで更に為に生きる人がいて、百点をとなるとその人が全体となり中心となります。そのために他より一つだけ余分にするのです。すなわち普通の人が十やるところを十一やるのです。統一教会に千名いるとして、その千名が皆同じようにやっているのに一つだけ余分にやる人は千名の中心となり主体となるのです。簡単ですよ。先生もその原則の道を今歩んでいるのです。お母様はただ従っていればいいのです。先生はお母様の指導者です。 アメリカの大統領はアメリカの為にやっていますが、先生はそれ以上に一つ多くします。今のすべての指導者たちは、反共においてレバレンド・ムーンに劣っています。先生は共産主義問題において、理論おにおいていかなる指導者よりも優れているのです。宗教、真理、哲学、すべてにおいて。二千年の伝統あるキリスト教よりもレバレンド・ムーンが優れているのです。再臨主はこのようにして来られるのです。なぜかと言えば、それは今まで語ったような理由からです。 皆さんになぜかと言えば私は知りませんと言いますね。一番最後に必ず決定が下ります。アメリカの全宗教界が今度レバレンド・ムーンのことで完全に一つになりました。私は栄光を望みません。一つとなることを願っています。 ムーニーは彼らから好かれますね。なぜですか? 十年為に生き、十一年、十二年、十三年、一生の間為に生きる時主体となるのです。これは原理、理論から見てそうなのです。盲目的ではないのです。先生はどのように発展するか、どのように全盛していくかを知っています。この道においてのみ繁栄し、発展し、すべてが盛んになるのです。東西南北四方へ自由に行くことができ、この周辺を自由に上がったりできるそのような公式を求めるならば、それは“為に生きる”という公式の他にないのです。分かりますか? (はい)。 人間は何の為に生まれたのか? 答えは簡単なことです。生きている宇宙の原則に歩調を合わせる為に、男は女の為に、女は男の為に家庭家庭において父母は子女のために、家庭は氏族の為に、氏族は家庭の為に、国は国民のために、国民は国のために、神様は宇宙の為に、宇宙は神様の為に存在するのです。それがすべてです。そこには何の不平もありません。それが完全な円となります。では中心をつくるのに(黒板の図を差す) この中心にすべての力が交叉する時、中心が「私を大事にしなさい」と言う時、交流できますか? 「私を大事にしなさい」と言う中心についていくことができますか? 大変なことになります。中心は為にやらなければなりません。為にやることは何んであるかといえば、どんどん分けて与えるので、分け与える環境が低気圧のようになって、どんどん水が入ってくるし、空気がどんどん水が入ってくるし、空気がどんどん補給されるのです。決して真空にはなりません。与えれば与えるほど、また更に補って、自分の方にも与えられるというのが原理原則です。ちょうど高気圧が低気圧に、風が流れれば流れてしまった後、そこが真空になってしまうのではなくて、必ずまた低い方から空気がやってきます。そのようなものです。決して真空になるのではありません。ですから与えれば与えるほど、自分の方にも与えられるというような原理原則になっているのです。それが自然の原理原則なのです。分かりますか? だからそのことを知ったレバレンド・ムーンは世界の統一ということを旗印としてこと運動を始めたのです。分かりますか? これをはっきり知らなければなりません。(はい) 皆さんはなぜ生きているのでしょうか? それは他人のために生きているのです。何のために生き伸びれたか。それは他人のために生きたからです。そのような運命の中にいるということを知らなければなません。若い人たち、先生の言うことが完全に分かりましたか? (はい)皆さん方は親に対して感謝し、そしてまたその感謝に基づいた生活をしなければなりません。親に感謝し、夫に感謝し、妻に感謝し、子供に感謝しなければなりません。なぜならば、そのような生活をすることのできる道を与えられたのですから、不平を言ってはなりません。 先生が監獄に行く日も近づいてきました。先生がいる時よりもっと熱心に活動するならば、統一教会は滅びません。分かりましたか? 父と母が亡くなったと言って心配するな! 父と母が愛していたすべての遺物を私が両親以上に愛し努力すれば、その家は滅びないで発展します。だからあなたたちが先生がいる時以上に統一教会の責任を背負い、統一教会がこれまで以上に為に生きようとして努力すれば、絶対に滅びないでより発展するのです。 統一教会の信者の中で誰が責任者でしょうか? 為に生きる人が責任者です。三人、十人の中でお互に誰が優れているかと言うことよりも、お互いがより犠牲になろうとする人が責任者です。カイン、アベルにおいて、最も為に生きる人がアベルです。よく分かりましたか。若い人たち分かりますか? (はい)。その他の人たちはどうですか? (はい)。今まではそのように生きてきたけれど、これからは一心で先生に教わったこの道にいかなければならないと決心すべきですか、どうですか? (はい、決心すべきです)。どうして「はい」ですか? それは真なる生活こそ繁栄をもたらすからです。 祝福家庭の子女たちでそうすると言う人は手を挙げて誓ってみてください。ヨンスク、あなたは学校をやめなさいと言えば止められますか? (はい、やめます)。では他の人たちも先生の話を聞きましたので、これからも決して失望を与えることなく完全な段階に至るまで生の指示に従い、生き方に従いますと誓う人は「はい」と誓ってください。(はい先生、はい先生)。 神様の祝福がありますように……。ありがとう。(拍手) 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021.11.27 17:24:30
コメント(0) | コメントを書く
[文鮮明先生み言葉選集(講演文)] カテゴリの最新記事
|