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カテゴリ:文鮮明先生み言葉選集(講演文)
「真の父母の日と天地人愛完成の日」 1994年4月11日 韓国・九里市・中央修練院 一九九四年四月十一日(陰暦三月一日)、第三十五回「真の父母の日」の記念式典が行われ、礼拝での内容。 「真の父母の日」「真の子女の日」「真の万物の日」「真の神の日」 「真の父母の日と天地人愛完成の日」、これはどんな意味ですか。真の父母の日が、いつから始まりましたか。今までは父母の日、子女の日と言っていましたが、今からは真の父母の日、真の子女の日、真の万物の日、真の神の日、このようにしようと決定しました。 今まで、神様も真の神様になれませんでした。堕落によって、復帰の恨を抱いた神様になったのです。それゆえに、復帰の恨の峠を越えられない子女たちも、真の子女になれなかったということです。ですから、真の万物の日、真の父母の日、このようになれなかったのです。 きょうは真の父母の日を設定してから、三十四周年になる日です。イエス様の年齢を見れば、イエス様は三十三歳で亡くなられたのですが、その時、もし祝福行事をしていたならば、三十四歳までかかったでしょう。摂理史を見る時、イエス様が三十四歳で祝福できなかったことを、世界的な基準で、父母様を中心として、祝福の世界化をなせる時になったのです。イエス様が世界的な家庭理想をなせる再出発の時になった、このように見るのです。また、おもしろいことに、父母の日を設定した三十四年前も陰暦の三月一日が陽暦の四月十一日でした。その日がちょうど一致したのです。それは皆、摂理的に意味のあることだと見るのです。 「真の父母」という言葉はいつから始まりましたか。堕落がなかったら、人間始祖が生まれた時から始まったのです。その時は、父母の日に「真」という言葉をつけなくても、真の父母の日になったのです。堕落したために、復帰過程において「真」という言葉を使うのです。 真の父母という言葉は創世以前よりありました。神様の創造理想において、すべての目標は何ですか。真の父母という目標を中心において、万物をつくられました。まず神様は日と月をつくり、その次に大地をつくり、次に空気をつくり、水をつくり、そのように環境をつくっておかれました。 その環境の中には、必ず主体と対象があります。これは創造の原則です。創造の公式です。皆さんはそれを知らなければなりません。環境の中には必ずプラス・マイナスがあります。プラス・マイナスが合わさって一つになれば、それが発展するようになり、また他のプラスと一つになっていこうとするのです。主体と対象があって、その主体と対象が、小さい所から大きい所へ発展するためには、ある主体と対象が一つになり、より大きいマイナスになって、もう一つの大きな主体を中心として一つになるのですが、これを統一教会では、対応的相対という言葉で表現しています。 主体と対象を結ぶものは愛 ところで、人間が堕落することによって、神様の救援摂理が始まりました。救援摂理というのは、正常な位置から落ちたため、再び戻って行くことです。人々が病気になって、病院に入って生死の境地をさまよい、そこから病気を治して出て来る時には、救われたと言うのですが、それを別の言葉で言えば、復帰された、正常に戻ったと、このように言います。 本来、堕落がなかったなら、救援摂理の歴史はなかったのです。堕落した人間が、再び帰るためにはどうしたらいいのですか。病気になった人が、病気になる前の状態に再び帰るためには、病気の苦しみを味わうと同時に、それに対する付帯的な要件を備えなければなりません。入院費や薬代などが必要なのです。それと同じように、神様の救援摂理の路程も、再び帰るためには蕩減というものがあります。そのままでは帰れません。そこに該当する条件を立てて帰るのです。それを蕩減復帰と言います。間違ったことを清算するためには必ず代価を支払わなければならないのです。救援摂理歴史は蕩減復帰摂理です。このように統一教会は、救援摂理の総歴史に対して結論を持っています。 蕩減復帰摂理は再創造摂理です。再創造摂理は、そのままでやるのではありません。必ず環境というものがあります。神様が天地万物をつくる時には、そこには必ず主体と対象がなくてはならないのです。 万物の中には鉱物があり、植物があり、動物があります。この鉱物世界も必ずプラス・マイナスの運動をしています。人間たちは分からないけれど、すべてが運動しているのです。原子も分子も全部、主体と対象になっています。人間たちは分からないのですが、すべて存在するものは、磁石のような作用をしています。地球の重力よりも強いため表に現れたものが磁石であるだけで、その他のすべてのものも自分なりに作用しています。そのため、鉱物世界もいつも主体・対象関係になっており、植物世界も主体・対象関係、動物世界もオス・メスを中心としてすべての作用をするのです。また人間世界は男性と女性を中心として作用します。 その作用の中心は一体何ですか。主体と対象関係を中心として作用するようになったその動機は何ですか。その内容は何ですか。これが重要です。自分なりの運動をするために、プラス・マイナスが損害を出すために運動するものはありません。必ず、二つとも利益になることを願っているので、作用するのです。 皆さんもそうでしょう。市場に損をするために出る人はいないのです。毎日のように出て、たった十ウォンでも利益が出てこそ、それを続けるのです。それと同じように、主体と対象関係も、損をするために動くのではなく、必ずプラスになるために動くのです。 その両者が共に利益になるようにする内容は何ですか。これが問題です。それは見えるものではありません。お金を持って、プラス・マイナス二つが利益になることはできません。また、知識を持って、双方が利益になることはないのです。権力も同じです。 このように見る時、その内容は何でしょうか。それは愛というものです。主体と対象を全部結んでいく、その主流の骨髄に行く流れ、内容、方向性が何かというと、愛なのです。その愛はどこへ行きますか。小さい所から大きな所まで行って、何をしようとするのでしょうか。これが問題です。宇宙はどの方向に集まっていますか。この方向性をとらえられなければ目的観がありません。今日の共産主義者たちは、進化論を主張するために目的観がありません。しかし、すべての存在物が主体と対象になっていれば、必ず愛というものを中心として始まるのであり、それを連結させていく道が愛の道です。 そのような愛の道を探していくのに、どのように行けばいいのですか。全部その道を行こうとすれば、小さなものは大きなものを橋渡しとして、大きなものはもっと大きなものを橋渡しとして、もっと高い所へ高い所へ行くようになるのです。学校の方向というものを見たとき、皆さんが国民学校へ行った後には中学校へ行かなければなりません。その次には高等学校、次には大学校、大学院、このように高い所を目指して行くのです。 欲心もそうでしょう。欲心もだんだん大きくなります。一番始めは「地方の国民学校で落第さえせず上がっていければいい」、次に「そこで一番になればいい」さらには「二学年でも一番」、全部一番になるのを願うのです。人の欲望というものは、低い所へ行こうという道はありません。 それでは、このように主体・対象関係をなしていく一つの方向性に、だんだん高まろうとする道があるというとき、その道は一体どのような道なのでしょうか。それが宇宙の根本になって、宇宙の内容になって、宇宙の目的と連結できる一つの流れなのです。流れが勝手に行くことはありません。動機があって、目的に向かって、一つの方向性に向かって行くのです。その内容は一体何か。それを愛というのです。 力よりも作用が先 すべての万物、鉱物までも全部相対に会って高められ、植物から動物世界へ発展していくのです。植物はどうかといえば、鉱物を吸収して生きます。また植物は動物の前に吸収されるのです。それで、はしごのように上がっていきます。動物に植物が全部食べられ、それで滅びるのではなく、発展していくのです。全体を見ればそうなっています。 その次に、動物の中でも、低級な動物は大きな動物に吸収されるようになっています。海の魚を見てみれば、海の深い所から水面まで温度の差があるのですが、温度の差に従って魚の系列が数百系列あります。一番小さな魚は表面にいて、もう少し大きなものはもう少し深い所にいて、もう少し大きいものはもう少し深い所、そのようにして鯨のようなものは底の方に住むのです。全部、大きいものが小さいものを捕まえて食べます。そのようになっています。 ここにいる日本食口の中で、先生が話す韓国語をよく聞き取れない人、手を挙げてみなさい。(ここから日本語で)一九九〇年度までに勉強するように、先生はちゃーんと言いました。一九九〇年以降は通訳は使わないと世界的に公言したのに、君たちが勉強しなかったのだから、君たちの責任であって、先生の責任ではありません。分からなくても仕方ありません。これから、再び勉強しないといけません。分かりましたか。 (韓国語に戻る)これを、ダーウィンは弱肉強食と言いました。ちょっと見れば、それは合っているように見えます。強いものたちが小さなものたちを捕まえて食べます。そのような自然界の現状を見る時、合っているように見えますが、物質自体も発展し、高尚な理想がなければならないのです。高次元的な愛を求めていこうとすれば、そのようになります。物質として求めていく、その目的はどこですか。このような問題にもなります。 人は二つの内容を持っています。精神的内容と物質的内容です。この精神が先か物質が先か、意識か存在か、という哲学にかかわる問題が、唯物史観、唯心史観を中心として、終末的な世界に混乱状態を与えて、その後の方向まで混迷させてきたのです。 ダーウィンは種の起源を中心として神を否定しました。すべての万物は進化して発展してきたという進化論が問題なのです。それが正しいか、正しくないか。統一教会はこの問題を中心として共産主義を打倒していくのです。今日、理論的な面から、それが正しいのか、正しくないのか、さらにそれを実際に実験し、科学的な評価によって全部決定し打倒するのです。 端的に話すと、共産主義では「精神というのは物質の副産物だ、物質から出てきたものだ」と言います。唯心世界では「精神から物質が出てきた」と言います。どちらが正しいのかという問題を中心として、世界が上になったり下になったりしてきました。この共産主義というものはなくさなければならないでしょう。 すべてのものは運動をするようになれば消耗するのです。運動して大きくなる方法はありません。運動していけば必ず小さくなります。電気をみても、入ってくる力と出て行く力がありますが、運動するため、入ってくる力よりも出て行く力が小さくなるのです。入力は出力よりも大きい、このように見ます。 この観点で見る時、アメーバが運動するようになれば、それは小さくなるのであって大きくなれません。発展という言葉は、運動する前のアメーバよりもっと大きくなって出てくるときに使うものです。この論理は科学的な結論です。この食い違いにどのように答えられるのですか。これが問題になります。 その次に、アメーバから人間まで発展してきたのですが、そこには数千系列があります。その系列の中では、必ずオス・メスの愛の門を通して種の繁殖をするのです。低いものは、低い所から愛という関係の門を通して、繁殖して拡張する運動をするのです。それでは、アメーバからの数千系列のこの愛の門を、どのように通っていくのですか。愛の門もなく上がっていったということですか。そのようなことは狂った考えです。 次に宇宙の根本を見れば、この宇宙の環境の中には主体と対象があります。全部が運動をするため、これは問題になります。最近、科学者たちは、この宇宙は「力」でできていると言います。力が先か、作用が先か、それが問題です。 男女が愛し合うようになるとき、父母たちが反対すれば、生命を懸けて、首を吊るか、投身自殺をしようとします。そのような力がなぜ出てきますか。男女は最初にどうなりますか。目が合うようになってウインクをすれば笑います。このようにして作用が生じるのです。相対的関係がなされれば、作用の力が生じるのです。愛という力の前に、愛を連結することのできる作用を加えていかなければなりません。このように見るのです。 それでは作用が先か、力が先か。力よりも作用が先なのです。作用を経なければ、作用のすべてのものを合わせていって連結させなければ、力が現れないのです。力を出そうとするとき、考えることから、このようにしなければならないという心の作用を起こして、大きな覚悟をして、パッと力を出すようになっているのです。だから、力を出すためには作用を経なければなりません。 それでは、作用は一人でできるのでしょうか。これは根本問題です。一人ではできません。作用するためには、環境の中には主体と対象があるのですが、必ずこれを通してやらなければなりません。 男女が好き合えば、目が合い、それで近づくことを願います。心が作用すれば、近づいて来るようになるのです。女性たちは、男性たちが近づいて来ても嫌ではないのです。じっとしていないで、私をちょっと触ってくれたらいいのに、というようになります。それで触ってあげれば嫌がらないのです。このように発展していきます。愛というのは最後に一つになる力です。そのため、力が出てくるまでは、必ず作用を経ていかねばならないのです。作用というのは一人ではできません。分かりますか。一人ではできないのです。 堕落により心と体が反発 それで、すべては相対になっています。我々の顔を見てもそうです。目が一つだけだったら、どれだけ便利でしょう。なぜ目が二つなの? 宇宙の公式に合わなければならないからです。すべてのものは、主体・対象が運動をしながら、一つの中心を中心として連結されるのです。この中心が三点です。運動することは、必ず中心を中心として三点に連結されるのです。縦的に見ると、このような運動をしても三点が連結されるので、宇宙の構成要素は三点を骨子にします。それで顔も三段階になっているし、目も三段階になっています。白い部分、褐色の部分、真っ黒な部分と三段階です。このように見る時、作用というのは一人ではできないのです。このように理論的追求をして、それが正常化されて常識的な基盤になればいいのです。真理は常識を逸脱するものではありません。 宇宙のすべての力がある所には必ず作用があるのですが、作用するには必ず主体と対象の関係を通してなされるのです。このような観点で見るとき、救援摂理は復帰摂理ですが、そのままでは行けないので、蕩減しなければなりません。罪を犯せば、刑務所に入って服役をした後に釈放され、出て来なければなりません。同じです。蕩減復帰するには、そのまま指折り計算式に勝手にできないのです。すべてのものは、原理原則を通さなければなりません。それで、統一教会は「復帰は再創造原理に従ってしなければならない」と、このようにいうのです。環境においても、主体と対象が一つにならなければならないのです。絶対的に一つにならなければなりません。一つにならなければ復帰もできないし、天理の存在世界は違ってくるのです。 心と体が、一つになったこの宇宙の公式、原則的な環境圏内に、プラス・マイナス、主体・対象関係のルールに反発するのです。心は体を引っ張って、消化して一つになろうとし、体は心を引っ張って一つにしようとするのです。なぜこのようになったのでしょうか。堕落したためです。堕落しない公式過程を経るためには、主体の前に、対象を一つにすることのできる行いをしなければなりません。 それでは、体に従って心を屈伏させて、どこへ行くのですか。政治家たちが良心をごまかして、詐欺をして、独裁者のように世の中を自分のものにする、そのようにしては滅びてしまうというのです。体は、持っていればもっと持っていたいし、もっと持ちたがるのです。どこまで行くのでしょうか。世界を皆持ったとしても、この体は、何か良いものがあったら全部持とうとします。世界を自分のものにしたのですが、その中に金鉱があり、ダイヤモンド鉱があれば、自分がその中で一番良いものを集めて、皆持とうとするのです。 そのため、あてどもなく回り、あてどもなくさまようのです。主体・対象関係はないのです。ですから、これが問題です。それを主体として相対的関係になれば、どこへ行きますか。家庭で始めて、国家を過ぎて行って、世界を全部あちらこちらへ引っ張って回るのです。 しかし、良心というものは縦的です。そのために、良心があることよって定着するのです。良心がなそうとするままに体が屈伏すれば、体がやろうとすること以上に価値を持つようになっているというのです。それを知らなければなりません。良心がやろうとするとおりにやるようになれば、体がやろうとする以上のものを求めるのです。なぜでしょうか。人は高い理想を持っているためです。そのために男性たちは肩を広げ、胸を張って歩きなさいというのです。 女性は謙遜さが大切 女性に対して、胸を張って肩を広げなさいという言葉を聞いたことがありますか。女性たちは肩を広げても小さいのです。女性は腰だけが大きく、男性は肩が大きく反対だというのです。このように反対になってぴったり合うのですが、女性も同じようになれば、倒れていくのであって、それでは亡国の世界になることを知らなければなりません。 最近、肩を広くして歩く女性たちが、たくさん出てきているでしょう。亡国の輩、終わりの日になったのです。それで、女性は道を歩いてもどこが運動するのかといえば、腰の運動です。男性たちは、速く歩けば肩と腕を振りながら、ビュンビュン通って行きます。女性たちはなぜそうなのですか。子供を宿すようになっているためです。速く行ってためになることはありません。軽く両手を振って歩くようになっているのです。生理的にそうです。ですから、肩を広くして歩き回る女性たちから浮気が始まるのです。浮気者はそのような連中が多いとみるのです。それだから、女性は謙遜でなければなりません。 女性のものは何もありません。全部子供のものです。顔は女性のものではなく、男性のものです。女性は空の入れ物です。それは私の言葉ではありません。そうなっています。空の入れ物だといって寂しがってはいけません。空っぽのかごが悪いのですか。悪くありません。空のかごへ何を入れるのかによって価値が違ってくるのです。 神様はアダム・エバ二人しかつくられませんでした。二人しかつくらなかったのですが、アダム・エバには息子・娘を二人だけ生めと言われましたか、たくさん生めと言われましたか。生めば生むほどよいのです。統一教会の教会員たちは、一ダースずつ皆生みなさいというのです。皆さん、村のような所を訪ねて行くとき、一人で行くのがいいですか、群れをなして行くのがいいですか。一人では寂しいのです。どこか分からない、他人の街へ入って行くようになったとき、気勢を上げて堂々とやるためには、多ければ多いほどよいのです。多いほど堂々とするのですが、老人たちをたくさん連れて行って、堂々とするのですか。自分より年の若い人が多ければこそ堂々たるものです。同じです。皆さん、天国に入るとき、一人息子を連れて行くのですか、多くの者たちを連れて行くのですか。はっきり答えなさい! (「多くの者たちです。」) 人間が堕落することによって、神様が理想とする天国は空いています。それを知らなければなりません。今日、既成教会の人たちは、何かにつけて天国へ行くんだと大げさにいいますが、天国へ行くなら、天国の規格に合う生活方式と、その国の法度に従い、すべてのことに合うようになって行かなければならないのです。神様が天地を創造するとき、法を中心としてつくりました。すべての実体は法の上で動くのです。天国を創造するとき、法に従ってなしたため、その法に合う姿を備えなければ入れません。泥棒の輩が、平和な村に入って来て住むことはできないのです。このような法をすべて知らなければなりません。ただ信じて天国に行くというのは、無知で愚かなことです。泥棒の輩よりもっと恐ろしいのです。信じて天国に行く? 霊界に行ってみなさい。パウロがどうなっているのか。 愛による男女平等権 皆さん、女性たちが男女平等と言うでしょう。ここに数多くの女性たちが集まっていますが、「男女平等権を唱えるべきだ」と、そのように思いますか。女性はご飯を食べることでも、男性の半分しか食べられません。また体重も五分の一は軽いのです。小さい人は五分の二軽いのです。例を挙げれば、日本の娘さんたちは半分にしかなりません。それでも平等権でしょうか。背丈で見ても同じだと言えますか。歩いても小さい足でついて行こうとすれば、のそのそとついて行きながら、「ああ、死にそう」と言うではないですか。それが平等権ですか。 ここにいる女性たち、社会において女性がいつでも問題だというのです。男女共同オリンピック大会があれば、女性が一種目でもチャンピオンになることができますか。言うのも恥ずかしいです。百ある中で、一つもないということなのです。 裁縫するのは女性たちがうまいといいますが、ミシンの先生に女性はいません。デザイナーにおいても、世界的な人の中に女性はいません。何に秀でていますか。子供を生むこと一つしかありません。女性が世界的なチャンピオンになれるのは、子供を生むことしかないのです。違うと思う者は手を挙げてみなさい。事実がそうです。事実は事実に従って話さなければ、それは気の小さい男性です。 気分が悪くてもしかたがありません。事実ですか、事実ではないですか。(「事実です。」)女性たちが事実だと答えたので、私は今、永遠に事実として信じ、自信を持って話します。さあ、何が平等権ですか。愛を中心として一つになることです。愛を中心として平等になります。結婚しない女性が平等権を主張できますか。女性権運動する人は男女平等だと言います。私がアメリカに行くと、「レバレンド・ムーンは男性主張者だ!」と、こうなのです。その女性たちを集めて、一人一人に聞き、「あなたたちのそれが平等権か」と言えば、すっと縮みあがるというのです。 アメリカに行くと、「女性が主体なのか、男性が主体なのか。誰が子供を生んだのか。女性が皆生んだでしょう!」と言うのです。それは合っている言葉です。「子供を生むのに、主体は女性ではないですか」と言われたとき、「ああ、それもそうだ」と言いました。それで「東洋では男性を主体とし、西洋では女性を主体とするようだが、それはどちらが正しいのか」と尋ねてみると、「それは東洋が間違っている、西洋が正しい」と、そのように話をするのです。 それでは、「引っ張られて行く人が主体か、引っ張って行く人が主体か」と尋ねてみれば、「引っ張って行く人が主体です」と言うのです。女性と男性とどこかに行けば、引っ張るのは男性でしょう。引っ張って行くほうが主体だというのです。それでは、行ったり来たりするのが主体ですか、位置を決めてじっとしているのが主体ですか。じっとしているのが主体です。男女を見るとき、女性のほうが、行ったり来たりするのです。人が話すとき、心が命令するままに言うのですから、体が命令するままに心が決定して、このようにやりたいと言っても、口が言葉を話しますか。 その次に、隣近所を歩き回りながら噂を流し、大げさにするのは男性ですか、女性ですか。(「女性です。」)それは間違いありません。そして唇を見れば、男性の唇が厚いですか、女性の唇が厚いですか。男性の唇が厚い場合が多いでしょう。唇においても、誰が主体かといえば男性が主体です。そして、顔にもう一つ、あるものとないものを見るとき、もう一つあるほうが主体です。女性たち、ひげがないではないですか。 だんだん男性が主体だということが確実になってきました。手を見ても、男性たちは、毛がこのように出てこそいいのです。また、活動することにおいて、尻の重い人が活動できますか、軽い人が活動できますか。男性は尻が小さいのです。女性は座って暮らさなければなりません。 男性がなぜ、絶対的な主体かといえば、愛は男性から始まるからです。女性はくぼみです。受けるのが主人ですか、与えるのが主人ですか。プラス・マイナス、ペアが悪いのではありません。ペアになって落ちれば悪いですが、ペアになって上がって行けばいいのです。どちらがプラスですか。それは男性です。そして、子供の種は、女性にあるのですか、男性にあるのですか。(「男性にあります。」) 無形の神様が、実体の神様の代身として置き換えるのです。上弦・下弦が連結されているのです。連結しなければならないので、神様が人を創造せざるを得ないのです。上弦がプラスなら、下弦はマイナスにならなければならないでしょう。見えないものと見えるもの、これがプラス・マイナスにならなければならないのです。 見えるものが貴いか、見えないものが貴いか。見えないものが貴いのです。女性たちは負けました。さっき言った男女平等権というものは、男性と女性が完全に愛することができる資格者になってこそ、男女平等権を叫ぶことができるのです。 男女平等権は、唯一愛だけをもって言うことができます。愛とはどんな愛ですか。一日限りの愛ですか。最近のフリーセックスは一日限りの愛です。そんな愛を持って平等権を主張することはできません。変わらない愛であればこそ、平等を主張できるのです。 愛は生命と良心と血統の根本 皆さん、ダイヤモンドがなぜ宝石になったのですか。それは炭素で、木炭と同じです。それがなぜ、宝石の中で一番良い宝石になったのですか。硬いことにおいては何にも負けません。その硬いことを占領されません。不変です。硬いことにおいて変わらないので、ダイヤモンドは宝石の価値があるのです。金はダイヤモンドみたいに硬いですか。柔らかくて、爪で引っかけば跡が残り、実際は飴みたいでしょう。冬に、飴はぽきんと折れますが、金は春の季節の飴のようです。黄金色の光、輝きにおいて変わらないのです。光において千年、万年、歴史を超越しています。それゆえに宝石なのです。また真珠においては何がいいのでしょうか。ハーモナイズ、色合い、全部調和をなすのです。 春の季節になれば、和合の環境がつくられます。地と天が合わさって和合するのです。そのため、すべて霧がかかってぼやけたようになります。秋の日と違うでしょう。和合の色を持っているため、誰が見ても純化され心が安定するという、その意味において、その色が変わらないのです。これをハンマーでゴンと叩けば、皆壊れてしまいます。その色一つが変わらないので宝石になっているのです。貴いものになるのです。 それでは、神様はどんなお方ですか。すべての面において変わらないお方です。このような結論が出てきます。神様の性稟において、目を見ても一つ目ですか、鼻を見ても一つ鼻かというのです。皆さんは二つの目を持っているでしょう。この目玉で見るのですが、心を通して見ようとし、体を通して見ようとする二つの目があるでしょう。ここで体を通して見れば悪いことで、滅亡するのです。死亡に流れていきます。しかし、心の目を通して行くのは、永生の道を行くのです。宗教と非宗教圏、二つの群れに分かれるのです。体は同じものを取り扱うとしても、変わらない価値を認めようとしません。悪魔は毎日変わるのです。気まぐれものです。 それでは、人において、どのような人が宝物のような人なのでしょうか。人において変わらないものは何ですか。それはお金だ! お金は変わりますか。(「変わります。」)また知識だ! 知識は変わりますか、変わりませんか。大韓民国の知識は大韓民国だけで使えるのであって、どこへ行っても使えるものではありません。法を中心に、風物、地理、歴史、全部大韓民国だけで必要でしょうが、他の所へ行けば使えないでしょう。通じないのです。何百年、何世紀を克服しなければなりませんし、過去、現在を克服しなければなりません。 それでは権力だ! 「草花は十日の命」という言葉があります。花は十日間しか続かないということなのです。いくら誇ったとしても、長く続かないのです。権力がどのくらい続きますか。大統領になって、その権力が永遠に続きますか。継続できないのです。権力も変わり、知識も変わり、お金も変わります。これが好きな人は変わる世界に行くのです。それは理論的に合うことです。真理は理論に合わなければなりません。 それでは、人において変わらないものは何ですか。良心は変わりますか、変わりませんか。また生命は変わりますか、変わりませんか。名前は変わらないけれど、人は変わり得るのです。それで、名前を残そうとする人が多いでしょう。人において変わらないものは、良心と生命です。幼い時の生命や、中年の時の生命や、老年の時の生命、生命は貴いものです。いつも私と共に一つになろうとします。限界線を越えて、いつも長くいたいし、長く生きることを願うのです。長生きを願う何かがある、これなのです。 その次には自分です。大韓民国が長く長く続くのを願います。それを人でいうなら血統です。「血は水よりも濃い」という言葉がありますが、血筋に従って連結されるのです。血筋は変化を好みません。大韓民国なら大韓民国を、一族なら一族を保護しようとするのです。すべての動物も本能を中心としてそうなのです。 その次には何が変わらないのですか。血筋も行けば途切れます。断たれないものは何ですか。それが愛だというのです。愛により始まって、途切れることのない生命に連結され、愛において男性と女性の生命が激突して、一つになって血筋が生まれるのです。その根本が愛です。人間の根本生命とか、伝統とか、自分の妻や子供という血筋は連結されるためのものです。それが何によって動員されるのかといえば、その母体が愛だというのです。愛がなければ、男女二人が一つになれますか。一つは天、一つは地ですが、それをどうやって一つにしますか。人間の調和をもってしてはできないのです。 愛というものは生命の根本にもなり、良心の根にもなり、血統の根にもなります。ところで、その愛が行ったり来たりすれば、血筋も行ったり来たりするし、生命も行ったり来たりするし、良心も行ったり来たりするというのです。そうなれば大変でしょう。そのため、愛だけは変わらずにいなければならないという論理を、我々は嫌でも認めざるを得ないのです。それだから、愛を変わらない宝物の位置に立てなければならないのです。 その愛が貴重で貴いものになるには、その愛だけは変わってはいけません。このような論理が成立します。そうなれば、その人は貴い宝物のような人になるのです。このような結論を下しても、どこの誰もだめだという人はいないでしょう。愛が変わるのを願いますか、変わらないのを願いますか。(「変わらないのを願います。」)なぜ。生命よりも貴く、血統よりも貴く、良心の根であるため、良心より貴いのです。 天地人愛完成 それでは、私が貴重な人だという時、皆さんは大韓民国の宝となるのですか、世界の宝となるのですか、天の国の宝となるのですか。きょうの御言の題目が、「真の父母の日と天地人愛完成の日」ですが、それは何のことですか。その愛が、大韓民国で変わらない愛の代表者になりますか、それとも、世界で変わらない愛の代表者になりますか。天地とは、天と地をいうのですが、天と地の変わらない愛の代表者になりますか。また、この天と地の根本になり、その中心になるすべてのものをつかんで、意のままにかき回すことのできる、その根となる愛を中心として代表できる者になるのですか、どうですか。 天地人愛とは何ですか。天地人の愛をいうのです。天の愛、地の愛、人の愛、それが皆入るのです。天地人愛完成の日。完成の日、それは良い日ですか、悪い日ですか。(「良い日です。」)きょうだけ良い日ですか、永遠に良い日ですか。(「永遠に良い日です。」)それで救援摂理が可能なのです。変わるものは全部風呂敷きに包んで、投げ捨てるのです。皆、摘んで捨て、下着だけになっても恥ずかしくありません。私はふんどしをして歩き回っても、変わらない愛を持っています。そうしても恥ずかしいことがないでしょう。天地人愛完成をなすのです。その頂上に上がることができるのです。 それでは、その頂上に根となる神様がいたら、そのような代表者として神様に会える資格がありますか、ありませんか。神様に会ってどうするのですか。「神様、私と愛し合いましょう」と言えますか、言えませんか。今の立場を言うのではなく、天地人愛完成したそのような位置を言うのです。そうなればいいですか、悪いですか。 神様は変わらないものが好きですか、変わるものが好きですか。(「変わらないものが好きです。」)神様ご自身が億千万歳を生きるとき、億々万々歳生きるそのような人がいれば、ぴったりくっついて放してくれますか、放してくれませんか。(「放してくれません。」)おお、神様を完全に自分のポケットに押し込めることができる、そのような力を持って、「神様、来い来い」と叫べば、神様もしかたなくついて行くしかありません。杖を持った、何万歳年を取ったおじいさんになりますが、ノソノソと、私が行く所へついて来ざるを得ないのです。 人間が行かなければならない最後の終着点が何かというと、知識の王者でもなく、百万長者や億万長者でもなく、世界を統一した人でもありません。ただ一つ、愛を中心として、天上世界、地上世界、万有の存在の前に、私に従えといえる、このような位置に立つことです。その位置に立てば、すべての万有の存在は主体・対象関係で結ばれているために、愛について行くのです。それぞれの愛に従います。鉱物は鉱物なりの愛、植物は植物なりの愛を中心として連結されるようになっているのです。 信じられる人は一人もいない だから、そのような位置に立った自分の後に、百万千万長者、世界の宝物などが全部、ぞろぞろとついて来るようになっています。気分がいいですか、悪いですか。(「いいです。」)文総裁は何も持っていません。世の中において稀な人です。皆さんも同じように稀な人たちじゃないですか。私はもっと稀です。なぜ。世の中で悪口をたくさん言われてみると、自分に近い人たちは皆落ちていって、一人しか残らなかったのです。分かりますか。一生悪口を言われて生きた人ですから、どれだけ多くの人々が来て、くっついて離れていったか分かりますか。このような凡人たちは、くっつこうとして来ましたが、少しだけ行けば、皆離れてしまいました。寂しいですか、寂しくないですか。寂しくてもしかたがないですね。 イエス様の弟子の中で、ペテロが使徒だとか何とか、既成教会で大げさに言いますが、その使徒の中で、使いものになる者は一人もいません。背信者の後継者です。このようなことを言うと、既成教会では私を見て異端だと言います。ペテロ、ヤコブなど十二弟子は背信者の後継者ですか、信じる後継者たちですか。 イエス様は失敗者ですか、成功者ですか。失敗者です。どんな失敗をすれば十字架に架けられて死ぬというのでしょうか。そして復活の四十日間に、離れていった十二弟子を集め、再び導いたので、それはどれほどかわいそうですか。失敗者の収拾です。既成教会はそのようなことを知らないでいるのです。私がそのようなことをみんな知って話してあげると、新しいことを言うと、「おお、異端だ!」と言うのですが、誰が異端なのか正統なのか、見なさいというのです。異端だといって、その異端を誰が分かりますか。霊界へ行ってみなさいというのです。 私は霊界の隅々まで、皆くまなく探して、こういうことをしているのです。世の中の物情に精通し、天上の物情を広く知って、神様がいかなるお方で、イエス様がいかなるお方で、素晴らしいと言われる聖者に会って、皆確かめて現れた人なのです。そのため、孔子もわが弟子、釈迦もわが弟子、マホメットもわが弟子と言ったということなのです。そうしたら「おお」と騒ぎが起こったのです。イランのホメイニが、教団の名において文総裁死刑式をしたでしょう。マホメットを自分の弟子と言ったので、死刑だというわけです。 それがもし、霊界に行って事実だったらどうしますか。私は見て知って、実験して話すのです。それを見ることもできず、聞くこともできず、知ることもできなくて、どういうつもりですか。反対に行くのです。決裁がどうなるのか知っているのですか。 見なさい。私一人ぼっち、このように哀れな存在となって、四十年人生を寂しく生きてきました。今も、寂しくても私の友人は一人もいないのです。ここにも信じられる人は一人もいません。皆さん、自分自身が信じられますか。自分も信じられない世の中なのに、誰を信じるのですか。しかし、私は私を信じます。そこが皆さんと違います。世の中は自分を信じませんが、私は私を信じます。私一人、私を信じます。私が言ったことは、私が信じているので、そうならなければ、私がなしておくのです。それが世の中と違うのです。分かりますか。私は私を信じるので、私が言ったことは間違いなくなしてしまうのです。 普通の人たち、世の中の人たちは、言ったことは流れてしまいますが、私は私を信じるために、私が言ったことがもしできなければ、私が必ずなしてしまいます。それが違うというのです。 そのようにして家庭を越え、今は国を越え、世界も越えました。今回ゴルバチョフが来たでしょう。今度は私の弟になって行きました。「あなたは私より十歳以上年下だから、弟の中の弟です」と言うと、「あ、そうですか」と車に乗って行きながら、「私はレバレンド・ムーンの弟だ、兄弟だ。いいですね」と言ったのです。 私の言うことを聞いて、南北総大会をすればどれだけいいですか。三十八度線の緩衝地帯で、米軍、北韓の人民軍、韓国軍に囲まれた中で、両国が連合大会をすればどうなりますか。統一が近づいて来ますか、来ませんか。今や私の言う通りにすれば英雄になるというのです。 そういうことは私は得意です。国もなく、一人だけしかいないけれども、そのようなことがうまくできるようになっているのです。今は、世の中が、文総裁のやることを信じようとしています。今まで、世界をポケットに押し込んでおける準備を皆しておいたのです。 主体である男性は真の愛と真の生命の種を持たなければならない さあ、どこから話に入りましょうか。男女平等から道を外れました。言葉の本来の意味を失ってしまってはいけません。男女平等権において、男性が主体だ、そして神様が主体だと言いました。男性は神様に似ているがゆえに主体なのですが、主体になるためには何を持たなければならないのでしょうか。真の愛と、真の愛の生命の種を持たなければなりません。なぜ愛が必要かといえば、変わらない愛を持つ人は、真の愛と生命の種を受けるのにも喜んで受けることができ、喜んで受けたものを喜んで与えることができるのです。与えるのは子供の種をあげるだけではありません。女性たちが受けて、子供を身ごもって、父母と夫に与えるのです。それが平等権です。 そのような愛を持って、変わらない愛の下で生まれた息子・娘は、永生せざるを得ません。そのような愛は永生するのです。皆さんは永遠なる愛を望みますか、一時的な愛を望みますか。永遠なる愛は神様と通じるのです。神様が根ですから、神様の根と連結された真なる母、父の愛は真の愛であり、真の愛を中心として連結された真の生命の種を受けるのです。そのような真の生命の種を受けたがゆえに、神様から直接伝授されたがゆえに、その息子・娘は永生するようになるのです。これが理論的結論です。 皆さんは永生することができますか、できませんか。(「できます。」)どのようにしてできるのですか。真の愛を持たなければなりません。変わることのない女性とならなければなりません。だから、未婚の時、お嫁に行ったならば、再びお嫁に行かなければなりませんか、行くべきではないですか。お嫁に行った女性が浮気をすべきですか、すべきではないですか。(「すべきではないです。」)自分の夫よりハンサムな男性がいる時、「あの男性と一度暮らしてみたい」と、そんな心を持つべきではありません! いまだそんな輩たちが多いというのです。 変わる愛はだめです。愛は二つの道ではありません。一つの道です。前にも話したように、植物世界、動物世界、すべての万物も皆、授けて受けるときにおいて、愛ゆえにただ一つの道になるのです。小さい愛は大きい愛に橋渡しを頼むのです。小さいものは、しきりに大きくならなければならないので、はしごを登ってひっきりなしに上がって行きます。広くなり、高くならなければならないのです。 統一教会を保護するための神様の戦略 人間の生活における基台、家庭形態の模型基準は何でしょうか。それは兄弟、夫婦、父母ですが、それはどこから来たのでしょうか。神主義から来たものです。神様が一番愛するものは何でしょうか。息子・娘です。また、神様の家庭の夫婦はお互い愛し合います。死ぬのも生きるのも一緒であり、永遠に足を紐で縛り、一つとなって生きていく中で、子女を生むようになります。そして、父親、母親となるのです。兄弟、夫婦、そして父母です。神様もそのように成長されたのです。 今日、既成教会に聞いてみるならば、神様はいっぺんにパッと大きくなったといいます。あまりにも万事を知らないのです。神様は第一です。では、第一のその内容はどうなっているのでしょうか。そうした話が論理的に合わなければなりません。原因と結果を知らなければなりません。既成教会では原因が分かりません。結果も分かりません。 統一教会では原因がはっきりしていて、未来がはっきりしているのです。世の中がどうなっているか、はっきりしているので、統一教会は自信満々です。既成教会では「雲に乗り再臨のメシヤがやって来る、主よ、主よ」と叫ぶのです。しかし、いったいどんな奇跡が起きるというのでしょうか。死んでしまうと、大地を叩いて慟哭するのです。どんなに騒いでも、何億年経っても、雲に乗って決してやって来ません。 旧約聖書に、エリヤが雲に乗ってやって来るという記述があります。ユダヤの国ではエリヤが来て初めてメシヤが来ると今も信じていますが、エリヤが来たという話を聞いたことがありますか。(「ありません。」)聞いたことのない話であるがゆえに、イエス様は異端と言われてきたのです。 イエス様は「エリヤは洗礼ヨハネである」と言いました。ですから当時の人々は、今の既成教会の人々と同様、「異端者イエス、洗礼ヨハネがエリヤだというのは、おまえがメシヤと言いたいがために言っているのではないのか。悪魔の手先バアルの王よ」と叫んだのです。 マラキ書にはエリヤが、来るべき主の道を整えると書いてあります。雲に乗っていった人が人間としてやって来たというので、「こいつ、おまえはメシヤと言い張って人々をだまそうとしているのだろう」と言われました。イエス様は詐欺師となったのです。 イエス様が詐欺師となって死んだのと同じように、今の既成教会では、主は雲に乗って来るはずなのに人間としてやって来たというので、詐欺師呼ばわりし、悪魔呼ばわりするのです。私が悪魔の王となったのです。詐欺王です。これは正統に通ずる話なのでしょうか。正統なのか、正統でないのか、あの世に行けば分かるでしょう。 私を信じて滅びたという人を見たことがありません。統一教会を信じてきて損害を被りました、私は損害賠償を請求します、という人を見たことがありません。統一教会を信じて十年になれば、それだけよい人になったでしょうか、悪い人になったでしょうか。さえない人も良い人になっていったのです。やくざ者が皆、愛国者になったのです。それは良かったのですか、悪かったのですか。 ある人たちは、「統一教会に通う信者たちはよいのに、師匠が間違っている」と言うのです。その話はよいことです。詐欺師連中は来るなということなのです。こんなにも素晴らしい広告が果たしてあるでしょうか。売国奴たちは自分たちの腹の痛まない所を探し回るのですが、もし彼らにとってよいと言えば、盗賊たちがまずやって来て、ありとあらゆるものを何か分からなくしてしまうのです。他の人たちを追い出すためにです。「統一教会に通う人たちはよいけれども、統一教会の先生は詐欺師だ、魔王だ」、こうした話は先生の所には届かないのです。神様が戦略的にそのようにするのは、統一教会を保護するためなのです。(「アーメン。」)(拍手) 私は拍手が嫌いです。注意を喚起しなければならない時に、サタンがやって来て、聞こえないように拍手をするのです。拍手をしてしまうと、その前に何を言ったか忘れてしまいます。ですから、拍手をしなくてもかまいません。いつでも一日中拍手をしてもらったと思っているので、静かにしてください。その代わり、話した内容を忘れることなく覚えてください。 統一教会の者たちで、一つ間違いないことは、統一教会に入教して十年なら十年いただけ変わったというのです。上がるように変わったのですか、下がるように変わったのですか。(「上がるように変わりました。」) 本当ですか。(「はい。」) では、どうして先生が悪口を言われるようにするのですか。皆さんが悪口を言われたくないがゆえに、先生が悪口を言われるのです。簡単なことです。なぜずっと先生の悪口を言うのでしょうか。皆さんが黙っているからです。統一教会の人たちは素晴らしいのですが、その素晴らしい人たちの話を聞きますか。説教してみなさいというのです。そうしたら先生が悪口を言われるでしょうか、ほめられるでしょうか。 尹博士。(「はい。」)お父さんが他界していますね。他界する前に伝道しなさいと言ったのに、霊界でどうするのですか。最近になって、「入会願書を書いてから行きました」と言ったそうですが、間違いなく書いてから行ったのですか。私は見ませんでした。私はそのおじいさんの顔を知りません。統一教会に入って、間違いなく変わったことだけは事実です。そうですか、そうではありませんか。(「そうです。」) 神様も一人でいると寂しい さて、神様もすべての環境の中に介在し、入っていったでしょうか。環境には必ず主体と対象があるとするならば、神様もそこに入っていかなければなりません。天地のすべては主体と対象に創造されています。神様がそうであり、動機がそうであるので、結果がそうなったのです。 では、神様が主体であり、私たち人間が対象であるというならば、その主体と対象は何を中心として関係を結んでいるのでしょうか。(「真の愛です。」)愛を見たことがありますか、ありませんか。(「ありません。」)愛に触ってみましたか。見ることもできず、触ることもできないのに、そのようなものを好む人たちは狂った人たちですね。では、良心はありますか、ありませんか。(「あります。」)見ましたか。(「見ていません。」)それでは、生命を見ましたか。(「見ていません。」) 生命の形態が備わっているのが「私」だということは知っているものの、どのようにして生まれたかはよく分かりません。また、力に触ってみましたか。力に触ってみることはできません。電気の力を見ることができますか。電気はどんなに速く流れていくでしょうか。捕まえようと思ったら、すでに行ってしまっているのです。 神様を見ましたか。(「見たことがありません。」)神様に触ってみましたか。(「触ったことがありません。」)存在しているのは知っていますか。(「知っています。」)どのように知っていますか。(「心で知っています。」)心がどのように知っていますか。先ほど話したような作用をしているのです。私たちの良心は最高の善を指向しています。千年万年前の人々や、今の人や、あるいは、千年後の人に関係なく、良心はいつも最高のものを願っています。運動するのです。主体と対象の関係になって、それは運動するのですが、プラスの存在があるため、「私」がマイナスの位置に立って作用をするのです。そこには必ず主体がなければなりません。その主体の名前はどんな名前でもかまいません。神様でもよいし、何でもよいのです。主体と対象なくしては作用は起こりません。良心作用の背後には必ず主体と対象がなければなりません。そうだからこそ、神様がいるという論理が成り立つのです。 神様も一人でいたらよいでしょうか、それとも寂しいでしょうか。(「寂しいです。」) 寂しいのです。そこのおばあさんもそうです。おじいさんも一人でいると寂しいでしょう。(「寂しいです。」) ところで、ソウルで最もにぎやかな所でも、人々は夕方五時になると帰宅し始め、午前一時、二時にもなると静かな都市となります。人々は皆、どこに行ったのでしょうか。家に帰って何をするのでしょうか。愛を求めて帰るのでしょうか、食事を求めて帰るのでしょうか。(「愛を求めて帰ります。」) 主体・対象といえば男性と女性です。一日中、男性と女性の話ばかりするので、「文先生は女性が好きなんだ。だから美人の中の美人を選んで結婚したんだ」、そのような結論を人々が出すのです。お母様は美人ですか。(「美人です。」)皆さんよりも美人ですか。(「はい。」)だから、天宙のお母様なのですね。神様も一人でいると寂しい。文総裁も一人でいると寂しい。お母様も一人でいると寂しい。二人が別れていると寂しい。このようになるのです。 別れていると、会いたいですか、会いたくありませんか。皆さん、会いたくて会いたくて泣いたことがありますか。(「はい。」)お母さんに会いたくて泣き、慕わしい人と会いたくて泣き、そして、女性が男性に会いたくて泣くようになれば、天下が首をたれるというのです。どうしてでしょうか。 この世界の半分は男性です。そして、半分は女性です。泣くので頭を下げるようになります。男性は女性の方を見つめ、女性は男性の方を見つめるのです。これが夫と妻となると、こうやって見つめ合います。手を合掌し、「ありがとうございます」と言いながら、「どうか天地の福をお受けください」と言いながら、私に福をくださいと言わなくとも、福を受けるようになっています。しかし、女性が夫以外の男性、男性が妻以外の女性を見ると「くーっ」と言いながら顔の表情が変わっていきます。さあ、この二つの場合のどちらがよいですか。(「最初の方がよいです。」) 皆そのように生活していますか。自分の夫に会いたくて地を叩き、家の中を引っ繰り返したとしてもかまわないというのです。家をつぶしてしまってもかまいません。妻が帰ってきて「どうしてこんなことしたの」と聞くとき、「あまりにもあなたに会いたくて、会いたくてたまらなくてこうなった。会いたくて、会いたくて、土を掘ったらこうなった。そして、力を入れて壁を押したらこうなった」と言ったときには、もっとよい家が与えられることを知らなければなりません。そして、新しい家を建てて、二人で新しい家に入って生活したらどうでしょう。踊りを踊りながら愛し合うようになるというのです。そうすれば一大傑作夫婦となります。 では、神様も一人でいると、寂しくて、会いたくて泣かれたのでしょうか、泣かれなかったでしょうか。(「泣かれました。」)だから、統一教会の文先生は悪口を言われるのです。おばあさんをはじめとして、女性たちがやってきて、先生の足首をつかんで、このようにさわろうとするからです。 二時間もたつのに、まだ序論にしかならないですね。(笑い)しかし、序論だけ聞いたとしても、普通の教会で四十分間説教を聞くよりも、何倍も多くのことを習ったでしょう。もうこのぐらいでやめて、レクリエーションでもしましょうか。きょう、この喜びの日に、真の父母の日をお祝いし、先生に楽をさせてあげなければならないのに、このようにこき使って、先生がやつれるようにするつもりですか、皆さん。(笑い) 昨日だったか、一昨日だったか、私が健康なので、お母様が「お父様が私より長生きするのは間違いないですね。足腰もしっかりしているし、昼夜なく、それも行ったり来たりしながら八時間も立っていられるのだから。私は一時間ですら、立って話すことはできません。だから、お父様が間違いなく、私よりも長生きすることでしょう」と言ったのです。 父母の日のような行事をすると、私が死ぬほどの苦労をするのです。お母様はこのようにも言いました。「三十分でまとめられる話を、長々と話して、三十分、四十分でまとめて話せる頭を持っていながら、どうしてそんなに長く話をするのですか」と言うのです。「頭の回転が悪かったら仕方がないのですが、短くまとめることができるのに、どうしてそんなに長く話すのですか」と言うのです。女性が好きだからですよね。(笑い・拍手) 愛の対象には自分より高くあってほしいと望む 神様も一人でいると寂しいでしょうか。(「はい。」)間違いないですね。神様は目に見えない原因的存在であり、人間は目に見える結果的存在です。私たち人間の中で、目に見えないものは最も尊いものです。良心も見えず、愛も見えず、生命も見えず、神様も見えません。だからといって、存在しないのでしょうか。存在しないのではありません。存在するのです。存在するのに、なぜ分からないのでしょうか。それは、私と一つになっているからです。 良心は誰でも持っています。神様も持っています。神様は良心の根であり、生命の根であり、血統の根であり、そして、愛の根なのです。一番低い底に神様がおられることを知らずにいるのです。間違いありません。皆さんが神霊に満ちた祈りをすれば、「神様はどこにおられますか」と尋ねると、「やーやーここにいる」と、おなかの中から声が聞こえてきます。そのように神様が話すのです。遠いところにおられるのではありません。 ですから、人間とは実に奇妙なものです。釈迦のような方も解脱の境地に達してみると、天も地もみな「私」の中に、「私」の手の中にあると言ったのです。「天上天下唯我独尊」という言葉は、天上天下において「私」が最も高いところにおり、神様も「私」の中におられるということです。天下万象がすべてそうなっています。そのことは正しい言葉でしょうか、間違っている言葉でしょうか。(「正しい言葉です。」) 人間は神様より高いのですか、低いのですか。私は人間が神様よりも高いと思っています。だから、私は異端だと言われるのです。まずは、神様が最も高く、二番目が私だと言うので異端だと言われ、次に、神様より人間が高いと言うので、また異端だと言われるのです。イエス様より「私」が高い、こうなるのです。お父さんより「私」が高い。このような結論が出るのです。 では、こうした結論をどのように解き明かすつもりですか。愛の対象には、自分より高くあってほしいと望むではないですか。愛の対象、第一の対象は何でしょう。歴史的に残すことのできる対象は、縦的な対象と横的な対象です。縦的な対象は神様であり、横的な対象は息子・娘たちです。また、女性にとって縦的対象は夫であり、横的対象は息子・娘です。 ですから、皆さんがお嫁に行こうとするとき、夫となる人が自分よりさえない夫であることを望みましたか、もっと素晴らしいことを望みましたか。(「素晴らしいことを望みました。」)自分よりもさえない夫を望んだ人は手をあげてみてください。手をあげたものは追放しなければなりません。悪口を言ったとしても、罪ではありません。 東洋人も同じであり、西洋人も同じです。過去の人、現在の人、未来の人も同じなのです。過去、過去、過去というと、おじいさん、おじいさんのおじいさん、最初のおじいさんまでさかのぼって行くのです。最初のおじいさん(祖先)の願いもそうであり、根源である神様に尋ねてもそうなのです。 「人間たちは、自分の愛の相対が、自分より優れていることを願うのですが、神様はどうでしょう」と尋ねると、神様は、「みんな知っていてなぜ聞くのか。おまえが好きなものは、私も好きなんだ」と、こうなるのです。神様も同じです。神様も同じなので、相対をつくるために、百パーセント分の力だけ持っている神様は、自分の愛の相対には、何千パーセント、何万パーセント、無限に投入、永遠に投入したとしても、終わりにしたくないというのです。それが事実であるならば、どんなにかよいでしょう。 あなた方の夫が、自分より千倍、万倍、素晴らしくなったらどうしますか。愛し合うようになると、千倍、万倍、素晴らしいその位置まで共に行くのです。神様も、自らが創造されたその相対が、千倍、万倍、素晴らしくなると、同じ位置まで上がるというのです。そして、無限に高い位置まで行きたくなります。ですから、大宇宙は無限に高く、広いのです。すべて愛の圏内で管理されるためにそうなっているのです。分かりますか。 愛の速度はどれほど速いでしょうか。それに勝るものはありません。億万里をあっという間に行って帰ってきます。愛は最も直短距離を通ります。最も早い直短距離を通って行くのです。それに勝るものはありません。ですから、天が上にあり、地が下にあるとするならば、神様の愛は直短距離を通じるので、垂直に行く愛なのです。 ところで皆さん、「良心は正しい」ということを、なぜ言うのでしょう。人間を万物の霊長というのは、立って歩くからです。正しくまっすぐな神様の愛を、垂直に受けることができるのです。ライオンなどの動物は垂直の愛を受けることができません。なぜなら、永生できないからです。どうして永生できないのでしょう。垂直と通じることができないからです。動物は横的です。 西洋人は動物みたいです。なぜなら、あいさつするときに横的に握手をするでしょう。東洋人は縦的におじぎをします。天地を代身するのです。東洋人は文字を右から書き、また上から下へ書きます。縦的法度に従っています。西洋人は横的になっているので、左から右へと書くのです。正反対です。西洋に行くと、女性でも男性でも、うつぶせになって寝る人が七割以上もいます。しかし、東洋では、うつぶせになって寝る者は障害者として扱うのです。また、東洋では「こっちに来て」という動作をこうやってしますが、西洋ではこのようにします。西洋ではもらいますというのが、東洋ではあげますということですね。全部相対的になっています。 このように見るとき、西洋文明も必要であり、東洋文明も必要となるのです。この必要な両者を、何でもって一つにするのですか。主体・対象関係で天地は調和しているのに、この両者が調和しないときには相衝突する世界として、故障した機械として、破壊状態となります。これは工場であるともいえます。最高の精密機能を持った機械工場です。ぱちっと合うと動きだします。では、ぱちっと合って動きだすための潤滑油として何が必要でしょうか。それが愛なのです。すべてにおいて、潤滑油のような作用をします。壊れてしまいそうな状態のところに愛を注入すると、うまく越えることができ、スムーズに動きだすのです。愛による調和は、神秘的な調和なのです。 代表概念を持ちなさい ですから、神様も、自分の相対に、百パーセントの自分と同じだけの相対であってほしいと思っていません。神様も、神様よりもっと高い相対を求めているというのは真理です。では、「私」はどのような位置に上がらなければならないのでしょうか。全体を代表しなければなりません。代表概念です。代表観念、代表愛、代表思考、すべて通じるのです。そのような代表的な概念を持たなければなりません。 皆さんは韓国の人ですか、日本の人ですか。「私は韓国人を代表した」というのと、「韓国人と日本人を代表した」というのではどちらがよいですか。二つの国の人々を代表したほうがよいですか、一つの国の人々を代表したほうがよいですか。(「二つの国を代表するほうがよいです。」) それでは、二つの国の人々が兄弟姉妹の関係を結ぶのがよいのでしょうか、三つ、四つの国の人々が兄弟姉妹関係を結ぶのがよいのでしょうか。または、百六十か国の人々が兄弟姉妹の関係を結ぶのがよいのでしょうか。(「百六十か国の人々です。」)では、過去と現在、そして未来のすべての女性たちと姉妹結縁を結ぶ代表的な立場がよいのでしょうか、百六十か国の女性だけを代表した立場がよいのでしょうか。(「過去、現在、未来すべてです。」)よく分かっていますね。 欲心はすべて成就することができます。人間の欲心は成就されないというのが、歴史的にすべての人が評価した結論ですが、文総裁は、人間の欲心は、誰でもすべて成就することができるという結論を下しているのです。どうしてそうなのでしょうか。代表者だからです。代表者の概念を持ったからなのです。皆さんは統一教会を信じています。統一教会では個性真理体を主張しています。なぜ個性真理体を主張するのでしょうか。代表概念が最上の概念だということを打ち立てるために主張するのです。 私は世界中を回ってみましたが、同じ顔の人は一人もいませんでした。馬は成長すると、八十パーセント、九十パーセントは同じようなのに、人間だけは同じ顔の人が一人もいないのです。「私」が一番なのです。人類を代表した、歴史的人類を代表した「私」なのです。生命力というのは、脳が大切なのですが、脳にだけ生命力が宿っているのでしょうか。指先にはないですか、ありますか。(「あります。」)高い低いはありません。常に「私」が一番なのです。そのように考えなければなりません。 それで、「私」が歩いて行くとき、天と地が皆、あとについてきて、また神様も間違いなく、「私」のあとについて来なければならないのです。「私」は五十億人類の中の一分子として、あとについて回る細胞のごとくあることを願うのですか。それとも、それらの細胞を引っ張っていくのがよいですか。どんな考えを持たなければなりませんか。大きなことを考えなければなりませんか、小さなことを考えなければなりませんか。大きなものは、小さなものを吸収しなければならないという、新しい論理を打ち立てたのです。 そのような代表概念、一番という代表概念を持ちなさいというのです。チャンピオンは一人しかいません。チャンピオンが二人いるということはあり得ません。「私」は一人しかいないのですから、宇宙のチャンピオンです。そうした考えを持ちなさいというのです。自覚の中でも、恐ろしいほどの自覚を持ちなさいというのです。 オリンピックの金メダルを、一億円くれるからといって売ってしまいますか。後孫たちの前に、何万代、何億代の一族を代表し、光り輝くチャンピオンとなるのと同じです。代表、チャンピオンの中で主流となるのです。皆さんの家庭において、お父さんであるならばお父さんが、全体の家族を代表しているという概念がないため問題なのです。酒を飲んで帰ってきて、妻を殴ったり、子供を足で蹴ったり、代表者がそうであれば問題です。代表者は責任を負わなければならず、保護しなければなりません。育成しなければなりません。中心者と代表者は同じです。中心者は責任を負わなければなりません。中心者は全体を保護しなければなりません。また、全体を発展させなければなりません。そうではありませんか。そうした代表概念が必要なのです。 代表者は保護し育成し責任を負わなければならない 世の中に困ったことがあれば、「私のやるべき仕事だ」という考えを持ち、「私がやらなければならなかったのに、手をつけることができなくてこうなってしまった」と述懐する、そのような人に対して、世の中が神様のごとく思う、そういう人が代表者です。分かりますか。 神様と同じように為に生きようとしなければなりません。神様が彼らのために存在しているように、為に生き、なお為に生きようとする人が中心存在となります。神様が人類を救おうとされたように、神様の代わりに人類を救うために、昼夜なく精誠を尽くすのです。他の人々は食事をし、休み、遊び、寝ますが、人類を救おうとする者にとっては、遊んだり寝ることが問題ではありません。一切がそうした思いを持ち、他の人々が流さない血と汗を流しながら祈祷するのです。このようになれば、間違いなく神様の代表者であると同時に中心者となるのです。 統一教会の代表者であると同時に、中心存在である文総裁は、全体に責任を負わなければなりません。また保護しなければならず、育成しなければなりません。中心の立場にある中心存在も全く同じです。中心存在は、全体に責任を負わなければならず、全体を保護しなければならず、全体を育てなければなりません。ですから、代表的な位置、中心の位置に立って行かなければならないのです。それゆえに、統一教会に困難な問題があったならば、自らが先頭に立たなければなりません。代表の立場、中心の立場に立ちなさいというのです。 皆さんの良心は宇宙の中心に立とうとしています。皆さんはすべて、代表の位置を願っているのです。それが人間の欲望です。ゆえに、代表の立場と中心の立場に立って、人生を神様の為に生きたのと同じように、為に生きた人は神様の友となることができるのです。 神様から始まったものが、回って行って、神様に戻り、ぴったり合うのです。「私は始めであり、終わりである」このようになります。始めと終わりがしっくり合うのです。そして再出発するようになると、もっと大きくなって、もっと大きくぴったり合うようになるのです。 一点を中心として、「私」を中心として個人がぴったり合い、「私」を中心として家庭がぴったり合い、「私」を中心として国家がぴったり合い、「私」を中心として世界がぴったり合い、私を中心として天宙がぴったり合うのです。したがって、私は神様の代表者となります。これをきちんと成し遂げると、神様と個人的な友となることができ、神様と家庭的な友となることができ、神様と国家的、世界的、天宙的な友となり、天宙と神様と対等な立場に立つようになるのです。 例えば、日本人が結婚する時、日本人の六千万分の一の男性、日本人の六千万分の一の女性ではありません。本然の世界の人であるならば、私は六千万を代表する男女です。その二人しかいないのです。その男女がチャンピオンです。その愛のチャンピオン同士の結婚が私の結婚です。 どうしてそうなるのでしょうか。人間がその立場に登って立つことにより、その上には何もありませんが、神様はいるのです。神様がこのようにおられるから、天地のすべてのものは、中心の立場を中心として存在するようになっているのです。「私が最高だ」となります。「私」から、この中心の一番上から、座標軸が一番下まで、ずーっと延びているので、この代表者の位置を中心として存在している全体は、「万歳、万歳」と歓迎するのです。 二十五億男性が一番底で、「あいつ一番上に上がって、あの欲望の塊のようなやつ」とは言わないというのです。すなわち、一人の代表する人が天に侍り、えいっと努力をし、一番上から一番下まで統一するので、一番底から「万歳、万歳、万歳」と言い、アダム・エバも「万歳」、神様も「万歳」と言うようになります。それで終わりです。そして、その次に、二人が結婚するのです。未婚の女性と男性が一緒になって、神様と初愛の関係を結ぶならば、天地完成がなされます。なぜかというと、神様も愛を求めて来るからです。愛の世界を求めて行くとき、愛の相対は人間であるというのです。 アダム家庭は上下完成、左右完成の標本 きょうは真の父母の日ですが、真の父母の日とはどんな日ですか。今まで話してきた、こうしたすべての代表者である男性と女性が、愛を中心として一つになるならば、全体代表者となるのです。ここにおいて、神様を中心として愛の関係を結び、統一されます。天上統一、地上統一、右弦統一、左弦統一、前弦統一、後弦統一、完全に球形世界を統一するのです。そして、その後は中心の位置へ進んでいきます。これが先ほど話した代表者と中心愛です。一番上に上がって一つとなって、ぐるっと回すならば中心となるのです。分かりますか。 中心軸を通って降りてきたものが、こうして横的に立たなければなりません。すなわち、個人、家庭、氏族、民族、国家の代表者の立場に立たなければならないのです。そうなると神様と私が一つになり、神様の愛の一体圏をなすことができるので、すべて終わりです。無限の世界として無限に発展するのです。こうして一番上まで行くと、このようにそれ自体が回るので、これが次々に連結していくと、循環的軌道を通じて横的縦的価値圏を形成します。家庭、氏族、民族、国家、世界、それが私の家庭であり、私の国なのです。 主体と対象が愛を中心として結ばれているのです。愛によってこのように見るとき、人間の愛が最も中心となって、その次に動物の愛がここに連結されます。それから、それより小さい細胞まで連結され、このように上下になっています。動物も、見えませんが良心を持っているのです。 右側は全部男性が代表し、目に見えない良心と体を持っており、女性も良心と体を全部持っているので、右弦、左弦、上弦、下弦が一つになるのです。これは兄弟圏を意味しています。これに東西南北を合わせると十二面となりますが、上弦のものを下弦に、下弦のものを右弦へ、この十二面を中心として前弦のものを上弦に持ってきて合わせるとばちっと合うのです。このようになると、見えるもの、見えないものが全部一つになってしまうのです。 何で統一されるのでしょうか。愛で統一されるのです。頭翼思想でもって左右が統一される論理を打ち立てるのが、愛を中心とした神主義です。この神主義だけが真の父母を完成することができるのです。 代表的な愛をつなぎ、中心的な愛に変化させるのです。神様の喜びは、垂直を通り、人間のすべてが理想的な中心となり、軸をつくって千年万年と回って行くことにあるのです。これは人間において一つの軸、個人の方向、家庭の方向、氏族の方向、民族の方向など、方向の軸は一つしかありません。こうして個人の家庭から、世界の平和の家庭を代表する頂上になります。そうであるがゆえに、アダム家庭は上下完成、左右完成の標本だというのです。 アダム・エバが堕落しなかったら、その標本が、そのまま横的に、家庭、氏族、民族、世界へと広がっていくのです。そしてアダム・エバの統一された愛を中心として、自分よりも素晴らしくなることを願う、より為に生きる愛を中心として、授け、受けするようになるときには、天地がどんなに大きくとも、調和の世界として一つの体のようになるのです。 一人の男性と一人の女性が愛でもって一つになるとき、二人くっついてくるくる回るならば、宇宙を旅行することになります。皆さんも愛を中心として夫婦が結婚し、子供を生み、しっかり生活し、子供を結婚させたならば、夫婦で世界一周しながら暮らしたいでしょう。 愛を所有すれば対等になる こうして神人愛の完成の日となるのです。真の父母の日はそのような日です。こうした日ができたらどんなによいでしょう。この宇宙は私たちのために創造されたのですが、この宇宙はどれほど広いことでしょう。皆さん、太陽系がどれほど大きいですか。この太陽系の一千億倍も大きいのが宇宙です。一千億倍、実際はそれ以上に大きいのです。この数字は、人間が計算することのできる限界から導き出した数字です。実際はそれ以上に大きいのです。 とにかく膨大な宇宙です。この宇宙を、私たちはあっという間に行ったり来たりできるというのです。では、この大宇宙の中に、ダイヤモンドの星のようなものが一つだけあるでしょうか、数万個あるでしょうか。ダイヤモンドが欲しい人は手を挙げてください。私があげましょう。夫婦ですべきことをすべてして、愛し合うならば、飛んで行きたくなるのです。それが霊界に行くための準備となります。皆飛んで行きたくなるような思いを持ったことがあるでしょう。こうした思いを味わったことのない人は犬や豚と同じようなものです。 人間というのは、年を取っても、夫婦で世界を飛び回って、下がったり上がったりしながら、生きてみたいものです。そして、無限の世界に行くことのできる訓練、準備をしなければなりません。したがって、年を取ると、旅行しながら夫婦で一緒に死にたいと思うのが、この地上に生きている人間の最大の願いだというのです。このことは合っていますか、間違っていますか。(「合っています。」) 「私は違います」という人がいたら、「私はそうです」という人が目をかっと開け、「私はそうです」と力強く答えて初めてお互い和合するのです。和合することを知らなければなりません。先生が一人で声を張り上げたらおもしろいですか。和合が必要なのです。「私は死にます」と言えば、皆さんは「私は生きます」、そのように調和されなければなりません。皆さんが死んでこそ、先生は生きるのです。 そうであるがゆえに、高い、低いということはないというのです。神様も愛を探し求めるためには、私たちにくっついて求めなければなりません。一人で生きてきた文総裁も、しかたなく女性の後に張り付いて生きなければならないのです。 このくらいなせば、世の中は私のことを「出世した人」と見ています。世界的に私が築いてきたこの基盤は、歴史上の数多くの人たちが、何代にもわたって築くような基盤なのです。そのような意味で一番だと見ています。また、私のことを平和の門を開けた代表者であると見ているのです。今は、名高く有名になりました。最も高い頂上に登り詰めたのです。その次には中央に行くのです。代表者の名前を持った後で、次に何かにならなければなりません。中央に行って、また基盤を残せば、世界は私のもとにくるのです。 皆さん、やくざな男たちが恐ろしいですか。ひとこと言い返すようならば、首を切られてしまうのです。しかし、そんな男たちの家で、最も恐ろしい人が誰かというと女性たちです。やくざの家に住んでいる女性たちを見てみると、その恐ろしい体の大きながっしりとした男たちが、体の大きな女性を連れてきて生活をしているのではありません。体の小さな女性と生活しているのです。昔、私はやくざの巣にも全部行ったことがあります。全部反対なのです。顔が大きく、体の大きい男性は、顔が小さく細い女性と生活しています。その女性が瞬きしながら、「それはだめです」と言うと、「では、それはだめだ」と男性が言うのです。「よいです」と女性が言えば、男性は何でもするのです。 ですから、女性たちは世界を支配する男性たちを料理するのです。ゆえに、女性たちは体が大きくなければならない、ということはありません。男性たちはお尻に肉がないので、三時間座っていてもお尻が痛くなるのですが、女性たちは三十日間座っていても痛くないのです。女性の骨は細く、男性は全部骨というくらい太いのです。女性たちはこの肉と骨、クッションがどれほどよいでしょう。このクッションがあるので、骨に与える影響が弱いというのです。ですから、お尻を大切にしなければなりません。みだりに誰かに与えたりしてはいけないのです。分かりましたか。(「はい。」) この愛の理想は最高を願うのです。皆さんは全部最高を願っています。ではどのようにして、その願いを満たすことができるのでしょうか。それは、代表の概念を持って満たすことができます。結婚する時には、二十五億人類を代表した男性が結婚するのであり、二十五億人類を代表した女性が嫁に行くのです。結婚というものは、絶対に一度しかないものです。そして、頂上に登るのです。では神様も、二十五億人類を代表した男性と女性が結婚式を挙げるというとき、参加してみたくないですか。(「してみたいです。」) 私の口からではなく、皆さんの口から答が出たので、どんなにか気分がよいでしょう。神様は創造されるとき、神様が九十七パーセントの責任を負い、人間が三パーセントの責任を負い、共同創造主の立場に立てたというのです。だからこそ相対となるのです。そうでなければ相対となれません。付属品となるのです。分かりますか。付属品です。 ゆえに、女性は男性の付属品ではありません。たとえ、背も低く、見栄えが悪かったとしても、愛を中心とすれば、神様の前に相対として現れることのできる資格を持っているかのごとく、堂々と現れることができるのです。女性の皆さん、気分がよいでしょう。愛を所有すると対等になるのです。愛さえ持っていれば、どこへ行っても登って行くことができます。神様に乗って上がって行くことのできるものが愛なのです。愛する妻を背負って歩いたからといって、誰が何か言いますか。ところで皆さん、妻を背負ったことがありますか。 神様の愛を完成させる主体は人間 では、この真の父母の日が、地球上においてなぜ必要なのでしょうか。堕落のゆえにです。こうした思想的構造において、必然的結果に到達できないのは、堕落のゆえです。その必然的結果を再び成就するため、こうした論理的条件を経て到達できるよう、完結するための軌道に従い、人間世界を代表した過去、現在、未来の歴史を代表して、ようやく神様が願われた最大の一日を設定したのが真の父母の日でありました。 きょうは何の日ですか。(「真の父母の日です。」)今までは父母の日と呼んできましたが、今、私が峠をすべて越えて来ました。統一教会には今や迫害はありません。迫害する人がいるならば消えてしまうのです。私は言論機関をつくりました。アメリカの千七百に及ぶ言論機関は、私を最も恐れています。今まで、私を亡きものにしようと悪巧みを図り、弾圧してきた全世界の言論界の人々を一掃しなければなりません。 世界に基盤は皆築いたのです。アフリカに行って、王として扱われるのがよいですか、ここで僕として扱われるのがよいですか。真の父母の日は一度しかない日です。この一日より、必然的に新しい世界が始まります。そうなっていないので問題なのです。この一日の上に積まれていくのです。 地上天国、このためには四大心情圏、三大王権という言葉を聞いたでしょう。すべて神様の目に見えない実際の姿なのです。子女、兄弟、夫婦、父母は見たことがあるでしょう。この四つが重要なのです。赤ちゃんの段階で分かれます。しかし、分かれると言っても、ただ何となく分かれるのではありません。一つから分かれて、そしてまた合わさっていかなければなりません。合わさって、どこに行くのかというと、ここから、中央に上がって、それから無形の神様は、ここから降りていくのです。そして、水平移動をして真ん中で一つとなります。神様と人間が一つになるのです。ゆえに人間と神様は天地愛なのです。天と、地の人の愛が一つになるならば、すべてが完成します。 真の父母の日はすべてを完成させ、神様の愛を完成させたということです。人間がいなければ、神様の愛を完成させることはできません。それを今まで誰も分かりませんでした。人間という存在が、このように価値があり、貴重なものであることを知らなかったし、愛を中心として、神様までも完成させなければならない責任と使命のある立場であるということを知らなかったのです。その使命を果たそうと、皆さんの良心は神様を占領し、神様を思い通りにしようとするのです。神様を占領し、神様の愛の頂上まで、神様の愛の軌道に乗り、永遠に存続していきたいのが、人間の欲心だというのです。 誰を完成させるのですか。神様の愛、神様の創造理想を完成させるのです。神様も愛のために人間をつくりました。神様の愛のゆえに創造されたその対象が、神様よりも素晴らしくなることを願う、このような欲望を持っているために、その人によって愛を完成することができるのです。 神様を完成させる主体は神様ではありません。人間であるというのです。どうしてでしょうか。愛の対象が、自分よりもずっと高く高くなることを望んでおられる方であるがゆえに、神様の愛の目的を完成させることのできる対象なのです。その対象を通して、より高い存在にぴったりくっついてこそ、神様も大きな喜びを感じることができます。 神様の愛を完成し、大きな喜びを感じさせてくれるのは、神様自身ではありません。やはり人間だというのです。人間を通して神様は、ハッハッハッと笑うようになっています。神様自体としては笑う道はありません。それで皆さんも、一つになると感じることができないのです。 一体となると感じなくなる 神様は愛を持っています。神様は生命の根本です。神様は血統の根本です。神様は良心を持っています。しかしながら、持ってはいるものの、感じることはできないのです。文総裁もそうです。私も生命・愛・血統・良心を持っていますが、私が愛だ、生命の基本が私だ、歴史は私のものだとしても、感じることはできません。どうして感じることができないようになっているのでしょうか。感じることがいけないのでしょうか。 もし私が、生命があるということを五十パーセント感じたならば、相対が百パーセントの存在として現れたとしても、五十パーセントは感じることができず、五十パーセントしか感じることができないというのです。何の話か分かりますか。これは大事な話です。今までこの世界にもなく、哲学にもない話です。この話は文総裁から始まった話なのです。天地の秘密の中の秘密です。 一つになると、分からなくなるのです。徐々に近くなると見えてきますか、見えなくなりますか。見えなくなるので、分からなくなります。ストップするのです。零は出発です。「私」からです。愛も「私」から、生命も「私」から、血統も「私」から、地上天国も「私」から、天上天国のスタートラインも「私」からです。それが零点です。 皆さん、胸のここに手を当ててみなさい。左の胸の鼓動を感じますか、感じませんか。聴診器で聞いてみると、爆弾が爆発するように、ドカンドカンドカンと戦場のようです。それをどうして感じないのでしょうか。一日に何回か胸の鼓動の音を聞きますか。忙しくなると、一年十二か月間聞かないこともあるでしょう。私は知らずに寝ていますが、心臓は休んで眠りますか、働いていますか。(「働いています。」)休むことはありません。 ところで、どうして分からないのでしょうか。零点照準です。生命も零点照準です。良心も零点照準、地上天国も喜びも零点照準です。悲しければマイナスです。それでぐるっと回っていくのです。回っていきながら、ここでぴったり合うようになっています。このようになると発展するのです。上がっていくのです。停止、すなわち動かず一点で回るならば、死と通じます。 皆さんが毎日成長していかなければ、もうすでに滅亡と地獄に通じているのです。何か一つでも成長しているならば、生存、繁殖と天国に通じます。そうした原則から、個人を中心として見るならば、一番最初に個人がこのようになり、大きくなっていくのです。上がっていきながら、それを見るとこのようになります。個人一つ、家庭一つ、民族一つ、このように大きくなっていくのです。 ですから、これを中心として回っていくならば、徐々に高く上がって行きます。大きくなっていくのです。宇宙はこのように発展するのです。そうした立場において、皆さんは宇宙の中心にならなければなりません。まず初めに、この中心に合わせなければなりません。大韓民国のサッカー代表選手が、その次にはサッカー界の中心存在となるのです。オリンピック大会のマラソン選手は、マラソンのコーチの中心となります。代表の立場で中心の位置に立っていくのです。公式がそうなのです。 「私」という女性は、二十五億人類を代表した女性だという自覚を持ってこなかったのです。今までそのように考えてきた女性がいますか。皆さんのお母さんもそうでしょう。代表の母の立場で、代表の息子・娘を育ててこなかったことが問題なのです。神様の王子・王女として育ててあげる必要があります。その代表が誰かというと、アダム・エバと全く同じ立場なのです。アダム・エバがこの人類の代表です。神様のアダム・エバです。天の国の天上天下を治める大王の王子・王女なのです。 また、皆さんの家庭の父母、祖父母も、皆さんが王子・王女となるのを願っているでしょう。その位置です。代表の位置です。そこで愛と一つになっているならば、神様と一つになっていくようになれば、代表であるので中央、女性代表、男性代表であるので主人となります。そして、皆が好むというのです。「わあ、わあ、万歳」と言って、全国民が四千万であれば四千万、一億であれば一億が万歳と言うのです。 一昨年のオリンピックで、マラソンで日本選手と韓国の選手が最後まで競い合ったとき、日本国民は日本選手が金メダルを取ると確信を持っていたのですが、負けました。そのとき、日本人は「ふー」と言い、韓国人は「万歳、万歳」と言いました。この二人が両国を代表していなかったのでそうなりました。全体を代表していたら、その全体が万歳と言ったのです。 愛の本宮、生命の本宮、血統の本宮 男女が一つとなり、心と体と、愛と生命と良心と、すべてが一つとなり、頂上の代表存在となれば、全体の代表となるのです。全体が喜ぶのです。ですから、結論は右弦の男性と左弦の女性です。これを東西南北に例えると、男性は東で女性は西です。太陽は東側から昇り、西に向かって行くのです。全部、東から力を受け、西に回って行きます。ですから、女性は男性に対して相対的な立場に立って、男性が上がれば女性も自動的に上がるのです。 だから、女性は善悪の実なのです。善の実を結ぶこともでき、悪の実を結ぶこともできるのが女性だというのです。善悪の実というのは、女性の生殖器を指します。天の国の王と関係を結べば、王子・王女を生むし、やくざと関係を結べば地獄の王子・王女を生むのです。善なる相対と一つになると頂上に上がり、悪なる相対と一つになると一番底に落ちて行きます。そのような自覚を持たなければなりません。 悪い話を聞くのは皆嫌いです。しかし、よいことばかり言ってよくなるという話がどこにありますか。よいことも言い、悪い話もして、両方話すことでよい人にもなり得るのです。よい話を標本として、警告するために悪い話をするのは、よい話をすることよりも価値があります。今話したことがどんな意味か分かりませんか。分からないならいいです。よいことばかりであったら、大変なことになるのです。 人間にとって最も貴重な場所はどこですか。男性にとって、女性にとって一番大切なものは何ですか。女性はある一つの部分ゆえに女性となったのです。その一つの部分とは何ですか。(「愛の器官です。」)愛の器官、生殖器です。それは何かというと、生命を植える機械だというのです。その名称はどんなにか素晴らしいことでしょう。生命を植える道具、それが生殖器です。それは小学校の子供も知っています。愛の器官と言ったら、小学校の子供たちが分かりますか。分からないのです。ですから生殖器と呼ぶのです。恥ずかしく思わないでください。 生殖器をハングルで何と言いますか。(笑い)恥ずかしいのでしたら、恥ずかしさを持って生活しているということではないですか。誇りに思わないと、その言葉が解放されません。恥ずかしく思うこと自体がおかしいのです。恥ずかしく感じるようになってしまったので、恥ずかしいのです。 恥ずかしいことはありません。最も貴重なものです。結婚して初夜の晩に夫婦がそれを合わせるときに、愛が連結されます。愛がそこから始まるのです。一人ではできません。一人では愛は出てきません。これが愛の根源です。愛の最初の出発です。人生路程における愛の根本的、起源的基準であるので、その根本を王宮と言うのです。そうした王宮の中の本宮です。愛の本宮です。シャキッとしなさい。 アダム・エバもそこから出発しました。氏族の祖先となる皆さんは、愛の王宮です。それを見いだせなければすべてが破綻です。このことを知らなかったのです。それが人生の愛の始まりです。その過程を経ずしては愛は出てきません。生命の出発地、生命の本宮なのです。それが分からなかったのです。ここでもって、男女の二人の生命が連結されます。この場所で、愛の炎でもって、ポッポッと熱くなり、パンと弾けるのです。パンパンと弾ける渦巻の中で、赤ちゃんの種が生じてくるのです。役事が起きるのです。 愛と生命と血統は三位一体です。離すことはできません。ですから、愛する人は皆、生命力の復活を運んで来るのです。愛する相対を思うと、火がつくでしょう。愛する夫を思うと火がつくのですか、つかないのですか。火がつかないようだったら、間違った生き方です。火がつかない時は、また嫁に行かなければなりません。これは笑うような話ではありません。天地の大道を説き明かしています。歴史は千年万年変わっても、これは変わってはいけません。 愛の本宮であり、生命の本宮です。そして、その次は何でしょう。血統の本宮です。ここから喜々楽々、すべての幸福が始まります。幸福の本宮です。理想の本宮です。平和の本宮です。希望の本宮です。ここが脱線してしまったがゆえに、すべてが壊れてしまったのです。そしてその場所が、天上地上天国の出発点です。スタートラインです。 愛し合うその場所から、地上の天国が出発するのです。天国に行くことのできる息子・娘を生み、天国家庭が生まれてくるのです。地上天国の出発がここから、すべての理想もここから、天国へ行って飾ることのできるすべての内容が、ここから出発するのであり、ここを離れては天上世界を満たすものは何もありません。堕落したために、天上世界は空いているのです。 体は悪魔の基地 こうしたことを知ったために、文総裁は一生涯、苦労してきたのです。滅びの道を行き、地獄に行く者たちをどのようにして防ぎ、どのようにして神様の懐に向かわせるのでしょうか。死亡の父母から生まれたがゆえに、悪魔の手にかかって死んで行くのを防がなければなりません。 真の生命の根源的な財宝の中の財宝、このすべての人間理想の要素を破綻させる悪魔と共に偽りの愛を私の手につかみ、サタンが最も好む破壊的生活環境圏を、神様が最も好む生活圏に変えようとしてきたところ、神様とサタンは百八十度の怨讐であるため、神様が愛する文総裁をサタンが殺そうとしてきたのです。個人的に亡き者にしようとしてきたし、家庭的、氏族的、民族的、国家的にも亡き者にしようとしてきたのです。しかし今では、こうしたすべての障害を越えて、世界の中の誰一人として、私に指一本触れることができなくなり、私を仰ぎ見るようになり、世の中が逆に巻き込まれてしまいました。 理想世界が定着し、出発するためには、男女のその部分に帰っていかなければならず、その部分を再生していかなければなりません。サタンはフリーセックスです。理想的な生殖器がどこにありますか。破壊的です。滅亡的です。破壊的なものになってしまったのです。その部分は天国の軌道を敷くことができたにもかかわらず、破壊されてしまいました。そして、この破壊された部分を皆、文総裁が正そうとするのですから、悪魔が一番憎く思ったのです。文総裁死ねと、五十億人類が皆発砲し始めました。 統一教会の文総裁に反対しない者がいなかったのです。数多くの教団、宗教、キリスト教に始まり、仏教、イスラム教まですべてです。しかし私は、皆生かそうとしました。アメリカから、ソ連から、中国から、日本から韓国まで、大韓民国の国民までも皆、私を殺そうとしてきました。それは間違っていたことですか。(「はい、間違っていました。」)では、その者たちが滅びるでしょうか。それとも、殺せと言ったその対象である文総裁が滅びるでしょうか。(「彼らが滅びます。」) 天倫を中心として、より為に生きる愛を持って、愛の対象を探し求めて行く者は、神様の代身存在となります。その者に天運がついて回るのです。天運は主体・対象に働きます。神様が主体であれば、私が対象です。打ってみなさい。打つ者は皆、引っかってしまいます。ですから、迫害は悪いとばかりは言えません。 皆さん、心と体が闘っていますね。それは堕落の贈り物です。世の中はどうして悪なる世界なのでしょうか。闘うがゆえです。人類歴史は、戦争史としてつづられてきました。サタンはどうして闘うのでしょう。私たちの体は悪魔の基地となっています。偽りの愛が根付いたのが、この体なのです。それに対して、良心は全部、神様の愛に錨を下ろしています。とことん神様の愛です。 良心は体とは反対に行こうとします。良心は本来プラスであり、そこに偽りの愛がプラスとなり、相反するのです。ここで問題は何かというと、体を打ってでも従わせなければならないということです。「天地を強奪したこの悪魔の輩め。その基地が私の中にあるんだ。国や家庭にあるのではない。世の中が悪いのではない。相対が悪いのではない。私が悪いんだ」。このことを自覚しなければなりません。統一教会が他と違うのは、このことを知っていることです。 体は悪魔の基地となり、分岐点となりました。その一つは死亡の道であり、地獄まで拡大するのです。悪なる個人、悪なる家庭、氏族、民族、国家、世界を通じながら、地獄に直行するのです。もう一つは、善なる個人から、善なる家庭、氏族、民族、国家、世界を通じて天国に行くのです。 分岐点、三十八度線を中心として、南北に分裂しています。また右翼、左翼です。これを統一しなければなりません。これを統一するために、心の世界の宗教圏統一のために、世界平和宗教連合をつくりました。体の世界は政治圏です。政治が良心をいつも打ってきたのです。ですから、この政治圏を一つとするために、世界平和連合をつくりました。心と体を一つにしなければなりません。 人類の祖先であるアダム・エバを中心として、カイン・アベルに分かれました。カイン・アベルは左右と同じようなものです。この分かれたものを、イエス様の時代には、家庭で失敗し、統一できませんでした。イエス様の時代に国家的な成功をなし、メシヤ宣言をしなければならなかったのですが、イエス様が亡くなることにより、右の強盗、左の強盗に分かれ、左翼思想がここから始まったのです。この二つが分かれて世界的戦場となりました。 来たるべき主は、この世界に来られて、闘っている二つの世界を一つにしなければなりません。右翼と左翼を一つにしなければなりません。共産主義と闘わざるを得ず、また民主主義を一つにまとめる作業を今までなしてきました。以上のような観点から見るとき、第一代先祖、第二代国家的代表として来た祖先の失敗を、第三代先祖は世界的先祖となるわけですが、これらを収拾しなければなりません。そのため平準化運動をしてきたのが文総裁なのです。 左翼、右翼はだめなので、頭翼思想、人間のつくり出した思想ではなく、神様の愛の主義でもってなすのです。神様の愛の主義は、神様だけではなく、人間までも包括するので、そこから統一的理想世界が出発するというのは理論的結論です。ゆえにこの思想は、世界を統一できる思想だというのです。その時が目前に来ました。 こうした思想を中心として、第二の責任者たちを早く育てて、世界に輩出するために行っているのが先生の教育です。韓国のこの者たちは信じることができないので、日本人を連れて来て教育しているのです。日本人がだめなときは、もっとサタン側の悪の輩であったドイツ人を連れて来て教育するつもりです。ドイツもだめなときは、また再びイギリスに回って行くのです。そのような過程にいることを知らなければなりません。今、座っているこの場がどれほど貴重なものか分かりましたか。(「はい。」) この世を審判する前に内部を審判 男性が生まれてきたのは女性のためです。右というのは左という条件が存在してこそ右であり、そのように認定するのです。左がないのに、右を主張するのは狂っています。後ろがあって前が決定されるのです。女性のゆえに男性が決定されるのであって、凹があるから凸が必要なのではないですか。女性というものは男性を前提条件としています。そのため、男性は女性のために生まれてきたという論理を否定することはできません。 男性たちが、男性のために生まれたというのは間違った考えです。女性たちは、女性のために生まれたと考えると滅んでしまいます。自分のものではありません。フリーセックスが何なのか。ホモセクシャルが何なのか。また、レズビアンが何なのか。動物世界にも、昆虫の世界にもありません。徹底してすべてを摘み取らなくてはなりません。 この世で浮気をし、他人に大騒ぎさせ、大学界を荒らし、すべての青少年を荒らし、それでも満足できなくて麻薬に荒らされていく、この砂漠化の波動をくい止めなければならない責任が、統一教会にはあるのです。分かりましたか。(「はい。」)分かった人は手を挙げてみなさい。 食べて遊んで休めば、この世界は滅びてしまいます。休んでいる暇がありません。人には悪口が必要です。苦言を吐く人、おじいさんが必要です。私は、トップの人を連れて来ておいて苦言を吐く人です。教授たちに対しても、「年寄りたち、何をしたのか」と、このように言います。ノーベル賞をもらったずば抜けた人々を前にして追い込むのです。「十年前に会った人、十年の間何をしたのか。それをかじり、しゃぶり、削り取る、皆寄生虫じゃないか」と追い込むのです。恐ろしいのです。 真の父母の価値がどれほど大きいかといえば、皆さんが千年の功績を立てても、真の父母に会うことはできません。これは一度しかないことです。過去にもなかったし、未来にもありません。一度しかないのです。先生が流した一滴の汗が、紙や服についたら、千年万年、自分の家庭に伝授して自慢することのできる価値があるのです。 先生は寝ることもできなく、血の汗を流させておいて、体面をつくろうこともできないこの者たち! 恥ずかしいことも分からず、横になって寝るのですか。聖日の朝、その家は罰が当たります。祖先たちが「おまえたち! 寝てるとは何ごとだ! この世が滅びるというのに寝ていられるのか」と、こうなるのです。 「父母様」と、言葉だけはうまいものですね。父母様に侍ったことがありますか。私が夜を徹すれば、もっと夜を徹したとき、侍ったことになるのです。私が苦労すれば、もっと苦労したとき、侍ったことになるのです。従っていきながらも、皆さんが全部寄生虫となってしまいました。寄生虫は寄生する虫だということです。まさしく寄生虫という名にぴったりです。 偽物を好む者たち! 統一教会の者たちは、そんなものを好んでいます。もう粛正しなければいけません。統一教会の、ただ遊び、食べて、すべて教会を食いちぎる、このような者たちを許せない思いが込み上げてきます。この世を審判する前に、このような者たちから審判しなければなりません。私が教えてあげた道理に一致しなければ、きれいに整理しなければならないのです。 福を受けようとすれば、為に生きなさい きょう第三十四回を越えて行く時です。今までは父母の日、子女の日、万物の日、神の日を過ごしてきましたが、今からは、「真の」という字をつけなさいということです。真の時代がやって来たのです。そうなると、自分のために生きる人はすべて消えてしまいます。自分のために存在し始めると、なくなるのです。 神様自身も、人間のため、自分よりも千倍も万倍もよくなることを願い、そのために今も投入を継続しているのです。今まで数千万年経てこられましたが、いまだに神様は投入しては忘れているのです。それゆえ、許すことができるのであって、そうでなければ許すことはできません。 先生の話を聞きませんか、聞きますか。(「聞きます。」)耳は宝です。最近は、なぜ悪口がこんなに頻繁に出てくるのか分かりません。それは、私の心ではありません。私はそんな人ではありません。かわいそうで難しい人がいれば、私の服を脱いであげて、私の食事をあげて、尽くしてあげる、そんな人がなぜこのようになったのか分かりません。 時が来たのです。私の棒に誰が一番打たれ、死にそうになるかということです。私がこのことを断行することができずして、この世を整理することはできません。私はたくさん打たれました。ありとあらゆることをされました。それを清算する道を行かなければならなりません。私の代わりにできる責任者がいないときは、私がそのことをしてでも、正しくしなければなりません。皆さんの息子・娘が犠牲になるとしても、このことをしなければならないのです。私は正直に話しているのです。 さあ、きょうは真の父母の日を中心として、その方と一緒に、天上天下のどんな群れよりも、ここに代表的な群れとして集まったので、真の父母の日に恥ずかしくない、真の息子・娘になると決心する人は、両手を挙げて誓いましょう。(「アーメン。」)誓いは上手です。(笑い)誓ったとおりに、誓った内容を実践するのです。先ほども言ったように、私は約束したように、私はすべて成し遂げてきました。すべて成し遂げてから教えてあげたのです。すべて成し遂げておいたことを蹂躙する者は許すことができません。 人間にとって最も貴いところがどこでした。生殖器です。それが最も貴いのですが、最も汚い所に一緒にくっついているということが分かりました。肛門が、最も貴いものの横にあるのです。おしっこが出てくるのは、最も貴いところからです。なぜ、そのようにつくられたのですか。最も高い所に行こうとすれば、肥だめを経て行かなければなりません。何のことか分かりますか。受難の道を行けということです。 よい種を蒔くときは、肥料を埋めて、その横に種を埋めて踏むのです。その種を無慈悲に踏まなければなりません。そうすれば、虫も入らず、空気も入らず、地熱と合わさって、温度の平準化した所で芽が出るのです。芽が出るには肥料が必要です。神様はすべてを知っているため、福を受けようとすれば、受難の道を行けというのです。為に生きよというのです。為に生きることができなければ、悪口を言ってでも、為に生きるようにさせなければなりません。 堕落した世界では、為に生きることを、この肉身は嫌がります。それゆえ、統一教会は断食しなさいというのです。奉仕しなさいというのです。したがって、標語を定めて、父母の心情を抱き、僕の体を受肉し、汗は地のため、涙は人類のため、血は天のために犠牲にしなさいというのです。その涙は自分のために流す涙ではありません。天と地のために汗を流し、天と地のために涙を流し、天と地のために血を流さなければなりません。そうすれば反対に生命が現れるのです。 悪口を言われることに不平を言う者は、すべて化け物になるのです。不平を言い、すべてを呪い、ひそひそ噂をし、批判をする前に、自らを批判しなさいというのです。聖書にもそうあるでしょう。他人の目のちりを見て、自分の目の梁は見えないと言っているでしょう。自分が問題だということです。 世間が平和になることが、自分の平和のためになるのです。そうなるためには、良心の独裁者となることです。体の独裁者がこの世を滅ぼしてきました。良心的な独裁者となって、体を無慈悲に治めなければなりません。二者択一ができなければ地獄行きです。許しはないのです。 流れる水は必ず海に行きます。海水は塩辛い水であり、淡水とは違います。だから淡水の流れは、海水に入っていくとき、ゆっくり流れるのです。すべてがゆっくり流れて混ざって入って行きます。そうすれば、そこにいる魚が死なないのです。 霊界は海と同じようなものです。今日、人間の住む国々は、川の流れと同じです。個人は雨粒と同じであり、支流が合わさり、大きな川となって、海へ入って行くのです。海に入って行くようになると、淡水にいる魚と海にいる魚はそこで一緒に生きながら、徐々に海水魚も淡水へ上がって来ることができ、淡水魚も海へ入って行くことができるようになるのです。海に入る川の急流を見ましたか。平らでしょう。そうなのです。お互い天理が保護するためのものなのです。 水が流れるようになると、必ず主流に向かって流れます。主流に従って、すべての川の支流が流れます。主流というものは悪い所です。汚い所です。深い所です。深い所は臭いが出ます。人生が福となり得る道を行こうと思えば、汚いものが集まる主流に行け、ということです。真なるものを望めば、汚いものを避けて行ってはいけません。何のことか分かりますか。その国を救うためには、きれいな所より汚い所に責任を持たなければなりません。便所に行って用を足すとき、いつも考えなさいというのです。 いつも他人の世話になり、食べさせてもらうことを好み、他人をむさぼり、盗みをする悪者が潜んでいます。したがって、宗教は断食し、奉仕し、犠牲を払い、祭物になれというのです。祭物という存在は、存在意識がないものです。日本人なら、日本人という意識があれば、世界の祭物となれません。「私は韓国人だ」という韓国人意識があれば、韓国の祭物になれるかも知れませんが、世界的祭物とはなれません。 日本人でも世界的意識を持たなければなりません。世界的意識を越えてこそ、神様に対することができます。存在意識を克服しなければなりません。統一教会の教会員として、どこかへ行って「私は統一教会の教会員です」と言うなということです。神の民として、神様の息子・娘として行かなければなりません。分かりました。(「はい。」) 自分の一族と中、高生、大学生を伝道しなさい では、昼食時間に、ここで三千名が一軒ずつ家を訪ねて行き伝道することと、昼食を食べることとどちらがいいですか。どんなことをするのがよいですか。三千軒伝道しますか、昼食をとりますか。(「伝道します。」)十二時を越えても、そんなことがあれば間違いなく行動開始するのです。一日を得ようということです。一日一日を得ることができれば、一日が千年万年に代わることができます。それを訪ねて行くのです。そうでなければ、四千年の歴史を四十年でどうやって蕩減するのですか。見当もつかないことです。厳然たる言葉です。 私が皆さんに世話になっていますか。(「私たちが世話になっています。」)どれだけ世話になりましたか。あなたたち百人を燔祭として捧げても、返すことができないほどの世話になっているのです。真の父母が与えたすべての福に、この者たちが、偽りとなったものを接ぎ木して、その福をすべて失ってしまっています。アフリカでは昔ダイヤモンドを見つけても、ダイヤモンドであることが分からず、ガラス玉だと思って、子供たちがつぶて打ちして、投げ合っていました。それと全く同じです。 韓国の者たち! 私に呪いがしきりに出てきます。時にさえなってみなさい。祝福を受けた者たちの中には、逆さに吊り下げられて、皮をはがれる者が出るかも知れません。私は、今後、残忍にならなければなりません。そのようになれる素質の豊富な人です。そのようにできる性格の人です。憤慨すれば夜眠れない男です。 神様の愛を知り、神様を解放するため、今まですべてのものを捨ててきました。今、私がなす責任をすべてなして、世間の人々に責任を追求しなければならない時が来ました。それは何十年、何百年後のことではありません。何年、何か月、何日後に来るのです。分かりましたか。(「分かりました。」)それでは、一食食べて十日間伝道しますか。(「はい。」)十日間伝道すれば、一人ずつは伝道しないといけません。ここに三千名いれば、三千名間違いなく十日間で伝道しなければなりません。そうする人、手を挙げて。 そのようにしてでも伝道して、自分たちを生かすのです。天国に行くとき、財産が何か知っていますか。先ほど話したように、天国に行くときは、群れになって行くべきだと話したでしょう。このサタン世界の人々を接ぎ木して、野生のオリーブの木を真のオリーブの木につくって、真のオリーブの木の畑で収穫して、倉庫にいっぱい埋めてくれることを願っているのです。あの世での自分の財産となります。間違いないというのです。 私は霊界に行って皆さんの責任は持ちません。私は百六十か国の宣教国をつくるため、このようにしています。水晶体とならなければなりません。先生に似なければなりません。どんな面も似れば、父子の関係となるのです。百六十か国を立てるため、先生は迫害を受けながら、死の峠を越えながらこのように来ました。皆さんは歓迎を受ける立場なのに、何ができないのですか。自分の一族が歓迎するのです。一族が、皆さんを先生のように、死ねと六回も監獄に入れたりはしません。 カインたちを救ってあげて、故郷に帰ることのできる道をすべて整えて、氏族的メシヤ、還故郷命令をしたのです。これがどういうことか分かりますか。できなければ大変なことになります。天国へ入籍できません。よく分かっているでしょう。自分の下に、百六十家庭は最小限必要です。私だったら一週間もかかりません。 これからは、大学界と中、高等学校以外伝道してはいけません。自分の一族と自分のお母さん、お父さんと、中、高等学校学生と大学生だけ伝道するのです。二世時代です。一世は皆滅びるのです。モーセの言葉を聞かないで上陸作戦をするときは、モーセも死に、一世も皆滅びました。私は死んだりしません。二世と共に上陸するのです。この地が二世の地です。それゆえ、二世に責任を持つのです。一世は皆消えていきます。そのように反対して、どんな体面で文先生に従って行くのですか。二世圏だというのです。 それゆえ、全世界的に、先生の息子・娘とお母様を中心として、三千三百の大学で今から始まるのです。日本、世界の各大学界、中、高等学校学生たちを収拾しなければなりません。アダム・エバが堕落したときの年齢である十六歳から二十一歳まで、三年さらに足して二十四歳までの青少年を収拾しなければなりません。それを私が責任を持つのです。そのような時が来ました。 おばあさんたちが先生を見に漢南洞に来ても、皆入れなくしようと思います。来ようとすれば、息子・娘を何人か連れて来なければなりません。そのような時が来ます。世間は知らないのです。皆さんは時を知らないでしょう。大豆を植える時なのか、小豆を植える時なのか分からないのです。先生は知っています。知っているのでこれまで生き残って来たのです。分かりましたか。 サタン世界の息子・娘を取り返して、天の国の民へと連れて行かなければなりません。皆さんが息子・娘となり、天の国の民として連れて入らなければならないのです。連れて入るその数が、皆さんの版図圏です。あの世の領域を相続することのできる材料となります。伝道をどれだけしたかということが、あの世では福となるのです。分かりましたか。(「はい。」)このようにはっきりと教えてあげているのに責任を果たさなければ、私は知りません。 さあ皆立ちなさい。今から先生の御言に絶対服従しますという人は座り、服従しないという人は立ちましょう8(拍手)それなら福を受けます。間違いなく福を受けます。先生が行く天国について行くことでしょう。 為に生きれば自然と代表の立場に立つ それでは皆さん三千名が一つの所に行くのです。今まで統一教会で三千方向であったものが一か所へと行きます。数多い民族、ヨーロッパの人、日本民族も皆国家を越えて一か所に集まるのです。世界を越えて一か所に行きます。天と地が、地獄までも一か所に行きます。それで神様の愛の道を訪ねて行くのです。そうするためには、高き者の前に小さな者は犠牲となるのです。それで結論は簡単です。個人は家庭のために犠牲になるのです。 家庭が八人ならば、その八人は皆自分と同じ人なのです。自分を中心として家庭を屈伏させるという人は、他の七人を犠牲にさせるのです。だから、それを保護するためには、私が犠牲にならなければなりません。垣根とならなければなりません。そうなれば、その八人がすべてさらに高い所へと発展するのです。 家庭は氏族のために犠牲にならなければなりません。氏族のためにしなさいというのです。そうすれば、その氏族の代表の立場に立つようになります。為になれば、自然と代表の立場に立つようになります。全体のためになれば間違いなく中心存在となります。分かりましたか。 氏族を代表して、すべての受難、難しい問題を私が責任を持っていけば、自然と中心存在となります。それで、私について来ないようにと言っても従って来るのです。おじいさん、おばあさんも皆、ためになります。そんな道があるために、統一教会は公式的な結論を備えており、家庭は氏族のため、氏族は民族のためとなるのです。 氏族が十二氏族以上になれば民族になります。イスラエルが十二支派を編成して、イスラエル民族となったのです。その民族が広野にいれば、国ではありません。移動するときは国ではありません。自分の土地がなければならず、国民がいなければならず、主権がなければなりません。これが三大原則です。イスラエルが上陸して移動したこの民族は、民はいても土地がありませんでした。土地がなく、その次には、伝統となるものが何もありませんでした。 神様を信じませんでした。女性のせいです。乞食の群れとなって、四十年、荒野と砂漠で生きてきたことを考えてみなさい。服も着ることができたでしょうか。考えてみなさい。カナン七族は羊もいるし、牧場もあるし、家はある、整然と住んでいる、とこうです。そこに行って、物乞いをしながら憤り、皆が食べ残した物をむさぼり食いながら、息子・娘をつかんで慟哭しながら、教育しながら泣くのです。今、苦労するのは我々の祖国を探すためであり、神様の国を立てるためのものですと、妻がそのように言わなければなりませんでした。 しかし、母が行って来ては父の批判だけし、自分がこんなに苦労するのはあの年寄りのせいだ、年寄りのせいで自分が苦労するのだと考えるのです。違います。女性は男性のために、一族のために生きなければなりません。夫に王のように侍らなければならない、息子に王子のように侍らなければいけないのです。それなのに、帰って来ては夫の不平、自分の一族の不平、すべて不平だけ言うというのです。 一家をつかみ、一族をつかみ、国を編成しなければならないのです。町内、村内に難しいことがあれば、先に行っては解決し、その次には、他の町内に飢え死にする人がいれば、自分が一食食べなくても、その人を生かしてあげるために、ご飯を食べるのをやめて慟哭し、訪ねて行く、そうしなければなりませんでした。しかし、天が立てた建国思想を失ってしまったのです。 皆、再教育です! 今日韓国に来てみて、滅び行くイスラエルと全く同じです。この貧しき者たちよ! 不法をはたらく者たちよ! 先生が血の汗を流し、韓国民族を生かすためにこれまでなしてきたのに、この者たちが国を滅ぼすのです。それは大韓民国の国ではない、滅びゆく国ではありません。永遠なる理想の国を滅ぼすようなことをしているのです。何を考えているのですか。 統一教会の祝福を受けた家庭が、二人一緒になって騒動を起こす子供を生んだとするならば、どうやって処理するつもりなのですか。方法がありません。原理にないのです。天の国に方法がありません。追放されるのです。太平洋に、音もなく…。これは完成級でなしたため、その種を見せてはいけないのです。私の手で祝福して、私の手でその血族をすべて消し去らなければならないという事態が起こってしまうのです。 あなたたち皆そうです。自分の息子・娘がかわいいと大学院に送りますが、今後を見てみなさい。どうなるか。私が大学院をつくって、皆をすべて教育するかもしれません。あなたたちの国は恨が余りにも多い。先生の目の前に火でも出ないように、祝福家庭たち、きちんとやっていかなければなりません。分かりますか。(「はい。」)きょうからでも、真の父母にきちんと侍りなさいということです。 先生は三十五年の間、誰よりも、聖日を、敬礼式を守ってきました。息子・娘が来るようになると、皆つかまえて、私が探し歩きながら教育してきたのです。そうしてみたら、息子・娘が、父母だけが苦労しないで、私たちにもさせてくださいと言うのです。今はアメリカの大学界で、自分たちが前に立ち皆すると言って、今もずっとやっています。そんな家庭はないといって、有名になってしまいました。世界的に有名になってしまいました。息子たちは優秀でしょう。息子の自慢ではありません。今後、大学界のすべて、自分の先生たちを追い込むのです。このような家は滅びるでしょうか、栄えるでしょうか。(「栄えます。」)栄えなければなりません。滅びるようになったものは同情することができません。滅びるようなことをしたのでしょう。しっかりしなさい。分かりましたか。(「はい。」) 自分の主張だけを一番だと考えてはいけません。自分の命令は絶対に立てようとする、それはいいのですが、天が見つめるその基準と合うか合わないか、それを見立てなければなりません。自分が実践してから言いなさいというのです。それゆえ、謙遜にならなければなりません。今言っていることは統一教会全体に言っているのです。分かりましたか。(「はい。」) 本来は、もう新時代に入って来たので、昔の位置にそのまましがみついていることを、私はよく思いません。教会であれ何であれ、旧約時代の人々、皆二十年以上になる人は公職から退いて、故郷に出て行くようにしなければなりません。そんな時だというのです。分かりましたか。私も二十年後にアメリカに行ったのです。 そして今後、原理勉強を徹底させなければなりません。プログラムをつくって、一年経って原理講演会をすることのできる実力のないような人は、元に戻らせるのです。早く多くの国際舞台に立てなければなりません。そうでなければ世界の運勢を逃してしまいます。 皆再教育です。再教育を受けたという先生のサインを受けなければ、こちらに越えて来ることができません。そうでなければ、統一教会の将来において、世界百六十か国の今後に、後進の大列の前に、伝統を皆壊してしまいます。通告します。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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