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カテゴリ:文鮮明先生み言葉選集(講演文)
祝福家庭と理想世界 2002年4月27日(土)に米ワシントンD.C.をはじめとする世界189か国で、直・間接に衛星中継とインターネットを通して挙行された。本講演文は、ワシントンD.C.のシェラトン・ナショナル・ホテルで開催された14万4千組の聖職者祝福勝利祝賀晩餐のときに語られたみ言である。 本日、歴史的な超宗教・超人種・超国家から成る14万4千組の聖職者の祝福結婚式に参加した当事者の皆様に心よりお祝い申し上げます。 真の家庭の理想を中心に宗派と教理を超越し、五色人種が一つとなったこの日は、葛藤と紛争で突き進んできた人類の文明史に、和解と愛が勝利した歴史的な一日として記録されることでしょう。私は過去80年あまりの生涯を通じて、私が創設した宗教団体を飛び越え、神の下の一つの平和世界を建設することに全心全力を尽くしました。 今やその実を結んだこの意義深い場で、さまざまな宗教団体の指導者の皆様と分かち合おうと思うみ言は「祝福家庭と理想世界」です。 この世の中には数多くの人々が暮らしていますが、彼らは皆、家庭に属しています。ところが、真なる家庭がなくては、真なる子どもを育てることができないのであり、真なる社会の形成も不可能なのです。真なる家庭が基礎になって、真なる社会、国家、そして世界が建設されるのです。真なる家庭とは、神の真の愛を中心として築かれた家庭をいいます。 今までは真なる家庭が何かという定義がありませんでした。それだけでなく、真なる人間が指向しなければならない目標が何かもはっきりとしていませんでした。どこから来て、どのように生き、死後はどこに行くのかを知ることができないまま、無知に置かれてきた人間だったのです。そして人間が到達しなければならない目的、修養の基準、そして人間完成の限界点が規定されないまま歴史が続いてきました。個人がそのような立場にあったので、家庭的な基準も立てられるはずは決してありませんでした。 そのように見るとき、数多くの人間たちが人生行路でさまよっているのも問題ですが、私たちが忘れてはいけない、さらに大きな問題は、真なる個人を中心とじた真なる家庭の基準が立てられるべきだということです。その問題が、人類の行路と人類歴史の途上に残っているのです。 それでは人間の霊的な無知を打開してきた宗教が指向すべき最後の目的は何でしょうか。個人の救いも意味がありますが、家庭を救わなければなりません。まず、家庭を探して、人間たちを罪悪の中から解放しなければなりません。 真の意味で歴史を代表し、時代を代表し、そして未来を代表する家庭を探さなければなりません。ひいては、世界の人類が皆一様に望む家庭の基盤と家庭が指向すべき程度の基準が確定されなければなりません。どこから家庭の制度が始まり、どこを指向すべきかということが決定されなければならないのです。そうならない限り、地上に平和の世界を創建することはできません。すべての家庭が健康でありえないとき、世界は一時に破綻しうるということを知らなければなりません。 家庭には父母がいると同時に夫婦の因縁があります。父母がいなかったり夫婦が分かれていても不幸ですが、愛する配偶者を失うようになるときは、この上なく悲惨で不幸なものです。それだけでなく、夫婦が子どもをもてなくても不幸であらざるをえません。たとえ、外的には大きく成功できなかったとしても、家庭で真なる父母、夫婦、子女を中心として愛を完成して、他の人たちがその家庭を見習いたいと思うほど平和に暮らすなら、その家庭は幸せな家庭であるということは否定できないでしょう。 今日まで聖賢と賢哲が平和を語ってきましたが、家庭が真なる平和の起点であるということをよく知りませんでした。それは神の創造理想が、理想家庭を土台にした平和世界の建設であるということを知らなかったためです。 今まで世界の歴史に各種の革命が数えきれないほどたくさん起こりました。そのような革命によって世界を動かしたケースが多かったとしても、それらはすべて過ぎ去ってしまいました。最後の問題は、真なる家庭を築くための革命を起こすことのできる一つの中心が地球上に現れなければならないということです。ですから、そこから新しい世界が創建され、新しい歴史的な理想が出発しなければなりません。それが第一イスラエルであるユダヤ教から第二イスラエルであるキリスト教を通して伝授されてきたメシヤ思想です。 正しい家庭をもてない人が正しい方向に生きていけるでしょうか。そのような人は生きていっても、安定した終着点を見いだすことができずに戻ってくるしかないでしょう。ですから、再び家庭に訪ねて入っていくしかないのです。そのような運命を背負った人生行路なのです。 本郷を追求していく人間の力が、すべての歴史と環境に影響を及ぼして幸福の基台を築く動機とならなければなりません。そのような人間の力の基盤となる家庭は、どこにおいて築くことができるでしょうか。今日すべての宗教は、社会のために貢献する以前に家庭の基礎からまず設けなければなりません。なぜなら、宗教が社会のために貢献したとしても、その社会を形成している家庭の基礎が崩れれば、社会の基盤も崩れてしまうからです。 そのような点から見るとき、神が、堕落した人類を救うための最初の起点はどこでしょうか。ある文明を誇る特定の国家でしょうか。違います。社会のある組織が理想的な組織だからといって、その組織を中心として救うでしょうか。違います。それでは天才的な素質をもったある個人を中心として救うでしょうか。それも違います。それなら何でしょうか。 そのすべてを超越しうる一つの起点が真なる家庭であるということを知らなければなりません。したがって、今日の人間たちはそのような家庭の門を通過した資格を備え、世界へ向かうことができなければなりません。そのような主義と思想をもつことができる個々人が出てこなければなりません。 それではどうして、仏教とカトリックでは独身生活を強調してきたのでしょうか。独身主義が真の幸福の基盤であるということができるでしょうか。そのようにいうことはできないのです。いかなる宗教や主義も、真なる幸福の根源がどこにあるかを教えることができなかったので、彼らは独身生活をしながら将来現れる純潔で正しい家庭の契りを立ててきたのです。昨今持ち上がっているカトリック内部の深刻な問題は、13世紀以降に続いてきた独身主義に対する根本的な見直しが必要であるという事実を物語っています。 神のみ旨は、真なる男性と女性が築く真なる家庭を通して成就するようになっています。それゆえ、聖職者たちが率先して理想家庭を築き、世の中の人々に手本を示さなければなりません。 今日アメリカだけでなく全世界では、青少年たちの脱線と堕落が健康な社会を脅かしています。世界は人間の力と愛では収拾することができない終末的な状況に置かれています。それゆえ、新しい運動が展開されなければなりません。すべての誤ったものを清算し、本来の基準で新たに出発しなければなりません。 そのような意味で、歴史は本然の理想世界に向かって、古いものを清算し、新しいものを再創造していく再創造の復帰摂理歴史です。ですから、過去のものと新しいものがぶつかるのです。今までは、だれもが家庭を思いのままに立てましたが、今後はそのように立ててはいけません。 様々な宗教の創始者たちの中でイエス様は、特別に家庭について深刻なみ言をたくさん語られました。イエス様は、神をどのようなかたであると言いましたか? 「私の父」と言いました。創造主である神と人間の関係を親子の関係であると言いました。さらには、イエス様ご自身が「神のひとり子」であると言いました。それはイエス様が神の長男であり一人息子だったということです。 神が愛の本体であるならば、人間と親子の関係にならざるをえないでしょう。それゆえ、神と私たち人間の関係は、単純な造物主と被造物の関係を飛び越えて、真なる愛、生命、血統によって連結した関係なのです。 また、聖書ではイエス様を新郎に例えています。新郎と新婦が結婚すれば夫婦となります。家庭を築くのです。結局、家庭を築いて子どもを生むのです。結婚した夫婦は、必ず息子、娘を生まなければ、家庭が確かなものとして築かれません。妻が憎くて離婚したくても、子どもを生んでおけば、むやみに別れることができません。ですから子どもは夫婦の愛の実です。 この地にイエス様は神のひとり子であり、天国の王子として来られました。神の全権を相続するにふさわしい王子として生まれたのです。そのような神の息子を迎えて神の長男の嫁となるべきユダヤ民族でしたが、そのようになることができなかったのです。 皆様の中でその王子様の新婦となりうる自信のある人がいますか? そのような人は神を父として侍り、天の王子と王女として因縁を結ばなければなりません。そのように神を中心とした家庭を築くことが、イエス様の願いでした。天下を所有したかったのではありませんでした。 それでは、キリスト教は何をすべきでしょうか。すべての人類が再臨を待つイエス様の新婦を準備しなければなりません。ですから、聖書に小羊の婚宴の比喩があるのです。その責任を担ってきたのが新婦の宗教のキリスト教であるという事実をはっきりと知らなければなりません。二千年前にイエス様が肉身をまとって地上に来た目的も家庭を築くことでした。問題は家庭でした。 イエス様が家庭を築いていたらどうなったでしょうか。家長になって家の宗主になったでしょう。しかし、イエス様は家庭を築くことができずに、十字架にかけられました。イエス様が築くべきだった家庭は、神に侍り「千年も万年も暮らしたいものだ…」と言うことのできた家庭です。韓国の民謡の中で「月よ、月よ、明るい月よ、李白が遊んだ月よ、あそこの、あそこの、あの月の中に月桂樹を植えたので、父母を迎えて千年も万年も暮らしたいものだ…」という歌があります。 もしイエス様が家庭を築いたならば、子女たちを生んだでしょう。すなわち、神の孫と孫娘が現れたはずなのです。ところが神は孫と孫娘を見ることができませんでした。結局、神は直系の孫と孫娘を見ることができなかったのが恨です。 今まで神は、すべての人間たちの標本的な家庭を立てようとなさいました。神は、そのような家庭をどれほど恋しがられたでしょうか。また、堕落した人間たちも、どれほどそのような家庭を恋しがっているでしょうか。皆様もそのような家庭を恋しがってみましたか? すべての人類が理想家庭を中心として一つになるべきです。ですから、すべての人類は何を探し求めるべきでしょうか。真なる家庭を探し求めなければなりません。 今日の堕落した世界の家庭は、神の前に立つことができません。そのような曲折があるので、「そして家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ福音書10:36)というみ言が当てはまるのです。 イエス様はこの地に来て何をしようとされたのでしょうか。神を中心とした一つの家庭を築こうとしました。ところが、その家庭を築くことができなかったので、再び来ると言われました。再び来て何をするのでしょうか。家庭を築かなければなりません。その家庭で息子、娘たちが繁殖すれば、氏族を成し、民族を成し、そして国家が成されるでしょう。 今までそのような家庭が築かれなかったので、神が創造理想とした本然のそのような家庭を築くために救いの摂理を展開してこられたのです。今日にいたっては、そのような家庭を立てるために、「祝福」というものを施しています。その祝福で築かれる家庭を「祝福家庭」といいます。 祝福家庭とは何でしょうか。神を中心とした理想的な家庭のことです。その家庭は来るべき主が築かなければならない家庭であり、今後、後代の人々も築かなければならない家庭であり、すべての人間が果たさなければならない目標なのです。 すべての人間が通過しなければならない関門は何でしょうか。国家でもなく、世界でもありません。共産主義世界でもなく、民主主義世界でもありません。本然の家庭です。民主主義世界が建設される以前に真なる民主主義世界を創建しうる本然の家庭がなければならないのです。その家庭が現れるまでは、平和の王国、平和の理想国家、あるいは平和の国はありえません。 ですから、私たちの願う理想的な家庭、本然の家庭、生きるべき家庭、出会うべき家庭、探し求めるべき家庭が、地球上に必ず現れて人類の歴史とともに運命を共にすることができる一時が訪れなければなりません。そうしてこそ、地上に対する神の摂理が完成するのであり、安息の巣が設けられるのです。そのように家庭を生かし、地域社会を新しくし、国をしっかりと立てる運動を聖職者たちが率先して展開しなければなりません。 本日祝福された聖職者の皆様は、これから率先して皆様の教会と地域社会で祝福運動を主導し、平和の国と平和の世界を建設していくことにおいて先駆者となってくださるようお願い申し上げます。神の祝福が皆様のご家庭に共にあることを願いながら、お話を終えようと思います。ありがとうございました。 一休さんのような機知(トンチ)ではありません。 奇知=人とは異なる知恵 すなわち神様の知恵 世界平和を願う奇知の外の凡人が徒然なるがままに書く日記です。 ↓↓ にほんブログ村ランキング参加中。応援クリックお願いします。↓↓ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024.10.14 20:55:01
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