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カテゴリ:映画の話
慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」に3歳の男の子が残されていたということ。
どんな母親が どんな気持ちで 彼をそこに置いていったのか・・・。 「こうのとりのゆりかご」についての賛否両論。 どちらにも一理あるので 正解というのはありませんが、 親に捨てられ 施設で育つ子供、 育児意欲のない親に(時に命にも関わるような状況で)育てられる子供、 どちらがより不幸なのか。 映画『誰も知らない』を思い出してしまいました・・・。 実際にあった事件をモチーフにした映画ではありますが、事実とはだいぶ異なるストーリーになっています。 (実際の事件は、映画よりもさらに悲惨なもので、イメージするのも辛いくらい・・・。) ちょっときれいに描きすぎてるかな、とも思うのですが、映画としては好きなタイプの作りです。 映画の中では、たくさんの他者が彼らに少しずつ関わる。 コンビニの店員など、彼らを気遣いつつも、もう一歩は踏み込まないその希薄な人間関係に、 リアリティを感じました。 どうして、そこでもう少し手を差し伸べてあげられなかったのか。 自分だったら何かできたのか。 「誰も知らない」子供たちが暮らすのは、私の家のすぐ近くかもしれない。 そんなメッセージがこめられているように思いました。 安倍首相は冒頭の件について 「児童相談所などに相談して欲しい」という趣旨の発言をしていましたが、 同時に「子供を育てるのは親の責任」とも言ってました。 「子供を育てるのは親の責任」なんていうことは、誰だってわかっているし、 もちろん慈恵病院の方々も、 そして子供を捨てた親もわかっているでしょう。 わかっているけれど 育てられない人がいる。 事情があって、ということではなくて、「育てたくなくて」育てられない人がいる。 正しいことではないけれども、事実は事実・・・。 児童相談所に行って、「お母さん、がんばってみましょう」とかお説教されるのは面倒だから、 「子供を育てるのは親の責任」という正論を振りかざされるのは嫌だから、 子供を捨ててしまう、育児を放棄してしまう、子供を殺してしまう。 安倍首相にはわからないのかもしれないけれど、そういう人が実際いる、 という事実は受け止めないといけないんだろうと思う。 ここ数年の社会のあり方を象徴するような『自己責任』という言葉がある。 たとえ不利益を受けても、それは自分のせいだからしょうがない、という理論で 社会的弱者の救済を放棄する際に頻繁に使われているように感じる。 でもこの場合、不利益を被るのは無責任な親本人ではなくて、子供達。 救済策を講じるのは、親の無責任を助長するためではなくて、子供を救うためだ。 「子供を育てるのは親の責任」という正論を振りかざすのは簡単だけど、 なんの解決にもならない。 「こうのとりのゆりかご」を批判するならば、併せて現実的な対応策も検討して欲しいと願う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 17, 2007 01:29:44 PM
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