カテゴリ:韓国と韓国歴史&韓国語etc..
「ウトロ」 に関しては、守る会が結成され、十数年間、ウトロの住民を守る運動を続けてきました。色んな問題が複雑に絡んでいて、その内容についてこの場で論じるには、とても無理だと思います。検索で”ウトロ”と入れたら相当数のHPがヒットできます。今日は、知らない人のため、と思い上げてみました。全国には兵庫県、伊丹の中村地区、川崎の多摩地区、広島等々、日本全国に未だ、数箇所の密集地区があり、生存権をかけた立ち退き反対運動が繰り広げられています。(スタンスの違いで、色んな意見や考えがあるのは承知してますが、純粋に運動してる方々を揶揄する書き込みはご遠慮ください。) ウトロの経緯はhttp://www.kin.or.kr/utoro/japan/jpnsub1-1.htm参照ください。 下記の文は”ウトロを守る会”の田川 明子さんがウトロの窮状を訴えにニューヨークに行った時の出来事を書いたものです。ロス暴動を経験した在米KOREAとの出会いまあります。時間があればご一読ください。 ウトロを守る会 田 川 明 子 今日は! ウトロを守る会の田川明子です。 ウトロ町内会とウトロを守る会では、今年3月1日の New York Timesにウトロの窮状を訴え、支援を求めて意見広告を出しました。はじめの1週間で千通を越えるウトロへの支援のお手紙がアメリカ市民から寄せられました。ほぼ同じ数の抗議の手紙が、アメリカ日産と日本政府に寄せられていたはずです。夏には2万通近い手紙になっていました。 アメリカの人権問題に取り組むいろんな市民団体が、声明文を発表してくれました。そういう方々にお会いして支援のお礼を申しあげることと、新しい運動のネットワ-クを作るために、ウトロの金小道さんと一緒にアメリカに行き、9月13日~22日の間、ウトロキャンペ-ンをやって参りました。 今日は、その時のことを中心にお話いたします。一言で申しあげれば、ロスアンゼルス国際空港に到着した瞬間から“私が日本人であること”をつきつけられ、考えさせる1週間であったと思います。そしてそれは今も続いています。 空港に到着した、とたんに新聞記者に取り囲まれ、「あなたは日本人としてウトロで起っている事を恥ずかしいと思わないのか?」「67才にもなる金小道氏のそばに立っていて、日本人として今、何を感じているのか?」等々、とてもきびしい表情で質問が相つぎます。 恥ずかしいと思うからこそ、ウトロの人々と一緒に斗っていること、ウトロで起っている事は、ウトロの人々に問題があるのではなく、在日コリアンの存在を無視し続ける日本社会の問題であること、人権を守るために多くの日本人がウトロの運動に参加してきている事などを一生懸命お話しましたが、メディアの人々の ice face はなかなか溶けません。アメリカのメディアの人々は、日本の人権状況にとても関心を持っています。 私達はアメリカ滞在中に、14回新聞にとりあげられ、テレビやラジオに生番組を含めて10回出演しました。カリフォルニアで60万人、ロスアンゼルスだけでも30万人のコリアンが住んでおり、コリアン向けの放送局がいくつもあります。1時間の生番組に出演中も電話がどんどんかかってきました。 …今、何をしてほしいか言ってくれ。ぜひ援助したい…日本ではウトロの運動はどうなっているのか?…私の父親は日本の軍隊に連れていかれたきり帰って来ない。探してほしい。 …田川さんがウトロでの働きには敬意を表するけれども、日本人である田川さんの口から「朝鮮人」という言葉を聞きたくない。かって日本にいた時、自分が朝鮮人と言われる時そこには必ず蔑みの感情があったのを忘れることができないから… …日本は元従軍慰安婦の方々が顔をさらし名乗り出るまでその存在すら認めなかったではないか、等、日本人の歴史意識を問うものがほとんどでした。 アメリカ滞在中の最後の日曜日には、ロス最大のヨンナク教会での礼拝に参加しました。朝7時から6回礼拝がささげられ、計6000人位のコリアンがロス中から集まります。牧師さんが紹介して下さって全員でウトロのために祈りがささげられました。 終わった時のことです。私はひとりのおばあさんにひしと抱きしめられて“哀号-かわいそうに。日本は戦争が終わって50年にもなるのにまだあなた方にこんなむごいことをするの-”ときれいな日本語でかきくどかれました。私をウトロの在日朝鮮人だと思い違いをしておられるのです。 私は抱きしめられながら立ちつくすしかなく、そして頭の中では、ウトロの文光子さんや金君子さんが「ウトロにちょっとでも日本人がいたら地上げなんて目には合わなかったはず。朝鮮人ばっかり固まって暮らしていたから差別したと思います。私はそのことが許せません」とおっしゃったことばがぐるぐるまわっていました。 私が日本人だと打ち明けると、こんどははじけるように飛びのいて「ごめんなさい」「ごめんなさい」と謝るのです。謝らなければならないのは日本人である私の方。 私の髪型からか、何度も間違えられ、そんな経験を4回もしました。 出発前にアメリカでは日本人としてきびしい質問も受けるであろうとことは、 自分の頭ではわかっているつもりでおりました。 日本が、戦中・戦後、何をしてき、何をしなかったのかを、本当に思い知る旅でした。 アメリカ滞在中に私は親しくなったコリアンの人々に、機会があるごとに、ロスアンゼルス暴動の時どうしていたか、またその後どう思っているのかを質問しました。ウトロ支援委員会のポ-ル・リ-とダニ-・パクのことばが印象的でした。 「暴動の時、恐ろしくて家から3日も出られずにいた。けれどもあの暴動は私たちコリアンに、2つの重要なことをわからせてくれた。 一つは、我々がアフリカ系アメリカ人やラテン系アメリカ人に対して持っていた、差別意識と無関心に気付かせてくれたこと。もう一つは、アメリカ社会のマイノリティどうしとして、彼等とこそ手を結んで、人権を求める斗いを一緒にすべきだということ。」 家を焼かれ、商店は略奪された人々のことばです。今でもロスアンゼルスの町は、復興こそされましたが、日が落ちて暗くなると空にヘリコプタ-が2機飛びまわり、サ-チライトでコリアンタウンやアフリカ系住民の多くが暮らすサウスセントラルを威嚇するように照らしています。その中で学びとった2つのことに私は感動しました。 そのことばを実証するかのように、ウトロを支援する委員会には、アフリカ系アメリカ人や、アラブ系アメリカ人、フィリピン系アメリカ人、日系アメリカ人、ネイティブアメリカン-インディアンの人々-と様々のグル-プが参加してくれていました。 合い言葉はただひとつ『人権』。 ウトロのスライドをフォ-ラムで上映すると、明りがついたとたん参加した人々の目は真っ赤でした。ウトロの子供達の大写しの写真が、自分の子供の頃と重なって見えたのです。小さなウトロという街が、パレスチナの難民キャンプや、ストリ-トチルドレンや、戦争中に強制収容されたマザンナの砂漠の鉄条網の中の思いでや、スラム街で自分の誇りを奪われて生きる子供達と二重写しになり、“我がこと”と感じウトロに思いをはせているようでした。 6000マイルも離れたウトロの街と、ロスアンゼルスの教会での集会は、参加者がほんとうにひとつになったような気がしました。 金小道さんが、「たった380人のウトロの住民のため、これだけの人々が心を動かしている。本当にアメリカに来て良かった。我々は決して孤立していないし、希望も与えられた。」としみじみとした表情で話されました。 アメリカのマイノリティ-の人権を回復する運動は、60年代の黒人の公民権運動から学んだ点が沢山在りました。多くのマジョリティの人々がこれはアメリカ社会の問題なのだと認識したことから前進したのです。 ウトロを守ることは、日本社会への問いかけです。在日の人々の声に耳をかたむけながら、自分の住む地域社会を見つめてゆきたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.09.24 23:28:30
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