カテゴリ:韓国と韓国歴史&韓国語etc..
頭ヅキの大木 金太郎、その人のレスラーとしての人柄、韓国での国民的人気は有名ですが、 朝鮮戦争前夜の韓国のおいて軍事裁判にかけられ、死刑求刑の直前まで行き、後日、日本への密航と、彼も又、歴史の中で風の花の様にさまよった一人です。 中央日報 2006/10/26 【頭突きの元プロレスラー、大木金太郎さんが死去】 1960~70年代に必殺技の頭突きで鳴らした往年の有名プロレスラー、大木金太郎(おおき・きんたろう、本名:金一=キム・イル)さんが26日正午、ソウル市ノ原区下溪洞(ノウォング・ハゲドン)の乙支(ウルジ)病院で死去した。77歳だった。 主治医を務めた乙支病院のチェ・ジェウン教授は「頭突きの後遺症や糖尿病、高血圧、慢性心不全などで闘病生活を続けていたが、同正午17分亡くなった」と伝えた。直接の死因は心不全。心臓疾患による高血圧や糖尿病などを併発し、入院生活が続いていたが、25日から危篤状態に陥っていた。全羅南道(チョンラナムド)の高興郡(コフングンン)出身。 金一はいつ韓国から日本に渡り、力道山道場に入門したのか 金一自身によれば、1957年に密航し、捕まって大村収容所に1年いた。そのときに力道山に手紙を出し、それがきっかけとなって釈放され、力道山道場に入門。58年12月にデビューを果たした。また、韓国のウェブサイトには、1956年密航、57年入門、と記載したものもある。他方、日本のプロレス本を見ると、さまざまな説があり、定説がない。密航と入門の時期はグレーゾーンだ。 1. 60年4月に日本プロレス入りしたジャイアント馬場の自伝によれば、大木 金太郎は1年先輩とある。つまり、大木は59年の入門ということになる。 2. ベースボール・マガジン社編「日本プロレス全史」(ベースボールマガジン社、1995年)は、59年4月に日本へ密航したと記載している(65ページ)。 3. 力道山の連れ合いであった田中敬子の著作『夫・力道山の慟哭』(双葉社、2003年)186ページには、「1958年、25歳で日本に密入国し拘束される。拘置所から力道山に手紙を出し、身元引受人になってもらってリキ道場に入門する」とある。 4. 東京スポーツ新聞のプロレス担当記者だった原康史は次のように記している。「この“力道山道場”には前年〔1959年--引用注〕暮れに韓国から来日して入門した大木金太郎(本名=金一=キム・イル=当時27歳)……」(原康史『激録 力道山 第3巻』東京スポーツ新聞社、102ページ) 以下の記事は 辛淑玉さんの 大木 金太郎物語からの抜粋記事です。 生死の分かれ目 1948年10月20日、金一の故郷である居金島と同じ朝鮮半島南岸に位置する麗水に駐屯していた国防軍第14連隊の一部が、「人民解放」を掲げて反乱を起こした。 日本からの解放後、48年8月に大韓民国が成立し、それを追うように9月には朝鮮民主主義人民共和国が成立。朝鮮半島に二つの国家が誕生し、南北分断が決定的となった。 それに先立つ同年4月3日、済州島で民衆が立ち上がった。南の単独政府樹立に反対するというスローガンを掲げていた。軍と警察が合同で鎮圧しようとしたが失敗。韓国政府は第14連隊の兵力約三千人を済州島へ送るという決定を下した。世に言う「四・三事件」である。済州島での殺戮は、軍事政権下では長い間隠蔽されたままとなった。 済州島派兵予定日の前日である10月19日、金智会・李起鐘・朴基岩などに率いられた第14連隊の反乱軍約千人は夜明け前に麗水の主要官公署を掌握、「人民解放」を叫び、北朝鮮の旗を掲揚した。その後、約四万人の群衆が動員された。一週間後、反乱軍は国軍によって鎮圧され、一部が智異山に逃れた。 第14連隊には金一の友人8人がいた。彼らは反乱の後、故郷に立ち寄っている。その時、金一は彼らに食事を出した。 韓国でも在日社会でも、「ご飯食べましたか」は挨拶である。客人に対して食事を振舞うのは当たり前のことなのである。今でも、人が尋ねてきたのに食事も出さずに帰したとなると、信じられないと言われるほどである。 しかし、そのことが問題となった。 食事を出したことを理由に、国家反逆者の烙印を押され、連行されたのだ。 事件鎮圧後、金一は「主導者」とみなされ、罪状は友人をだまして第14連隊に送ったこととされた。そして、光州まで連行された金一は、殴り殺されるとはどういうことかがわかるほど殴られた。 軍事裁判で検事が金一に尋ねた。 「お前はなぜ南朝鮮労働党に加入したのか」 金一は答えた。 「南労党とは何ですか。私は知りません」 「おい、お前はここに署名までしたじゃないか」 「私は南労党が何なのか知りません」 堂々巡りが繰り広げられた。 と、その時、検事の帽子が床に落ちた。 金一は無意識のうちに立ち上がり、帽子を拾った。 パンパンと帽子の埃を払い、元の場所に戻した。 理由などない。 落ちた帽子を拾って元の場所に置く。それは金一の性格そのままである。 自分に対してひどいことをした人であろうとなかろうと、誰に対しても礼をもって対応する。 検事は金一の顔をじっと見つめていた。 そして書類に何かを書き込んだ。 それが生死の分かれ目だった。 金一は釈放された。 一緒に連行された人々のうち、彼以外はすべて死刑になった。 次女金スンヒのインタビュー記事(1970年8月12日付韓国誌『週刊女性』) 「一年のうちせいぜい二ヶ月ほどしか家族と一緒にいない父ですが、一緒にいるときは私たちに対して限りなく情が溢れ、家庭的な父です。私たちが取り散らかしたものをいつも手でこまめに片付けてくれるのです。娘たちが恥ずかしがるほどのこまごまとしたものまで、微笑みながら隅々を探して回るのです。私はあまり外に出ないので服が少なく、簡素なほうです。それで、三日ほど同じ服を着て過ごしていると、『お前は女なのに一体なぜそんな格好なのか』と怒られることもあります。 米国のようなところに行くと、帽子や鞄のようなものを買って送ってくれます。『米国の女性たちは帽子やカバンを愛用する。このごろはこうしたことが流行しているようだよ』という手紙まで一緒に送ってくれるのです。この前、テキサスのほうに試合をしに行ったときは、つばのとても長い、大きな帽子を贈ってくれました。『最近テキサスで流行しているので、お前も一度被ってみろ』という手紙も一緒です。それでとても笑いました。」 大木 金太郎 物語り13] 「珍島犬の思い出」 麗水順天事件で首謀者とされ、生死の境目を越えた。容疑は晴れたものの、朝鮮戦争が終わった後も、金一は要注意人物としてマークされ続けた。麗順事件のときに連行された経験があることが、軍事政権下で疑いの目で見られる要素となった。金一は、連行されては釈放される、の繰り返しだった。 そのため、子どもたちは進学でも大変苦労した。貼られたレッテルは、長い間、家族をも苦しめたのだ。 暇があれば新聞に目を通す金一の姿は、多くの人の印象に残っている。 ある日、週刊プロレスの編集長(当時)だった井上が、現代の社会について書いてほしいと申し込んできた。 金一は、『社会には二つの波がある…』など、独自の理論で現代社会を分析した内容を書いた。 誰かが代筆をするのかと思っていた者もいたが、若者にアドバイスをするイルの姿は、リングの上の「頭突きの金太郎」とは、一味も二味も違っていた。 金一記念館の前には、珍島犬の碑がある。 「珍島犬の思い出」は、金一が自ら語った文章があるので、それをそのまま紹介したい。 (全訳)『私の幼いとき、山河を遊び回っていた忠実な私の友、珍島犬よ!日本軍の軍用防寒服を作るという理由で死の橋へ引かれていったその姿が、長い歳月のたった今も、私の脳裏を離れません。 日本の巡査の強圧に勝てず、私はその首に縄をかけて日本の巡査に渡し、ずっと泣きました。私の友、珍島犬は、日本の巡査に引かれ、犬を殺す橋のほうへ向かいながら、こちらを何度も振り返り、ついに見えなくなりました。しかし一時間後、脱出して私の元へ舞い戻って飛び回り、私は嬉しくて胸に抱きかかえました。 私は、友達の珍島犬の首に縄をかけて死の道へ送りましたが、珍島犬は私を永遠の主人と思っていました。じゃれ付くその姿が今も目に浮かびます。 人間には互いに裏切り憎み合う者がいても、忠犬は主人を裏切らずに最後まで仕えるという昔の言葉が、今更ながら、私たちに多くの教訓を与えてくれます。日本の巡査に引かれていく私の友、珍島犬を眺めるだけで最後まで世話をしてやれなかったあの日のことは、今も、とめどなく泣きたくなる私とわが民族すべての恨や悲哀として残っています。あのとき、あの時代、悲鳴を上げながら行った私の友、いや、われわれすべての友、珍島犬の悲しい涙を思い、二度とこの地で、草一株、犬一匹も外国勢力の犠牲にならないよう望みます。私たちの過ちを許してくれるよう今も願いつつ、この小さな碑石を珍島犬に捧げます。1994年10月3日 前NWAインターナショナル・ヘビー級世界チャンピオン 金一』 金一は、力道山を生涯尊敬する師と仰いだのと同じように、目上の人に礼を尽くした。ソウルにいる間は、どんなに夜遅く帰宅しても必ず母(ソンチョジャ氏)がいる部屋に行き、あいさつをした。 母も息子のあいさつを聞いてから就寝した。 1965年、朝鮮半島全体が日照りの厳しい年だったとき、農村の灌漑地域に揚水機50台を密かに寄贈し、1978年には、生活が困難な人々のために救援用ラーメン200箱(当時の価格で約50万ウォン相当)を江南区庁に寄付した。引退後の闘病生活中には、ファンから送られてきた浄財の一部を「自分よりも不遇な隣人のために使ってくれ」と差し出した。 だからこそ、10年前、死刑宣告を受けたある死刑囚が、「死ぬ前に金一を助けたい」と刑務所で少しずつ貯めた100万ウォンを送ってきたのだ。 感動した金一は、「この金は受けとれない」と受け取りを拒み、反対にバザーなどで入ってきた200万ウォンを死刑囚たちと視覚障害者にカンパした。 寄付や支援のカンパは数え切れない。 どれだけ寄付をしたか、もう本人にも分からないほどだ。 信義を大事にすること。人を信じること。それが金一の人生での大きな危機を何度も救ってきたからだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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