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ファピーの風の花

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2006.10.31
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テーマ:韓国!(17289)
カテゴリ:カテゴリ未分類
韓国文化を守った浅川伯教・巧兄弟→李朝白磁を近代日本に再び広め、そして朝鮮半島に眠る、、、

           

淺川伯教の弟淺川巧と柳宗悦

その柳宗悦が、民芸運動を始めて、最初に注目した工芸品が「李朝の工芸」だったそうです。
柳宗悦は我孫子で淺川伯教が持ち込んだ李朝白磁に魅せられ、その後生涯で21回朝鮮半島を訪れました。現地で淺川伯教の弟淺川巧とともに朝鮮古陶磁をはじめ、民具、雑器などの調査収集活動を行ない、そのことがのちの民藝運動の原点となりました。古陶磁器収集に手持ち資産の大部分をつぎ込んだといわれてます。
その当時、朝鮮陶磁器といえば、「高麗青磁」が殆どで、「李朝陶磁」などに目を向ける人は殆どなく、
専門家たちからも、「堕落した陶器」と呼ばれていたそうです。
そこで、柳宗悦の力になったのが、先の淺川伯教の弟巧でした。
淺川巧は、当時の朝鮮に在住し、朝鮮の言語を話し、同じ服を着て、家でも朝鮮風の生活をしていたそうです。
当時の朝鮮といえば、日本に植民地支配されていた状況で、この国では稀有な日本人だったのです。
その淺川巧と肝胆相照らし合うことによって、李朝陶磁器の収集も進み、更には巧の発案によって、
朝鮮美術館構想が生み出され、1924年(大正13年)美術館開館の運びとなります。
しかし、1931年、巧急死、40歳でした。
宗悦の河井寛次郎に宛てた手紙に、「片腕をもぎ取られた思い」と痛切な叫びが見られます。


http://www2.manabi.pref.yamanashi.jp/center/hakuji/shiryokan.pdf 浅川伯教・巧兄弟資料館

 コーヒーブレイク 野田隆稔先生の史話集より
 
【韓国文化を守った浅川伯教・巧兄弟】

 《生い立ち》
 淺川伯教(のりたか)は1884(明治17)年、山梨県北巨摩郡甲村五丁田(平成の大合併で北杜市)に、父如作、母けいの間の第一子として生まれました。その7年後の1891(明治24)年1月、巧は生まれました。父如作は巧が生まれる半年前に、31歳の若さで病死しますが、巧には7歳上の兄伯教と4歳上の姉栄がいます。母けいが女手一つで家を守り、3人の子どもたちを育てました。
彼らが生まれた巨摩郡は甲斐駒(馬)の産地であったところから、つけられたといわれていますが、「こま」とつく地名は朝鮮半島の人々(主に高句麗から来た人)が住み着いた場所だといわれています。高麗、駒、狛の付く地名はそれに当たるといわれています。
母方の祖父千野真道が「巨摩郡は高麗人の住んだ所で巨麻と呼ばれた。我々には遠い祖先の血が流れている。高麗人の血が」と語ったことが『白磁の人』の中に書かれていますが、巨摩は高麗人の住みついたところと考えてもいいかもしれません。
(中略)
 師範学校に入学すると、キリスト教に入信します。母方の祖父千野真道が神官であったことからすれば、神道と正反対なキリスト教に帰依することは奇異な感じがします。伯教の影響を受けてやがて巧も入信します。キリスト教の影響は彼ら兄弟が差別なく朝鮮の人々に接することに現れています。

 1906年、師範を出た伯教は小学校の教師としての生活を始めます。1910年、この年は日韓併合があった年ですし、大逆事件が起きた年でもあります。日本が帝国主義に大きく踏み込んだ年でしたが、一方では『白樺』が創刊され、理想主義運動が動き出し、大正デモクラシーの胎動につながる年でもありました。伯教は『白樺』を購読し、白樺派に近づいていきます。1912年、ロダンに傾倒していた伯教は彫刻を習い始めます。

 一方、巧は1906年、山梨県立龍王農林学校に入学し、甲府市郊外で、教職に就いた兄の伯教と同居を始めます。伯教の影響を受けてキリスト教や白樺派に傾倒していきます。

 《兄弟、朝鮮に渡る》 

 1913年、伯教は朝鮮の美術品の研究をしたいため、母けいと共に朝鮮に渡ります。

 その年、伯教は三枝たか代と結婚します。たか代は梨花女子専門学校と淑明女学校で英語の講師をして、生活を支えます。
伯教は教師をしながら、彫刻の制作(1920年、『木履の人』が帝展=現在の日展に入選します)に当たる一方、その当時、見向きもされなかった朝鮮白磁に注目し、研究を始めます。

 兄を敬慕し、その影響を強く受けている巧も朝鮮行を決意します。1914年、大館の営林署を辞め、朝鮮に渡ります。伯教や巧のような資格を持っている者は専門分野の職にすぐ就けます。巧は5月に朝鮮に渡り、7月には朝鮮総督府農商工部山林課に就職し、朝鮮国内の植林業務に従事します。

 巧が山林課に就職した当時の朝鮮の山は乱伐され、はげ山状態に荒れていました。清やロシアによって乱伐されたといわれていますが、日本がそれに輪をかけました。1908年、統監府の管理下にある韓国政府に「森林法」を公布させ、持ち主がわからない山を「無主公山」として国有化させ、それを日韓併合後総督府のものにし、日本人や親日派の朝鮮人地主に分け与え、軍用材の供給地にして山林を乱伐したのです。これは林野の入会権を農民から奪い、農民を疲弊に追い込むことになりました。

 日韓併合後の1910年、総督府は土地調査事業を行い、朝鮮の農民から土地を収奪していきますが、そのモデルは森林法にあったといえます。

 巧は朝鮮に住むためには朝鮮語を覚えることが必要だと考え、山林課の朝鮮人雇員から朝鮮語を習います。3ヶ月でほぼものにしたといわれています。

  『白磁の人』では朝田政歳妹みつえとなっています。年齢も3歳下になっています。『白磁の人』と『朝鮮の土となった日本人』に食い違いがあるのは気になりますが、ここでは指摘するだけに留めて置きます。本文は高崎説で書きました。

  柳宗悦(むねよし1889~1961)は白樺派で、民芸運動を起こした人と知られていますが、高校の日本史で、「柳は三.一独立運動で『反抗するも彼らより一層愚かなのは圧迫する吾々である』と、日本の朝鮮支配を批判した数少ない日本人だ。京城において道路拡張のために景福宮(キョンポックン)の光化門(クァンファムン)が取り壊されようとしたとき、これに反対し、移築保存させた人だ」ということを習いました。光化門がなんであるかさえ解りませんでしたが、良心的な日本人がいるものだと思ったことを覚えています。柳の朝鮮文化保護に影響を与えたのが淺川兄弟だったのです。

 1917年、巧とみつ江の間に、長女園絵が生まれました。
 巧が発明した養苗法に「露天埋蔵法」というのがあります。採集したその山の中に自然の状態をつくって埋め、翌年の春、種子を掘り出して苗床に蒔くというもので、当時としては世界的な発明であったといわれます。巧はそれを幾つかの論文に残しています。巧は朝鮮文化の保護者として名を残していますが、このように科学者としても業績を残しています。

 順風満帆の巧の人生に不幸が見舞います。妻のみつ江は園絵を生んだ後、体調がすぐれず、甲府で療養していましたが、1921年、薬石効なく亡くなります。葬儀のあと、園絵を淺川政歳に預けて、朝鮮へ一人で戻りました。
巧は失意の中、山の植林に力をいれながらも、柳が提案した「朝鮮民族美術館」の設立の準備に当たります。仕事の面では充実していたけれど、精神的には一番辛いときでした。



 伯教は学校を辞め、朝鮮陶磁の窯場の調査に全力を尽くします。彼の研究で、朝鮮陶磁の歴史が明らかになっていきます。さらに、高麗青磁を復活させるために、朝鮮人の陶工たちを援助します。伯教の指導のもとにで、高麗青磁を復活させた人は池順鐸(チスンタク)で、韓国陶磁器界の巨匠といわれるようになります。

 韓国へ行くと、青磁が土産物として売られていますが、その基礎を伯教が作ったといっても過言ではありません。

 一人暮らしの巧に、再婚話を持ってきたのは柳でした。巧は再婚することはみつ江に申し訳ないという思いがありましたが、柳の「園絵さんをいつまで、預けておくのか、再婚して一緒に暮らしたらどうか」という説得に、子煩悩な巧は折れます。
 1923年、巧は大北咲子と京都で結婚し、園絵を連れて、京城に戻ります。園絵も咲子になれて、温かい家庭を取り戻します。しかし、またもや家庭に不幸が見舞います。咲子との間に生まれた次女が生後、数時間で亡くなったことです。

 巧は伯教が焼いてくれた小さな白磁の鉢に遺骸を入れ、白木の墓標に『天使の人形の墓』 と記し埋葬しました。

 次女の死産という痛手を抱えながら、巧は林業試験所の仕事をし、休日を利用して、陶磁器の研究を続けると共に、あらたに木工芸の美に魅かれ研究を始めます。巧は研究をするとき、チョゴリ・パジを着用し、達者な朝鮮語をしゃべりましたから、彼に接した朝鮮人の中には巧が日本人であることを知らない人もいました。

 支配民族として、朝鮮人を低く見ていた日本人でありながら、朝鮮人の視線で接する巧は朝鮮の人々の信頼を集めます。

 陶磁器の研究は『朝鮮陶磁名考』に、木工の研究は『朝鮮の膳』となって結実します。

 巧は生まれてから病気らしい病気はしたことがなく、健康に自信を持っていました。仕事、研究に睡眠時間を削って無理をします。


 1931(昭和6)年、その無理がたたって、風邪を引きます。「風邪くらいで、休むわけにはいかない」と一日休んだだけで林業試験場に出勤します。雨の中を歩き回り、風邪をこじらせてしまい、40度近い熱をだし倒れます。3月27日のことでした。医者から「急性肺炎」と診断されます。咲子の止めるのも聞かず、高熱をおして柳から依頼された『朝鮮茶碗』の原稿を書きあげます。これが絶筆になります。



 巧の症状は「峠を越えた」という医師の診断があり、病床に詰め掛けた人たちがほぉとした直後に急変します。意識が混濁する中、「責任がある・・・」と繰り返して叫んだといわれています。「何についての責任なのか」、試験場関係者は「未完の仕事」だと思ったかもしれないし、美術関係者は「巧の研究」かもしれないと思ったかもしれない。臨終の席にいた安部能成(ヨシシゲ。思想家、教育者。戦後の幣原内閣で文部大臣を務め「教育基本法の骨子」を作った)は「朝鮮とこの国の人たちへの責任だと感じた」と書いています。



 葬儀は4日、雨の中を、キリスト教の様式で行われました。柳たちの弔辞が読まれ、巧みの好きな賛美歌409番「やまじこえて ひとりゆけど 主の手にすがる 見はやすけし」が歌われました。巧は白いチョゴリ・パジを着て、重さ150キロの二重の棺に納められました。出棺のとき、巧の死を聞きつけた多くの朝鮮の人たちが見守りました。



 「彼の死が近く村々に知らされた時、人々は、群れをなして別れを告げに集まった。横たわる彼の亡躯を見て、慟哭した鮮人(侮蔑語ですが、原文通りにしました)がどんなに多かった事か。日鮮の反目が暗く流れてゐる朝鮮の現状では見られない場面であった。棺は申し出によって悉く鮮人に担がれて、清涼里から里門里の丘へと運ばれた。余りにも申し出の人が多く応じられない程であった。その日は激しい雨であった。途中の村人から棺を止めて祭をしたいとせがまれたのもその時である。彼は彼の愛した朝鮮服を着たまま、鮮人の共同墓地に葬られた。」(柳宗悦『淺川のこと』)という、柳の文にそのときの様子が見事に描かれています。



 参考文献 
 『白磁の人』江宮隆之 河出書房








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Last updated  2006.11.05 00:43:55
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