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ファピーの風の花

ファピーの風の花

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2006.11.16
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テーマ:韓国!(17288)
カテゴリ:カテゴリ未分類
朝鮮戦争勃発後に巻き込まれての悲劇と前後の心打たれる物語を、シルバー高知のメーリングリストで紹介された宮内治さんの作品を転載しました。
    
 千鶴子は一人娘である。明治から大正に元号が変わった1912年、高知市若松町で生をうけた。若松町の碑文には「父・徳治、母・はる」とある――。

 1919年、千鶴子が7歳の時、朝鮮総督府木浦市庁の役人だった父を頼って母・はるとともに海を渡った。暮らしは裕福だった。しかし、20歳の時、徳治が病で突然、他界した。はるは助産婦をしながら女手一つで千鶴子を育てた。

 母・はるは熱心なクリスチャンだった。その影響か、女学校を卒業した千鶴子は、教会の日曜学校でオルガンを弾くようになった。ある日、女学校時代の恩師から、「木浦の郊外で孤児院を経営している韓国の青年が日本語の先生を探している。行ってみてくれないか」と頼まれることがあった。

 それが尹到浩(ユン・チホ)との出会いだった。尹到浩はその孤児院の園長だった。千鶴子が訪ねると、尹到浩は遠くで作業をしている。背の低いやせた青年だった。丸坊主の頭に麦わら帽子をかぶり、わらじを履いて孤軍奮闘している。孤児院といっても、いまにも潰れそうなバラックである。障子も襖もない。殺風景な30畳ほどの部屋が一つあるばかりだった。むろん畳などあるはずはない。「かます」と呼ばれる穀物や石炭などを入れる粗末なむしろ袋が敷いてあるだけだった。

 千鶴子がとまどいがちに声をかけると、尹到浩がようやく振り向いた。その目は澄み、気力に溢れていた。千鶴子の胸は少しく高鳴った。

 その日から千鶴子の新しい生活が始まった。食うや食わずの40~50人の子どもたちの世話に明け暮れるのである。最初は笑顔を見せなかった孤児たちも、千鶴子の献身的な奉仕に次第に心を開き始めた。子どもたちは当然に、千鶴子に母親を求めた。千鶴子は園児たちにとってなくてはならない存在となっていった。

 それは尹到浩にとっても同様であった。ある日、尹到浩は千鶴子に言った。二人でこの子どもたちの親にならないか、と。尹らしい朴訥な口調であり、最初、千鶴子にはよくその意味がのみこめなかった。しかし尹の顔が、異様に赤い。千鶴子にも異存はなかった。

 しかし当時の日本人の朝鮮人に対する差別感情は根強く、二人の結婚には誰もが驚いた。ことに内地の親戚筋の反対の声は強かった。それでも二人は愛のほうを選んだ。1939(昭和14)年、尹が31歳、千鶴子が28歳の時だった。母・はるだけは千鶴子の気持ちをよく理解していた。千鶴子の手を取り、「神の前では日本人も朝鮮人もない。誰もが兄弟姉妹じゃきにね……」と、励ましてくれた。(つづく)
         
 電気もガスもない凄まじい新婚生活だった。勿論、米などはめったに口にできない。二人だけのことではない。到浩も千鶴子も既に何十人という子持ちなのである。そのうえに園の子どもたちは裸足で園舎を出入りするし、朝、顔を洗うことすら知らない。生活習慣などまったく身につけていないのである。

 千鶴子はまず、人間は規則正しく食事しなければいけないことから教え始めた。そして、食前には神に感謝の言葉を捧げ、顔や手を洗うことを教えた。園には風呂はない。近くの海に出かけて皆で体を洗った。夜は間仕切りのない部屋である。かますの上で雑魚寝をした。バラック建ての孤児院は何時、風で吹き飛ばされるかわからない……。

 それに子どもたちはますます増えていくのである。木浦の周辺には無数の島々があり、いずれも寒村である。食いっぱずれた親たちが次々と捨て子のようにわが子を孤児園に託していく。尹到浩も千鶴子も決してそれを拒まなかった。

 それにしても園舎の改善は急務だった。尹到浩と千鶴子はつてを頼って総督府に窮状を訴え、やっとオンドルつきの2部屋が造築されるところまでこぎつけた。

 翌40年、長女・清美(チョンミ)、42年には長男・基(ギ)が誕生した。千鶴子はわが子と孤児を分け隔てはしなかった。実子たちも皆、園中で育てられた。

 45年、終戦。36年にも及ぶ日本占領から解放され、南朝鮮は独立して大韓民国となった。立場の逆転である。千鶴子は「このまま韓国にとどまりたい」と願ったが、世情はそれを許さなかった。千鶴子や母・はるはやはり旧支配者の日本人であるのだ。悩みぬいた末、千鶴子は夫や園の子どもたちに別れを告げて、年老いた母・はると一旦、日本に帰ることにした。

 千鶴子のお腹には三人目の子が宿っていた。辛い、切ない別れだった……。

 故郷である高知市も惨状を極めていた。戦禍に加えて南海大震災の追撃。気丈な土佐ッ子も「この世に神も仏もないか」と嘆いたものだった。しかし千鶴子には、日本占領下の朝鮮の暮らしに比べればなにほどのことかと思えた。物がなければないで何とかなる。それな皆、何とか食えるのである。帰るべき故郷、家もある。高知で親類や近所の温情にもすいぶん触れた。しかし千鶴子には、夫や園の子どもたちのことが何よりも辛かった。

 日に日に大きくなるわが腹を見つめながら、やがて千鶴子は強く決意するのである。この子を生んだら、私は木浦に帰るんだ、と……。

47年、三人目の子を携えて千鶴子は再び木浦共生園の門前に立った。一年余の空白だった。目ざとい子が千鶴子を見つけた。「オモニが帰ってきた!」と叫び、園児たちは三々五々に数を増して、そこら中を駆け回った。やがて尹到浩が出迎えた。到浩は「千鶴子さん……」と、唸るように言った。後は言葉にならな
かった。今度は、千鶴子が言った。「私、今日から尹鶴子(ユン・ハクジャ)と名乗るわ……」尹到浩は眼を潤ませながら、しっかりと千鶴子の手を握りしめた。周囲では無数の子どもたちが眼を輝かしていた。

 しかし当時の韓国人の反日感情は殺気すら帯びていた。ある日、この木浦共生園にも暴徒たちはやってきた。「倭奴(ウエノム)をぶっ殺せ!」――
 尹到浩は「話せばわかる」と皆を諫めようとする。しかし、なかなか治まらない。千鶴子は恐怖に青ざめた。すると、園の子どもたちが暴徒たちの前に立ちはだかるように千鶴子を取り囲んだ。「僕たちのオモニに何をするんだ!」 千鶴子は思った。この子たちのためなら、いつでも命を捨てられる……。

 終戦から数年がたち、村人の暮らしもやや落ち着きを取り戻し始めた。村人たちも次第に千鶴子たちに心を開くようになった。木浦共生園が二十周年を迎えた年に、待望の講堂が完成した。その記念に、と村人たちがりっぱな記念碑までを建ててくれた。尹夫婦の長年の労苦がようやく実を結びつつあるかにみえた。

 ところが、1950(昭和25)年6月25日、朝鮮戦争が勃発するのである。北朝鮮軍が突然38度線を突破して南下してきた。それは破竹の勢いであり、瞬く間に全羅南道にある木浦も席巻された。北朝鮮軍は日本人や日本への協力者を極端に嫌った。あちこちの町や村で「人民裁判」が行われるようになった。やがて北朝鮮軍が木浦共生園にも立ち現れた。千鶴子も銃口の前に立たされることになった。さすがの千鶴子も覚悟を決めた。日本がこの国にしてきたことを思えば……。

 夫の尹もクリスチャンである。共産軍に決して好まれてはいない。千鶴子を処刑するならば自分を先にしろ、と北の将校に迫った。と、そのとき、ユン・ハクジャは無罪だ、と叫んだ一人の村人がいた。「ユン・ハクジャはわれわれ貧民の仲間だ!」周りの村人たちも叫んだ。「そうだ! そうだ! もっと悪い奴をやれ!」 千鶴子は再び人々の愛に救われた――。「あの時、千鶴子は死んだのよ!」と、後に高知の親類の一人に語っている。彼女はこの時、一生を孤児たちに捧げると心に誓った。2004.7.2高新、伝えたい土佐の100人、言葉その言葉より、

 だが、それは束の間の平穏だった。翌51年1月、食糧の調達に出かけた尹が行方不明になってしまったのだ。北朝鮮軍に拉致されたのでは、との噂も流れた。ともかくも、尹はそれっきり木浦共生園に帰ってはこなかった。
 
 53年になって、やっと停戦になった。園の子どもたちも500人にふくれあがっていた。千鶴子自身にも四人の子がいた。周囲の人々は、けなげな千鶴子に心から勧めた。「子どもを連れて日本へ帰りなさい」。しかし、千鶴子は微動だにしなかった。「夫の20年の仕事、この木浦共生園は私の命なのだ」、と。

 千鶴子は子どもたちだけにはひもじい思いをさせたくなかった。リヤカーを引き、村人たちの家々を漬け物や残飯をもらい歩いた。詐欺師にだまされて園を乗っ取られそうになったこともあった。そのたび、千鶴子は果敢に闘った。子どもたちはそうした千鶴子をよく見ていた。大きな子は街で靴磨きなどをして園の会計を助けた。                     
 
 63年、千鶴子は韓国政府から文化勲章を授与された。65年には日韓国交が回復した。ようやく歴史に吹く風は南風になった。孤児たちの将来を憂う千鶴子は、かねてからの腹案であった職業訓練学校の設立に動いた。西走東奔し始めた。このとき彼女は「夫が帰るときまでと思い、園を守ってきただけ。苦労は子供たちがしました」と答えている、2004.7.2伝えたい土佐の100人、その言葉より

 しかし、長年の辛苦は千鶴子の体を確実に蝕んでいた。やがて千鶴子は病に倒れてしまうのである。千鶴子は「自分のために高い治療費をかけるのはだめよ。そのお金を園の子どもたちの進学資金に使いなさい」と、諄いほど指示していたという。

 皆の祈りもむなしく千鶴子の病状は悪化するばかりだった。やがて千鶴子は死を覚悟して木浦共生園に戻ってきた。周囲にとってそれは哀しい帰園だった。その10日後、愛しい子どもたちに取り囲まれながら'''千鶴子は静かに息をひきとった。1968(昭和31)年10月31日、奇しくも千鶴子57歳の誕生日だった――。

 悲報は韓国全国を駆けめぐった。国中に散らばった卒園生たちは号泣した。木浦市は初の市民葬とすることを決定した。葬儀には韓国全土から3万人が参列した。その日を、地元紙は、「木浦は泣いた」と報じた。'''


77年、千鶴子の長年の夢だった職業訓練学校がソウルに完成した。これまでたくさんの人材を世界各地に送り出している。韓国・木浦共生園は、長女・清美が引き継いだ。いまは孫にあたる妙齢の女性が園長を務められている。

 また、「梅干しが食べたい」と、死の床でうわごとを言った母の思い(生涯を閉じた56才の誕生日を迎えた日かすかな声で、夫の行方が分からなくなってから、韓国では一度も口にしたことのない日本語であった;2004.7.2高新、伝えた土佐の100人、その言葉より)を知る長男・基(ギ)は、大阪で在日同胞のために、キムチが食べられる老人ホームをつくった。尹到浩と千鶴子の遺志はこうして二人の子どもたちや孫たちに受け継がれている。

なお、標題とした「愛の黙示録」は95年に完成した日韓合作の初めての映画の題である。監督は金洙容(キム・スヨン)。千鶴子の長男・尹基(ユン・ギ)原作の伝記を中島丈博が脚本化し、千鶴子役を石田ゆり、尹到浩役を吉用祐(キム・ヨンウ)が熱演している。


「黙示録」とは、「新約聖書巻末の一書。小アジアで迫害されているキリスト教徒を慰藉、激励し、キリストの再来、神の国の到来と地上の王国の滅亡とを叙述。ヨハネ黙示録。ほかに、正典に属さないユダヤ教・キリスト教の黙示録的な類書がある」と辞書にある。





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Last updated  2006.11.17 09:56:35
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