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ファピーの風の花

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2007.01.09
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テーマ:韓国!(17170)
差別とハンセン病 ハンセン病と朝鮮と言う二重の差別


朝鮮半島のハンセン病医院、ソロッド(小鹿島)病院


1910年、日本による植民地から6年後、 朝鮮半島で一番古く、そして今も韓国一の規模を誇る国立ハンセン病々院、ソロッド(小鹿島)が全羅南道のコソン郡にある。


8年前、韓国の衛星放送から、韓国の五木ひろし「ナフンナ(羅勲児)のソロッド・コンサート」が番組で放映されていた。
何気なく、見てた私、その数分後に、自分の無能さに頭をハンマーで叩かれた思いがした。

1、韓国の演歌を”トロット”と言います。私はこの”トロット”と、ハンセン病施設がある島の”ソロット”を知らずに、錯覚していた。
2、韓国のトップスターが”慰問”コンサートをこうして大々的に毎年、してる事すら知らなかった。
3、韓国のハンセン病の歴史や実態を何一つ、知らなかったし、それどころか知ろうとしていなかった。

この事実にも、日本との歴史的な繋がりがあります。
詳細については語れませんが、一応、概略だけでも書いて見ます。

ソロッド官報
面会境界線
 1916年、日本人が小鹿島を尋ねて来て今収容所一帯の家屋と土地を買収する話を住民たちに切り出す。
しかし先祖代々伝われた土地を住民が素直に出すわけはずがなく、交渉は暗礁に乗り上げてしまう。


両方は身振りと筆談などで数日妥協を試みたがお互いは少しも譲歩をなかったまま数日が流れる。
結局には日本側の、ありとあらゆる懐柔と説得、そして強制手段によって一部住民たちが家屋と土地を手放して土地を去るようになる。



こうして、小鹿島慈恵医院は 、1916年 2月 24日付け朝鮮総督府令第7号によって設立され、同年 7月 10日付けで有川院長を初代院長に任命する事で今日の小鹿島の歴史が始まる。

院生たちの労働と受難 面会の境界線

有川院長は赴任後、直ちに仮建物に慈恵医院と言う看板をかけてすでに朝鮮総督府で作られた設計図によって建築工事を進めてゆく。
治療院、職員官舎、事務本館、礼拝堂、兵舎、風呂場、炊事場などを竣工させて、1917年 5月 17日には開院式を行ない、この日から今日まで約90年に及ぶ小鹿島のハンセン氏病患者の苦難の歴史が始まる。



すべての生活様式を日本式で強要する初代、花井院長




初代院長の有川は各地域で召集されて来た患者たちを男女に分けそれぞれ収容、問題は、日常のずべての生活様式を日本式に強要した事だ。

着て来た韓服を皆、脱がせて日本の着物に着替えさせ、食器やおかずまで日本食に変えてしまいます。韓国の食事をしてた人間が、ある日を境に、突然、ご飯と沢庵のみの食事を強要されたのだ。

有川院長の方針は規制と原則。夕方 8時になると通行止めで隣りの房にも行くことができず、就寝前には必ず、入院点呼が実施され、毎月暗誦しなければならない 27項目の心得の第 1項には「この医院は天皇陛下の大きなお心による寄付により設立しされ、治療費はもちろん衣食住に至るまで、その他一切、日本国政府によって支給される。入院患者はいつも、この恩を忘れてはならない」を繰り返し繰り返し暗誦させらる。


あまりにも厳格な統制に耐えてかねた患者たちがちょっと目こぼしをして欲しいと再三建議したが院長は一蹴してしまって、個人の自由すら与えない規則生活を強要した。



在任 5年 11ヶ月続いた有川氏の後を引き継いだのが 1921年 6月 23日付けで第2代院長に赴任した花井 善吉氏だ。.


日本式様式を変える二代目、花井院長




しかし,6000人の入所者と200人の職員の信望を得て、人権の人、韓国ハンセン病のシュバイツアと言われた、花井院長は在任10年で殉職という無念の死を遂げる。



彼の彰徳碑(顕彰碑)が、今も慈恵医院のそばに建てられている。花井院長の人徳と威徳を後世まで称えようというものだ。

花井院長の在任第一声は

「今までの、日本式生活様式を廃止する!」だった。この言葉に院生たちは歓喜した。


花井院長は

患者たちに対して、両親の様に対して少しでも患者たちの生活環境を良くしようと全国を奔走した。「患者に少しでも多く食べさせ、着飾っってもらい、親切に接すれば、彼らは優しい羊になる。万が一にでも院生に対して凶暴な対応をしたり、殴るものがいれば、理由のいかんを問わず罷兔措置をとる」と断言した。


部下の職員に対しては、このように厳格に訓戒して職員と患者間の融和に最善をつくした。たと些細な事にも情熱を注ぎ、数多くのエピソードの積み重ねで患者たちの信頼と愛を勝ち取った。



公務でソウルを行って帰るときには、必ず飴を束で買って来て「私は何時も食べてるから、君逹が気になって、これをれを買って来たから、父さんの贈り物と思い、皆で美味しく分けて食べなさい」と分け与えてくれたと、院生達が感激の涙を流したりしたと伝えれれている。



ある日、天皇から菊のご紋の入ったお菓子を下賜を受け、一人で食べることができないと知るや、それを粉に戻して大きいお菓子を作って多くの患者に、すべて等しく分けたといわれています。


花井の制度改善の一部を取り上げて見てみよう。

実家との通信を自由に許可する(それまでは、一切の音信を許されなかった)

家族との面会を自由に許容(感染と外部への流言の遮断を口実に院外者との一切の面会を禁止されていた)

治療中でも用事があれば本家訪問許容(院外はおろか、入所すれば、一生、家族とは今生の別れとされていた)

すべての患者各種信仰の自由(院生はキリスト信教しか許されなかった)


90年に及ぶ、朝鮮半島のハンセン病医院の歴史や背景を安易に語る気は無い、ここで日本のハンセン病と同じ施策が朝鮮半島でも行われた事実と、その背景に、日本による植民地政策が二重に重なった事を上辺だけですが



知ってもらえればと思っています。



しかし、その中で、韓国のハンセン病のシュバイツアと言われ、尊敬され、献身的な治療の中、過労で殉死した日本人、花井院長の存在を知ってもらえれば思います。



小鹿島病院生活資料館 http://www.eonet.ne.jp/~yokati/siryoukan/sorokuto%20siryousitu.htm
小鹿島病院公式HP(韓国語)http://www.sorokdo.go.kr/



「朝鮮ハンセン病史 日本植民地下の小鹿島」滝尾英二著  未来社(日本)  
    








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Last updated  2007.01.14 11:38:22
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