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ファピーの風の花

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2007.01.10
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カテゴリ:社会活動
差別とハンセン病【2】

http://www.geocities.jp/furusatohp/panerurten/rekisi0.html
滝尾さんのブログです。【連載】日本近現代ハンセン病史の考察
http://takio.cocolog-nifty.com/rensai/2006/11/07_5d1d.html http://takio.cocolog-nifty.com/kokoro/2005/09/__af6b.html

写真の多くは高松宮記念ハンセン病資料館と国立駿河療養所から許可を頂いて借用したものです。
WEB上での転用を防ぐ為にあえて画像は小さく粗く表示しています。ご了承下さい。


(詳細説明へ) 日本の歴史にみるハンセン病者
720年の日本書紀に「癩(らい)」の言葉が登場。12世紀頃から仏教の業病、天刑病と考えられる。鎌倉時代に叡尊と忍性(律宗の僧侶が)救済。江戸時代、神社の参道や仏閣の門前などでの物乞いが主で、遺伝病だという迷信が広まる。
明治時代には「らい菌」の発見により「うつる病気である」と認識し、次第に排除し始める。


(詳細説明へ) 法律第11号(癩予防ニ関スル件)
1907(明治40)年に制定、1909年施行。外国人から政府の無策(浮浪・物乞い)に非難の声が上がり、国の恥=国辱と考えた政府は、文明国を自負する体面上の理由から、放浪徘徊する患者を取り締って隔離収容(全国5か所に療養所設置)し、街頭を浄化する政策を実施。隔離を進めるために、感染
力が弱いにもかかわらず、コレラや天然痘なみの恐ろしい伝染病であると強調して国民に恐怖心を植えつけた。




(詳細説明へ) 収 容
最初は内務省の管轄で警察官が厳しい取締り(むりやり運搬車の荷台に放り込む、農作業中に連行など、家族と別れの言葉も交わせない状況)で患者を収容。収容先は療養所とは名ばかりで、職員は刑務所の看守のように巡回・監視し、秩序維持と称した暴力制裁が日常的に行われ、通信や面会の自由もなく、粗
末な医療を除けば監獄と同様でした。


園内通用券

園券、園内通貨、園金とも呼ばれる、療養所内のみで使用できた通貨のこと。戦後ま間もない頃まで、日本銀行券の使用は許されず、入所時の所持金や家族からの送金は、園側に「保管金」として取り上げら、代わりに園内だけで通用する金を、施設の決めた額だけ渡されました。入所者から自由に使える金銭を奪いあげた逃走防止の手段でした。



懲戒検束権と監房

満足な治療も受けられず囚人扱いされた入所者は、待遇を不満として職員と衝突。1916年、反抗を押さえ込む目的で法律を改正し、療養所長に懲戒検束権をあたえ、各療養所に監禁室=監房を設置。1931年、更に厳しくした「懲戒検束規定」 を公布。いっさい一切の司法手続きによらず、所長の一存(
食事への不平、草木の伐採だけ)で監房へ。入所者の被害は、際限のないものに。



癩予防法の成立

法律第11条施行から22年たった1931年4月、前法を強化改定したらい癩予防法が公布され、隔離対象が放浪・漂泊する患者から全てのハンセン病患者に拡げられました。公立の療養所は国立に移管。軍国主義の下にハンセン病患者は病気を蔓延させる非国民だとみなされ、終生絶対隔離して国力の衰退を
防ごうという優生思想・社会防衛論がありました。



無癩県運動(むらいけん うんどう)

強制隔離と根絶のために鳥取県、山口県、愛知県などが先進県となって全国を巻き込んでの患者狩りを官民一体で推進(密告.強制検診.警察による山狩りなど)。患者を収容する際、本人・家族・住まいまで徹底的にしょうどく消毒され、「らい」の誤った恐怖から、患者も家族も村八分や一家離散、商売の廃
業、破談など、さまざまな差別を受ける結果となりました。


(詳細説明へ) 患者作業
療養所の予算不足の施設運営のための入所者作業。重症患者の看護、病室付添い、繃帯とガーゼ再生、清掃洗濯、配食、土木や大工、養豚、製茶に至るまでの作業が、重症者以外すべてに対して強制的に。重労働も多く、体調を崩して病状が進み、手足の指を磨滅したり、失明に至るなどの重症におちいる入所者
が続出。患者運動によって改善、廃止されたのは1960年代。


(詳細説明へ) 療養所の子どもたち
隔離収容に年齢は関係なく、療養所内に少年舎、少女舎を設置、住環境は悪く6畳に最高5人が寝起。形ばかりの学校での勉強の一方で、大人同様に患者作業も強制され「ガーゼのばし」は、病身の子どもには重労働でした。昭和初期から軍事教練や厳しさを増した患者作業が続き、戦争末期は極度の飢えなどに
よって病気を悪化させ、多くの子どもたちが亡くなっていきました。


(詳細説明へ) 療養所での治療
療養での治療や看護、不自由者介護は重要でしたが、医師や看護婦、医薬品の慢性的な不足のため、命にかかわる状態にならない限り病人として扱われず。病室のベッドは通路側に患者の頭がくるように並べられ(看護婦が患者の間を回り込まずにすむ)、医師は急患でない限り病室の診察はせず、診察にきた時
も玄関からさきには入らずに患者を運び出させて治療しました。


(詳細説明へ) 隔離政策の象徴-光田健輔
1876年山口県生まれ。医師。ハンセン病政策の中心人物で、1898年東京養育院に勤務以来60年間一貫して隔離政策を推進。早くから伝染の恐怖を語り続け、1902年に刊行した「癩病隔離必要論」が後の政府の政策を方向づ付けた。1909年東京の全生病院の院長に就任、1914年には「孤島隔離論
」、翌年には断種手術を実行。懲戒検束権につながる懲罰権も提案。


「人間」を診た医師-小笠原登
1888年生まれ。医学者。絶対隔離の非科学性、非人道性批判した数少ない医師の一人。1926年から京都帝国大学医学部でハンセン病治療にあたり、微弱な感染力で重症でない限り、家庭で治療できるとして、強制隔離に反対し、断種も根拠がないと断言。しかし、強制隔離を推進する日本らい学会主流派
は徹底的に攻撃、小笠原の学説を一方的に封じ込めた。彼の正しさは、その後の時代が証明。


(詳細説明へ) ワゼクトミー
男性の生殖能力をなくす断種手術。ハンセン病は感染症であったが、東京・全生病院の1915年を皮切りに、全国で患者を根絶して子孫を残さない措置が行われた。断種は、人間の誇りと子孫という未来を奪う行為でしたが、1940年「国民優生法」では拡大解釈され、1948年「優生保護法」は断種対象
にハンセン病患者を明記。1996年にらい予防法が廃止されるまで合法でした。


(詳細説明へ)
関連ページ 重監房跡

草津の「重監房」

1938年、群馬県.栗生楽泉園に作られた特別病室入口は鉄扉、わずかな明かり窓だけの建物で、各療養所が特に重い懲罰をかけるべきと判断した患者(当局に反抗する管理上"ふつごう不都合な"患者)が送りこまれる「重監房」(コンクリート床、極端に少ない食事、冬は零下20度に達し部屋中が凍りつく)
でした。人権侵害が明るみにでての廃止(1947年)までに92人中、死亡22人。「草津へ行くか」という所長の一言は「死」を意味した。


(詳細説明へ) 本妙寺「らい部落」潰滅
熊本市の本妙寺は古くからハンセン病患者の信仰を集め、次第に集落を形成。1940年7月9日午前5時、県警察署員ら207名で部落を急襲、11日までに118名の患者を検挙。追い立てて路上で検診し、トラックの荷台に押し込み、住居は取り壊され部落は消滅。役員とみなされた9人は法的手続きもな
く栗生楽泉園の重監房に57日間拘留。患者への迫害そのものでした。








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Last updated  2007.01.14 11:44:33
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