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ファピーの風の花

ファピーの風の花

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2007.01.17
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カテゴリ:社会活動
1995年、1月16日、得意先のゴルフコンペは京都の亀岡C.C。降り続いた雪の中、雪かきをして2時間遅れのスタート。車にチェーンを巻いて家にたどり着いたのは夜の11時を過ぎていました。
疲れ果てて、そのままリビングで寝入った明け方の5時46分、あの忌まわしい阪神大震災。中層階に住む私は揺れに飛び起き、奥の部屋で恐怖に泣き叫ぶ子供たちをなだめ、上の階で寝ている母を見に行くと、32インチのTVはベッドの横に2Mくらい飛び、棚の食器類は粉々に飛び散っていました。
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神戸から遠く離れた大阪市内でも、我が家は地震帯が走っている真上だったみたいです。
TVニュースを食い入る様に見つめ一喜一憂していたのを昨日の様に思い出します。
あれから早、12年がたちました。

娘の命の恩人である担当医が年老いた父親と一緒に暮らす住まいが倒壊したとの連絡を受け、翌日には原チャリに救援物資を満載して一路、神戸に向かいました。1時間で到着する距離が4時間、大渋滞で車は、ほとんど動かない状況でした。寒ささえ我慢すれば、お得意のゴキブリ運転で「前に前に、二輪は走る」でした。

しかし、歩道を走り、交通規制を無視し、道端の左右に横たわって毛布をかけられた死体の中を涙を堪えながら走り続けました。

神戸に向かう途中、瓦礫のカケラで何度もパンクしましたが、被災者の方が、自分の事はさておき、救援物資を運ぶ私たちに「水しかないけど飲んでゆきなさい、家のバイクを乗って行きなさい。帰ってくるまでパンクを直しておいてあげるよ。」と、暖かい言葉と眼差しでサポートしてくださいました。
この時「人間ってすごいな~。この国って、ままだだ捨てたもんじゃ無いな~。」と感動しました。まさに、この日が私の「ボランティア元年」の始まりでした。

しかし、途方にくれる先生に向かって「がんばってください!」と声をかけるのが精一杯でした。

その日を契機に、翌日からの私はエンジン全開!
被災地神戸の西の端、須磨に住む高校時代の同級生の家屋が全壊、娘さんが24時間ぶりに生き埋め現場か救出されたとTVで報道されていました。それを見て、即座に同窓生に連絡をとり、カンパを募り近くの米屋さんの原チャリ借りて友人と二人で単車を連ねて走りました。夜の気温は3度、単車で費やした時間は片道、8時間でした。
行く前に何人かの友人が「須磨まではまだ、救援物資が届いてない。避難所で取り合いに成るよ、やめたら!」と老婆心か行かない言い訳か、私に注意を促しましたが「昨日、神戸まで行ったけど、人間って、そんな馬鹿じゃないよ」と走り出しました。

清酒の産地、灘では倒壊した清酒の桶からあふれ出した酒の臭い、六甲では埋め立て地盤の泥の悪臭。長田ではゴムの臭いが鼻を刺し、
三宮からは警察官が仁王立ちになって「ここから先は、事故、事件が起こっても責任はとらないよ」と静制止する中を突っ切って走りました。まるで街中がモトクロスコースの様でした。

灘では倒壊の下敷きになって亡くなった人の死体、長田では火災で焼けた死骸は今も目に焼きついています。

へとへとになり到着した時、友人の家族が皆、抱き合って生きてる喜びを、瓦礫の中を予期せぬ?友人が救援物資を持って来てくれた感謝の気持ちを全身で表し喜んでくれました。
その時、ボランティアって、使命感では無く「ただ、喜ぶんでくれる笑顔に出会い、そして、その人たちに力と勇気を与えてもらうんだ」と、自分なりに答えを出せた一瞬でもありました。

お腹はペコペコ、喉はカラカラ、救援物資を50CCのバイクに2m以上積み上げ、長靴、スコップ、防寒着、下着、水の要らないシャンプー、自分たちの食べる食糧を持てくるのを忘れていました。そんな私たちを見て、日に3個のおにぎりとインスタントの味噌汁だけの配給で飢えをしのいでる食事の中から、おにぎりをひとつ、そして温かい味噌汁を私たちに「さー食べて」と笑ってくれた友人の家族と泣きながら食べた味は今も、忘れることは出来ません。

こんな優しい、人間、極限状態になっても人を思いやることが出来るこの社会、そして何度か通う内に、出会った多くの人々、そして、神戸に暮らす身内が身を寄せる東神戸初中級学校には約150人が避難して、そのうち約100人は近所の日本の人でした。建物は倒壊の危険があり、人々は学校のマイクロバスや校庭のテントで夜を過ごしてました。日本人、朝鮮人が協力しあい、分け合い、助け合って、互いの生命を守った姿に感動させられました。間違いなく、関東大震災とは違った新しい光景だったろうと思います。

そして、週末毎に通院するクリニックの横にある、伊丹市の昆陽池公園では、阪神大震災で亡くなられた6,434人の犠牲を追悼するため、震災発生12時間前の16日午後5時46分から「追悼の集い」がありました。小雨の中、犠牲者と同じ数のろうそくに火がともります。今年も約300人が祈りをささげていました。


阪神淡路大震災

1995年1月17日 5:46、阪神地方六甲山地南側の断層のずれから起こった地震は、阪急電車や阪神高速道路の高架を横倒しにし、数多くの建物を壊滅させました。また、昼までに神戸市内では多くの火災が発生し、大きな被害をもたらしました。圧死・焼死あわせて死者は6400人にのぼります。


関東大震災との違い

地震の直後から、人々はパニックにおちいることなく、隣近所で助け合ってがれきの下に残された人々を掘り出し、飲み水を確保し、乏しい食糧を分け合ってその夜を迎えました。そこはさながら戦場のようでした。


(自衛隊の部隊出動は遅れました。伊丹市の駐屯地からら最初武器を携行して神戸の王子公園に入った部隊は、やがてスコップなどの道具に持ちかえて任務を果たしました。)


翌日から、残されたスーパーや生協に人々は黙々と並んで必要なものを分け合って購入します。政府の対応が遅れ、県や市も十分に機能しない状況の中で、人々はみずからの手で助け合い、その様子を見て、全国からボランティアが駆けつけたのです。小中学校や公園の避難所に設けられたトイレの整備清掃が大切な仕事の一つでした。

この年は、日本の「ボランティア元年」と呼ばれることになりました。 神戸は港町ですから、元来外国人も多く住む国際的な土地柄です。しかし、これまでは、必ずしもそのことがプラスの点として十分認識されてきたとは言えません。被害を受けた朝鮮人も、マスコミ報道は昔のままの「通名」であったため、死傷者の確認や救援活動にも支障が出ました。ドイツ人学校や朝鮮人学校など外国人学校は、校舎が全壊しても「各種学校」扱いのため、元来何の補助金も受けられませんでした。(復興に際しては、多くの人の努力で特別に半額国庫補助が認められ、東神戸初中級学校も1998年に再建を 果たしました。)

日本語のよくわからない外国人は、震災の最初、全く情報が失われ、どれほど心細い思いをしたことでしょう。

現在神戸市は、外国人学校の存在こそ地域の財産 、プラスの点であることをしっかりと位置づけ、7カ国語によるFMラジオ局 も開設され、地域の中からの日本人と朝鮮人の連帯も広く根をおろしはじめています。


関東大震災

http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/41283630.html
http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/41178367.html



なら、何故、1923年の日本人による朝鮮人虐殺はなぜ起こったのでしょうか?



関東大震災は、1923年(大正11年)9月1日正午前、神奈川県沖相模湾海底でのプレートの動きを原因とする大地震が発生しました。

家屋11万戸が倒壊全壊し、東京ではその後、各所で大火災が発生して21万戸が焼失、特に、本所の被服廠跡地に避難していて焼死全滅した3万2千人をふくめ死者行方不明10万5千人を出す大災害となりました。

9月1日が防災記念日とされるのはそのためです。しかし、その日は朝鮮人虐殺の日でもあります。


「東京関東地方大震災惨害実況」
関東大震災
萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)
 後ろ手に縛られて連行される白衣のチョゴリを着た人々が描かれている。
この絵巻は、阪神淡路大震災で大きな被害を受けた神戸市内の家屋から発見されました。



何が起こったか

帝都東京が壊滅し大混乱におちいった9月1日の夜から、東京周辺では奇妙なうわさがささやかれはじめます。

「朝鮮人が暴動を起こして攻めてくる」「朝鮮人が放火し、井戸に毒を投げ込んでいる」。

翌日、「戒厳令」が布かれ、陸海軍が出動して京浜一帯を制圧、不安にかられた人々は歓呼の声をあげてこれを迎えます。その中で、各所で「朝鮮人狩り」が始まり、警察・軍隊によるもののほか、民間の自警団によって多くの朝鮮人が捕らえられ、殺されました。ほかに、中国人留学生や、日本人の労働運動家河合義虎・平沢計七が殺され、また、無政府主義者として知られていた大杉栄と伊藤野枝、その六歳の甥の三人が憲兵隊に連行され殺害された出来事は、「甘粕事件」として有名です。



なぜ起こったか

大混乱の集団パニック状態の中で人々がとほうもない流言飛語を信じてしまったということもありうることです。しかし、なぜそのようなことが起こったかを考えるためには、「韓国併合」条約は韓国皇帝の申し出を日本の天皇が受けるという形をとっていました、朝鮮側ではもとの皇帝以下誰一人として「武力に屈した」という以外の考えは持っていません。1910年の併合直後から設置が進められていた中国領間島(かんど。中朝国境の北側)の独立軍根拠地には、1919.3.1独立運動と上海での大韓民国臨時政府樹立にともなって、国内から続々と青年たちが結集し、独立軍は、ロシア革命によって生まれたコミンテルン(第3インターナショナル)とも連絡をとりながら 、1920年秋には国内進攻を目指すまでになり、春以来、朝鮮北部国境地帯では衝突が始まります。レキシントンの戦いはもう始まっていたのです。

当時ロシア革命に干渉して「シベリア出兵」中の日本は、まず、沿海州の朝鮮独立運動根拠地を破壊し、次いで、1920年10月、朝鮮駐屯軍、シベリア派遣軍、関東軍が合同して中国領に攻め込みます。これが、日本で「間島出兵」と呼ばれるもので、朝鮮独立軍は青山里の戦いで日本軍と激突し、日本側にも大きな損害を与えました。日本側の司令官は「敵兵力は5,000人にのぼり、機関銃を持っている」と報告しています。

このように、当時の大日本帝国は朝鮮との戦いを必死に続けており、他方、その実状は民衆には全く知らされず、逆に、「大正デモクラシー」の下でのマスコミ(新聞)が書き立てた、日本人に危害を及ぼす「不逞鮮人」のイメージが広められていきます。


1923年9月3日午前8時15分、

内務省警保局長は海軍船橋送信所から全国に無線で「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし…」と打電しました。
意図的に被害・混乱を朝鮮人のせいにし、大日本帝国の権力を誇示しようとしたのがその狙いと言われています。





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Last updated  2007.01.17 21:22:28
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