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韓国フィールド・ワーク(2)~日本軍「慰安婦」歴史館にて~
以下の報告文は、~「ナヌムの家」を訪ねて~という記事の続きになります。 まずは↓の記事をお読みいただければと思います。 http://blogs.yahoo.co.jp/olivia_elton_john_denver_70s/44542792.html <補足事項> この記事では、日本軍「慰安婦」が存在したのは事実か否か、何万人存在したのかといった論争を取り扱うわけではありません。あくまでも、一学生の私が、「ナヌムの家」を訪れ、ハルモニたちと対話をしたという経験を報告することが目的です。 その点をご理解いただければ幸いです。 ~(1)のつづき~ ビデオを見終わった私たちは、歴史研究員の村上さんの案内で、 「ナヌムの家」にある日本軍「慰安婦」歴史館を見学しました。 ◎日本軍「慰安婦」の存在はどのようにして明らかになったのか? 1991年8月14日、金学順(キム・ハクスン)ハルモニが、韓国で初めて、元「慰安婦」であると証言したことにより、慰安婦の存在が明らかになりました。(それまでは、元「慰安婦」たちは、戦後50年近くもの間、性奴隷の事実を、親戚や友人にすら隠して暮らしてきたのです。) これをきっかけに、元「慰安婦」のハルモニたち(といっても一部ですが)は、証言を始めました。そして、水曜デモと呼ばれる集会で、日本政府に謝罪と補償を求めていくことになります。 ※なお、「ナヌムの家」のハルモニたちの間では、「従軍慰安婦」という呼び名も、「性奴隷」という用語も、決して使用されません。ハルモニたちの多くは、「強制的に連れて行かれた」と証言しています。従軍カメラマンや従軍記者のように、自発的に軍に従ったのではないハルモニたちに対して、「従軍慰安婦」と私たちが呼ぶ行為は、はたして適切なのでしょうか。ハルモニたちの視点に立てば、問題のある行為でしょう。 さらに、国連などで使用されている「性奴隷(Sexual Slave)」という用語も、日本軍「慰安婦」の本質をよく表している言葉ではありますが、ハルモニたちからすれば、「奴隷」という言葉は、非常に屈辱的な言葉なので、「ナヌムの家」では使われていないそうです。 ◎ハルモニたちはどのようにして「慰安婦」にされたのか? ※下記は、歴史研究員の村上さんの案内のメモ書きを、文章化したものです。 1930年代、日中戦争下の日本軍は、抗日勢力の掃討作戦(三光作戦)を展開します。 この作戦では、食糧や物資は現地調達(視点を変えれば略奪行為)され、その結果、日本軍による強姦事件が多発しました。 そこで軍部は、(1)強姦事件を防ぐ、(2)反日感情を抑える、(3)性病を防ぐ といった理由から慰安所の建設に乗り出します。 (なお、当時の日本では、性売買は合法化されており、慰安婦は日本国内にも多数いました。 もちろん日本人の慰安婦も多数存在したわけです。これは当時の日本で、貧しい女性に対する性的搾取が、当然のように行なわれていたということでもあります。) しかしながら、戦線の慰安所には、朝鮮人女性が多く連れて行かれています。それはいったいどうしてなのでしょうか? 朝鮮人女性が多く連行されたのには、以下のような背景があったと分析されています。 1,朝鮮は日本の植民地であるため。 <男性は労働力、女性は性奴隷としての役割を強いられた。> 2,日本軍にとって、戦線の慰安所に日本人慰安婦を派遣することは不都合だから。 <国や故郷の女・子どもを守るために戦っている(と思わされている)軍人たちにとって、 日本人女性が「慰安婦」として目の前に現われることは、 士気や戦争の正当性を弱める行為になってしまうから。> 3,日本帝国主義の収奪政策のため、植民地の朝鮮では、生活困窮者が増加したため。 <生活困窮者の増加とともに、借金の変わりに若い女性が多く売られるようになった。 これにより民間仲介業者の増加をもたらし、「慰安婦」の供給に拍車をかけることになる。> ◎慰安婦はどこまで連行されたのか?(日本国内から東ティモールまで) 日本軍「慰安婦」歴史館には、大きな地図パネルがあります。 そこには、日本軍「慰安所」が存在した地点が印されていました。 その分布図には、日本国内、沖縄、台湾、中国(ハルピンから海南島まで)、タイ、ミャンマー、マレーシア、インドネシア、フィリピン、そしてパプア・ニューギニアや東ティモールまで日本軍「慰安所」が存在していたと示されていました。 特に、沖縄や中国内陸部には慰安所が集中しています。 日本軍の敗走により、慰安婦は現地に置き去りにされたケースも多々あります。 さらに軍による慰安所のみならず、企業によって運営された慰安所も存在し、日本軍の文書によると、こうした慰安所は、「軍人倶楽部」「軍人娯楽所」と呼ばれ、さらには「衛生的公衆便所」と呼ばれることもあったそうです。 朝鮮人慰安婦は、日本軍の兵士から「鮮ピー」(差別語)と呼ばれ、同じ慰安婦でも、日本人女性とは区別され、さらに過酷な差別を受けたそうです。 ◎「慰安所」はどのように運営されたのか? 慰安所の運営形態には、軍直営慰安所と軍指定慰安所があります。中でも軍指定慰安所には、軍が作った慰安所のみならず、民間売春施設を指定して経営は民間にまかせ、監督と統制は軍が行なう慰安所もあります。 ※近年ではよく、日本軍は、軍として慰安所を運営したわけではないし、民間業者が勝手にやったことであるので、日本政府には一切責任はないという論調を見かけますが、その根拠として、軍指定慰安所を取り上げている場合が多いのです。 ◎「慰安所」での慰安婦女性たちの生活は? それでは実際、慰安婦女性たちにとって「慰安所」での生活はどのようなものだったのでしょうか? そして、軍人たちは、どのように「慰安所」を利用していたのでしょうか? 歴史館の中には、「突撃一番」と名付けられたコンドームが展示されています【写真2番目】 日本軍兵士はコンドームをサックと呼び、この「突撃一番」と呼ばれるサックが多く使われたそうです。さらに、性病の蔓延に敏感だった軍部は、慰安婦女性に対し、性病検査を頻繁に行い、検査後には「可」「不可」などのように成績を付けた名札を、慰安所の部屋の入り口に貼り付けたそうです。 (高官軍人が、できるだけ清潔な女性を選べるようにするための目安として) 【写真3番目】のような部屋で、慰安婦女性たちは、一日に多いときは40人から50人の 兵士の相手をしたそうです。ハルモニの証言によれば、初潮を迎えていない若い女性などは、 ベッドの傍に置いてある たらい に血をふき取って捨てていたそうです。 度重なるレイプによって、下半身が動かなくなったり、妊娠をしたことにより、中絶手術を無理やり受けさせられた女性も数多くいたようです。 さらに、思うように性行為をできなくなった女性には、刀で指を切られたり、中には殺されてしまった人もいたそうです。 金福童(キム・ポクトン)ハルモニは、一日中、兵士の相手をさせられ、足を開いたままで閉じられなくなり、カエルのような姿になっていたと証言しています。 このような過酷な状況に置かれた日本軍「慰安婦」は、20代の女性のみならず、ぼくよりも若い、14歳から19歳という10代の少女も多かったのです。 ■次回は、実際にハルモニと対話をしたときの、 聞き取りメモを掲載する予定です。 ■事実関係については、以下の資料を参考にしました。 <参考文献> ナヌムの家歴史館後援会-編 『ナヌムの家歴史館ハンドブック』 柏書房 2002年 URL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46321153.html 転載元: ★風の旅人ブログ~息ある限り、希望を抱く~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.01.28 01:17:33
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