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カテゴリ:こだわりをなくす
やっと、腑に落ちたのだ。
っていうか、この言葉聞き流してたかも。 っていうか、理解できるともおもっていなかった。 でも、腑に落ちた。 佐藤初女さんのガイアシンフォニー第2番での言葉です。 先日、京都にてガイアシンフォニー第2番&初女さんの講演に、 モモを託児にして、いってまいりました。 第2番をみたのが、多分22、23歳のころ。 わかったようで、わかっていない。 「理解(わかる)」というような次元でもないかもしれない。 でも、きになっていた、そして、初女さんにずっとあいたかった。 龍村監督には何度となく、上映会を開催するたびに、来ていただいて、 お会いする機会はあったけど、初女さんにはまだだった。 やっと、その時がきたので、その時、その場所にやってきてくれたんだね。 きょうとお産といのちの会(旧:いいお産の日京都)を一緒にやっている、 なおちゃんがよく言う言葉、「いつも生活でいのちと向き合って、いのちについて祈っているのがおかあちゃんじゃないかとおもう」 いのち、とは子どもや家族だったりするわけですが、 でも、もうひとつ、いのち、とは、食べ物だったりもするわけですね。 その事を、初女さんはその生き様を通してつたえてるんだな。 しかも、「伝えるぞ!」といきこんでやってるわけではない。 自然とやっていたら、(森のイスキアに)みんなが集まるようになった。 で、長旅は食事もままならないだろう、とおむすび握ったら、 自殺をとどまった人がいた。 いのちを頂いて、いのちを生かす。 そうか~おむすびってそんな力があるんだ。 と、あとから気がつくような、そんな自然体。 キリスト教を信仰されている初女さんに、映画中にインタビュー。 「祈りとはなんですか?」 そこで、答えたのが、「祈りとは生活です」の言葉。 ゴマをすりながら、お米をとぎながら、ぬか床混ぜながら、草むしりをしながら。 何かを思い、何かを祈っている。 心の兄、けんちせんせいの先日のブログで、もっともっと腑に落ちた。 けんちせんせいが、大阪でまだサラリーマンだった頃にご縁で、 一緒に遊んでもらったり、いろーーーーんなところに連れて行ってもらって、 その上、いろんなこと経験させてもらった。 気になった事、場所、人には、行ってみる、やってみる、あってみる。そんな人ですねけんちせんせいは。(だから、実際、初女さんにも森のイスキアへ会いに行ってるし) そして、いまの月の車座の私の中でのモデルにもなっている「シェアリングの会」をやっていた。 いま、あの時の経験が月の車座にいかせるとは、こんな子育て中の私が活かせるとは、 つい、2ヶ月まえくらいまでは、まったく思っていなかった。感動。感謝。 (もともとは、けんちせんせいが、フィンドフォーンにいった時の経験がシェアリングに生かされていた。) いま、けんちせんせいは長野でお百姓さんだったり、大工さんだったり、 自分らしく生きることを実践中。 農業に重きをおいていて、大阪時代には岡山の「わら」にもつれていってもらい、 プチ農業や木削りも一緒に体験した。また木削りやりたいわ。 そして、いま「おてて倶楽部」というのもつくって、なにやら都会に向けて発信のご予定。 先日のブログ。 畑仕事中に瞑想状態に入って、いろんな言葉が降りてきた模様。 そういうこと、私は、お茶碗洗ってるときによくあるかも。 だから、涙流しながら洗ってる事がある。(洗うのがいやなときも泣いてるけど 笑) 最近、母も経済的に逼迫しているのも手伝って、 野菜はかなり自給自足に近いらしい。 母はハーブをうえたがるけど、父はガッツリ収穫がみこめそうなものをうえたがるよう。 母は、いつも畑で草むしりするのが癒されるそう。 きっと、無心になれるんだね。そのときやっぱり何か降りてくるようで、 畑の帰りによく、電話がかかってくる。 そういうときの母の言葉は、わたしも素直に受け取れる。 そうやって、「祈り」なのか「瞑想」なのか。 いつも、みんな生活のどこかでやっていること。 特別なことではなく、じつはやってることなんだね。 と、そーいうことだったのか~と腑におちまくったのであります。 ちなみに、初女さんのおむすびの握り方を口頭で、ですが教えてもらい、 映画の中で握っていたのをしっかとこの目に焼き付けて、 翌日、オットさんと、モモに握ってあげた。大好評! ええ、なんせ『愛』がこもってますもの お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 22, 2006 02:28:13 AM
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