『おんな城主 直虎』第43回~個人的に面白かった場面の切り取りです
NHK大河ドラマ 『おんな城主 直虎』 。第43回の部分的な感想です。今回ずいぶんと落ち着いてドラマの展開を楽しめると思ったら、井伊万千代の菅田将暉さんがカチンときたときに怒りをむき出しにする表情や言葉がほぼなくなっていました。そして同時に、徳川家康の阿部サダヲさんの演技に感動と笑いがあり、出番は少しながら朝比奈泰勝のヨシダ朝さんの演技に笑い、村の長・甚兵衛の山本学さんの説得力あるセリフに惹きこまれ、ラストの静かな退場に感動した、全体として面白い回でした。主君・家康の小姓に出世した万千代と小野万福(井之脇海さん)。先輩小姓たちの嫌がらせがあっても、先輩たちの悪口を言わない形で上手に家康に訴え、自分で仕事を確保していきます。論功行賞が始まった浜松城には大勢の家臣たちが一気に押し寄せ、対応する家臣たちはまるで目が回るような忙しさでした。戦での自分の働きを認めてもらって出世したいのは皆同じです。 ↑ でも旧今川家臣団の中にひときわ気持ちが高ぶっているお方が。 ↑ 一方農村では、大雨が降った後の水の出方に甚兵衛が異常を感じてました。「山の神がお怒りになっている」と甚兵衛は何か災害が起こる予感がしました。長老ならではの人生経験からくるのでしょうね。非常事態だと感じた甚兵衛は とわ(柴咲コウさん)に訴え、とわは急ぎ龍潭寺の傑山(市原隼人さん)、昊天(小松和重さん)らとともに山崩れを起こしている現地を見て廻り、対策をたてました。さてその頃、浜松城内ではこのお方(朝比奈泰勝)が必死になって自分の手柄を家康に訴えていました。ハイテンションでこの形相で力強く語りまくるこの姿は、何回見ても笑えてきます。ヨシダ朝さん、すごいなあ。(無理やり笑いをとろうとする今の朝ドラを思うと、ヨシダ朝さんのはこれぞ演技で、これぞ笑いです。)このテンションで四半時(約30分)も話が続き、ちゃんと聞いてあげてた家康さんはもうヘトヘトでした(笑)。一斉に押し寄せた家臣たちが去った後には、それぞれの手柄を記した山のような書類が。(中には話を盛ったものもあり)家康に疲労回復の薬を届けることでうまく家康の寝所に入り込んだ万千代は、家康が仕事をしやすくなる良い方法を思い付きます。万千代は、所属別に家臣たちの手柄一覧表を作りました。とても見やすくなって、考えがまとまりやすくなって、家康は大喜びです。書類の整理に熱中して、家康の寝所で一夜を明かしてしまった万千代。慌てて寝所を出たら、先輩小姓の小五郎と廊下でバッタリ。仕事してたんだけど、まるでアヤシイ関係の朝帰りのようです。家康に薬を出す役割を自分が担い、家康に気に入ってもらうために、井伊家から薬を回してもらいたい万千代。ちょうどそのとき義叔父の松下常慶(和田正人さん)がやってきて絵の得意な万千代に絵図面を依頼し、万千代はその代わりとして井伊家から薬を手に入れることができるようになりました。この絵図面を書いたのは万千代だと、万千代が幼少の頃より傳役としてそばにいた奥山六左衛門(田中美央さん)はすぐに気がつきます。万千代と薬の関係をとわに知られたくない南渓和尚(小林 薫さん)はアレコレごまかしますが、とわは薄々感づいていました。かなり大掛かりになるこの普請の資金は「(普請は)後世に名を残す」と、とわが近藤康用の名誉心をくすぐってうまく出させました。ただ農民たちは忙しくて普請をやる余裕がなくブーイングでした。とわがいくら「忙しいのはわかっているがそこをなんとか」と頼んでも反論するだけの農民たちを、甚兵衛(山本学さん)が一喝。「誰が木を切ったとか、山に言うても聞いてくれん。等しく襲ってくるで。」と農民たちをまとめて普請へと動かしました。後日、井伊家から数々の薬が届きました。でもその中に「附子(ブシ;使い方を誤ると毒になる)」も入っていたけど、万千代くん、薬の扱いは大丈夫なのかな?とちょっと心配に。そして夜、家康の元に薬を届けようとしたら、またしても小五郎たちの妨害が。嫌がらせへの対応が面倒になった万千代は、「それがしは、殿のご寵愛をいただいたぞ!」と、小五郎たちに “俺は色小姓” 宣言を。急に廊下が通りやすくなりました。(『大奥』でよく見るシーンね)家康は万千代に、井伊家のとわに信を置く理由を「無欲じゃからな。井伊の民を守るために、己を守ることは考えてはおられぬ。」と語ります。そして家康は万千代に、岡崎の処遇について意見を求め、さらに万千代に岡崎に行って探ってくるよう命じました。岡崎城に来て、徳川信康(平埜生成さん)と囲碁をしながら語らう万千代。名目上は「母・瀬名の遠縁にあたる万千代が挨拶に来た」となっているけど、信康はすぐに、恩賞のことで万千代が岡崎に来たと察します。万千代は「殿(家康)は、こたびの大勝利は日頃の岡崎の働きあってのものとわかっておられます。」と信康に伝え、信康も「こたびは耐える。後々は岡崎の衆にも直に報いて欲しい。」と伝えました。木を伐採しすぎてハゲ山になったところに、計画的な植林を開始しました。この一大事を甚兵衛が気づいてくれたことに とわは礼を言い、そして今回の植林を「甚兵衛の松」と名付けました。「甚兵衛の松とは、こっ恥ずかしいのぉ。」と照れつつも、甚兵衛はどこか嬉しそうで、そして皆も嬉しそうに笑っていました。そして甚兵衛はこの後、静かに世を去っていきました。