大河ドラマ『どうする家康』第33回~「私はどこまでも殿と一緒でござる」主君・家康と徳川を守るために石川数正は覚悟の出奔へ
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は徳川家康(松本 潤さん)の幼い頃より傍で仕え、家康を守り導いてきた家老の石川数正(松重 豊さん)が出奔し、よりによって敵対する羽柴秀吉(ムロツヨシさん)の家臣となってしまう回でした。私は史実としてこれを知っていたので『どうする家康』で石川数正の配役が松重 豊さんと知ったとき、松重さんがこの場面をどうやって演技するのか興味津々でした。小牧・長久手の戦(1584)で秀吉に勝ったことですっかり強気になってしまい、主戦論者であふれる徳川方。一方、数正はあの織田信長を超えたとさえ思う秀吉の持つ「力」を知るがゆえに、この小牧・長久手の戦は局地戦に勝っただけにすぎないことをわかっていて、このまま秀吉に臣従しないと徳川家が潰されると予想しています。現段階での実力がまるで違う秀吉を相手に徳川家では到底かなわないのに、本多忠勝・榊原康政・井伊直政といった若い重臣たちは希望的観測と精神力だけで徳川がまた勝つと言い、しまいには数正を裏切り者呼ばわりします。そして秀吉にはどうしても屈したくない主君・家康です。徳川家を守るために「今は」我慢して秀吉に従うべきだと訴えても、家康は受け入れません。しかしドラマの終盤、家康と数正が二人だけで話をして、そのとき数正は主君・家康を天下人にするのだと改めて決意し、その思いを力強く声に出して家康に伝えます。そしてとった行動は、まず家康を守るために(秀吉と戦をさせないために)一族郎党を引き連れての出奔でした。数正が力強く宣言したあの場面は、観ていて私も感動でじ~んときたし、家康役の松本潤さんも松重さんの演技に本当に泣いていたと思います。数正の思いを感じる、想像以上に感動した神回でした。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 天正12年(1584)小牧・長久手の戦で徳川家康(松本 潤さん)は羽柴秀吉に勝利しましたが、秀吉はまず家康と共に戦っていた織田信雄を臣従させ、次は家康を臣従させるために家康の子を誰か、人質ではなく自分の養子として手元に置く、それが嫌なら徳川を滅ぼすと考えていました。その旨の書状が家康に届けられ、家康や若い重臣たちは徳川が勝利したのになぜこちらが養子(人質)を差し出すのかと怒りを露わにしていました。筆頭家老の酒井忠次(大森南朋さん)は「総大将の信雄が和睦したのだから」と若い衆をなだめ、まずは秀吉と話をと石川数正(松重 豊さん)が大坂の秀吉の元に使者に立つことになりました。大坂から戻った数正は主君・家康の望む成果でなかったことを詫び、秀吉に押し付けられた金を家康に差し出しました。ただ養子には側室のお万(松井玲奈さん)が産んだ於義伊(岩田琉聖くん)を行かせることに決めました。お万は於義伊を秀吉の元に行かせることを快諾し、万一また徳川と羽柴が事を構えることがあった折には於義伊の事を気にかけなくてもいいと言い、於義伊も自分の事は捨て殺しにしてもいいと気丈に答えました。そして於義伊の供として数正の子・勝千代が行くことになりました。天正13年(1583)5月、秀吉は徳川との交渉を進める一方で弟の羽柴秀長(佐藤隆太さん)を信州に遣わし、真田昌幸(佐藤浩市さん)を取り込もうと画策していました。昌幸は領地の沼田のことで徳川には不快感があり、また越後の上杉と手を組んだものの上手くいかなかったこともあり、間もなく関白になるという秀吉の側にあっさりと寝返りしました。そして7月、秀吉は公家の最高職である関白に任官され、名実ともに亡き織田信長を超えたことに家康は驚きを隠せませんでした。数正は再び大坂に使者にたち、関白となって姓を羽柴から豊臣と改めた秀吉(ムロツヨシさん)と談判しました。秀吉は壮大な大坂城や城下町の繁栄を数正に示し、そして数正の器量を認めて自分の家臣になるよう言いました。もちろん数正は我が主は徳川三河守とその話を固辞しましたが、秀吉は自分は関白であり日ノ本全土の大名は我が家臣と同様、家康も自分に従うべきと今度は圧力をかけるように数正に言いました。それでも数正が、徳川は和睦しただけで臣下の礼はとっていないと反論すると秀吉は自分の軍事力を示し、家康には直ちに臣下の礼をとって人質をもう一人差し出すよう、さもなくば家康の領地は焼け野原だと数正に言いました。しかしその時、正妻の寧々(和久井映見さん)が出て秀吉の物言いをたしなめ、秀吉は態度を改めて日ノ本を平和にして繁栄させたいのだと数正に伝えました。真田昌幸が秀吉に寝返ったことを知った家康は鳥居元忠(音尾琢真さん)、平岩親吉、大久保忠世らを信州の上田城に送り、合戦となりました。しかし元忠らは予想外の敗北を喫し、真田の背後には秀吉があると考えました。破竹の勢いで四国と北国を制した秀吉は次々と大名の「国替え」を行っていて、秀吉にひれ伏せば徳川も三河を追いやられるだろうと考えたとき、本多忠勝(山田裕貴さん)と榊原康政(杉野遥亮さん)と井伊直政(板垣李光人さん)はそれは絶対に認められない、2年3年籠城して決戦あるのみと息巻いていました。家康もこれ以上人質を送る気はなく秀吉と決戦をする考えでした。しかし数正に意見を求めたとき数正は「徳川は秀吉に臣従すべき。秀吉は名実ともに信長を超えた。大坂の町は富にあふれ、大坂城は安土城を超えた巨大さと美しさ。もはや秀吉の天下は崩れぬ。戦となればこの岡崎が焼け野原となる。」と言い、直政ら若い重臣たちは数正が秀吉に寝返ったとののしりました。徳川の多くの者は小牧・長久手の戦で秀吉に勝ったから自分たちは戦になっても秀吉には勝てると思い込んでいて家康も同じでした。家康が自分は秀吉には劣るのかと数正に問うと、秀吉の人の心を掴んでいく様や欲しいものを手に入れるために手段を選ばないことをあげ、秀吉は化け物だから殿はかなわないと数正は答えました。それでも家康が秀吉との決戦を言うので数正は「岡崎城代としてお断り申す!」と強く反論し、数正は家康に岡崎城代の任を解かれてしまいました。退席して家に帰った数正を酒井忠次が訪ねました。忠次は数正が調略されたとかではなく殿と皆を思ってのことだとわかっていると言い、ただそれでも今まで苦労して手に入れた国は失いたくないと言いました。数正は秀吉が天下一統すれば日ノ本全てが秀吉のものになり国はなくなると言い、これは秀吉の手腕を見てきた数正にしかわからないものがあるのだろうと思った忠次は、数正に家康と二人きりで話すように勧めました。参上した数正に家康は先日のときの怒りはなく、むしろ自分は幼い頃から数正に叱られてばかりだった、でもそのおかげで今の自分がある、数正が自分をここまで連れてきてくれたと、しみじみと感謝の思いを伝えました。そして数正の言い分もわかっているつもりだと。家康はそれでも、秀吉に屈するわけにはいかない、勝つ手立てが必ずあるはずだと言い、(先日は怒りの勢いで岡崎城代を解任してしまったが)そなたがいなければできないと思いを伝えました。家康にそう言われて、数正も静かに胸の内を語りました。「これまで数え切れないほど戦をして実に多くの仲間を失った。今もよく夢に出る。あの弱く優しかった殿が、かほどに強く勇ましくなられるとは。さぞやお苦しい事でしょう。」としかしそう言われた家康は「戦なき世を作る。この世を浄土にすると決めてきた。苦しくなどない。」と否定し、立ち上がって語気を強め「王道をもって覇道を制す!わしにはできぬと申すか!」と数正に問いました。家康のその姿を見て数正は少しだけ笑みを浮かべ「秀吉にひれ伏すなどと申したらこの国を守るために死んでいった者たちが化けて出る。危うく忘れるところだった。殿を天下人にすることこそ我が夢であると。」と。そして背筋を伸ばして家康に向かい「覚悟を決め申した!もう一たび、この老体に鞭打って大暴れいたしましょう!」と力強く言いました。そして手をついて家康の目を見て「私は、どこまでも殿と一緒でござる。」と静かに言い、すっと立ち上がって「羽柴秀吉、何するものぞ!我らの国を守り抜き、我らの殿を天下人にいたしまする!」と腹の底から声を出して宣言したかと思うと、ニヤリと笑って退室していきました。しかし廊下で今一度立ち止まり、家康に背を向けたまま「殿、決してお忘れあるな。私はどこまでも殿と一緒でござる。」と静かに言い、数正は去っていきました。数正は妻子と家臣たちを引き連れ、闇夜に紛れて岡崎を出ていきました。そう、数正の“覚悟”とは、徳川を守るために自分が出奔して、秀吉のところに行くことだったのでした。大坂城に挨拶に来た数正と妻の鍋を、秀吉と寧々は歓待しました。主従の固めの盃をかわした数正に秀吉は、今日からは「石川出雲守吉輝」と名を改めさせ、数正も謹んでそれを受けました。数正が出奔した報を受け、家康は急ぎ数正の家に入りました。あのとき「どこまでも殿と一緒」と繰り返し言っていた数正。なのに数正の覚悟とは出奔することだったのかと、「関白殿下、是天下人也」と書かれた置手紙を見て、家康は呆然としていました。