大河ドラマ『どうする家康』第36回~鳥居元忠が起こした騒動と於愛の働きかけで稲は真田への輿入れを決意、しかし徳川家の働きもむなしく秀吉は北条征伐へ
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は歴史的に大きな出来事はなかったものの、この先ドラマの中で起こるであろう歴史的な大事の伏線が各所に張られた回でした。徳川家康(松本 潤さん)の側室・於愛(広瀬アリスさん)の生き様が家康をはじめとした周囲の人々の気持ちをほぐし、考え方や見方を変えて事が丸く収まっていきました。ところで今回、私がなるほどと思ったのは「側室の地位」。大名家の奥を束ねるのは殿の正室で、殿の代わりに外交して、家中で事が起これば当事者から話を聞き、女たちのことは正室が裁定を下していたようです。そして正室が不在(または空席)のときは、側室が正室に代ってその役割を果たしていたのですね。このドラマでは過去の回でも、家康は出陣や上洛で自分が城から出るときは、於愛に「奥を頼む。」と言ってました。やるべき事の全体を考え、城勤めをする使用人たちに指示を出して主君のメンツを保つエキスパートで、人柄も良くて皆がついてきました。今、家康には正室の旭(山田真歩さん)がいるけど、今回の鳥居元忠(音尾琢真さん)が起こした事件に関しては、旭は不在でちょうどよかったと思います。旭は立場は一番上だけど、徳川家の家臣たちのそれぞれの実績や性格や細かい内情などはよくわからないでしょう。そんなんでは自分が家臣たちの話を聞いたところで、家康にどうつないだらいいのかわからなくて困ったと思います。でもその旭は、於愛の亡き後は、正室として徳川の嫡男・長松の後盾になって長松を守ってくれるでしょう。徳川家の正室ともなれば前夫のときとは比較にならないほど大きな役割があるでしょうが、不器用だけど家康の優しさに一生懸命に応えて務めを果たしていく旭だと想像します。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 徳川家康の側室の於愛の方(広瀬アリスさん)は日記から過去を振り返りました。元亀3年(1572)10月に於愛の夫だった西郷義勝は、武田信玄が奥三河に侵攻してきたときに戦死し、於愛はその後は城務めをするようになりました。夫を失った悲しみがつい顔に出てしまう於愛に、先に家康の側室となっていたお葉(北 香那さん)からは「嘘でもいいから笑っているように。」と助言された於愛。懸命に城務めをこなし、そして天正4年(1576)5月、家康の側室となりました。豊臣秀吉(ムロツヨシさん)に臣従して豊臣政権を支える立場となった徳川家康(松本 潤さん)は、上洛して聚楽第に来ていました。秀吉はいまだに自分に臣従しない関東の北条に苛立っていて、家康に早く北条を攻めるよう促していました。家康は北条氏政の嫡子・氏直には家康の姫・おふうが嫁いでいて北条父子を説得していると伝え、酒井忠次(大森南朋さん)も北条が上洛しない理由の真田との領地の問題も近いうちに解決するからもう少し時間の猶予をと乞い、また家康は本多忠勝の娘を自分の養女として真田に輿入れさせるとも秀吉に伝えていました。その本多忠勝(山田裕貴さん)と娘の稲(鳴海 唯さん)ですが、稲は真田は好きではないと輿入れを拒み、父・忠勝は忠勝でこの娘ではかえって真田との関係が悪くなると言い、果ては於愛の前で親子喧嘩をしていました。於愛は稲に、北条家に嫁いだおふうのことを引き合いにだして、嫁ぐ(政略結婚)ということは好き嫌い関係なく、両家が戦にならぬよう働くこともあり、稲にも同様の働きが求められていると説得しました。この上洛では家康は正室で秀吉の妹の旭(山田真歩さん)を伴っていました。家康は旭に、自分たちは駿府に戻るけど旭はこのまま京にいて母の大政所の傍にいればよい、旭を今さら人質とは思っていない、我が正室として京での務めを支えてくれたらよい、と優しく言いました。旭は涙を浮かべて家康に礼を言い、その様子を見ていた寧々(和久井映見さん)は旭が家康のもとで幸せあると実感していました。しかしその寧々はというと、夫の秀吉が新しい側室に夢中で忙しいことを、嫉妬というより半ば呆れて「周りの者の生気を吸い取って、自分だけ血気盛んになるもののけのよう。あの男は何でも欲しがる病だ。」と皮肉を言っていました。家康が駿府城を留守にしている頃、城では大問題が起きていました。家康はかつて武田の間者だった千代という女を探すよう大久保忠世と鳥居元忠(音尾琢真さん)に命じていたのですが、その千代がなんと元忠の屋敷にいて、しかも元忠と千代は互いに思い人になっているようでした。そして二人の光景を見た渡辺守綱が城内で言い触らし、その話を聞いた忠勝は、元忠が(武田の家臣だった)真田の罠にかかった、真田の手先となた元忠は稲を真田に輿入れさせようと執拗だった、と激怒していました。そして忠勝は家来を引き連れて元忠の屋敷に押しかけ、大乱闘となりました。どちらも引かない大乱闘を「双方厳しく罰せられるぞ!」と大久保忠世が諫め、家康が不在なので元忠と千代(古川琴音さん)は側室の於愛に申し開きをすることになりました。元忠は実は半年前に千代を見つけていて、それからずっと自分の屋敷に置いていた、千代は徳川で恨まれているだろうから引き渡せなかったと。そして元忠は、千代は今はもう忍びではない、ひっそりと暮らしたがっている、殿の命でも従えないことがある、と言いました。そんな元忠を忠勝は、徳川の重臣が真田の忍びに操られていると非難しました。於愛が千代に何か言い分はあるかと問うと千代は、自分の言葉に(周囲からの)信用はない、元忠を慕う気持ちもわからない、と言いましたが、於愛は千代に殿・家康の裁定を待つように命じました。家康が駿府城に戻ってきて、元忠たちの裁定が始まりました。家康は元忠の不忠を言語道断と厳しく言い、元忠は自分は切腹の覚悟があると言いつつ千代だけは許して欲しいと乞いました。そんな元忠に家康は、なぜ千代を妻にしたいと素直に言わなかったのかと問い、元忠は千代の過去を思うととても言えなかったと言いました。また家康も、千代を探させたのは何かに利用するためではなく、ただその身を案じていたからでした。家康は千代に過去を捨てて元忠の妻になればよいと言い、千代はそれを情けは無用にと断りましたが、家康は「幸せになることは生き残った者の務めであると思う。元忠を支えよ。これは我が命である。」と優しく言いました。主君・家康の命に感謝して平伏する二人に、これは於愛の助言だったと家康は言い、於愛も互いに思い合うなら大事にすべきと自分の思いを述べました。この騒動の行方を、稲は父・忠勝に同席して聴いていました。家康が忠勝にこの裁定で良いかと問うと、忠勝はまだ真田への疑いが晴れていないと納得していませんでした。「万が一、徳川の重臣が忍びに操られ寝首をかかれた一大事。」とまで忠勝は言いましたが、そのとき稲が「ならば私が。」と発言しました。稲は父の方を向き、自分が真田に入りこんで真田を操る、元忠がやられた事は自分がやり返すと言いました。そして家康の前に進み出て、夫婦をなすのも女子の戦と思い知ったと言い、「真田家、我が戦場として申し分なし。」ときっぱりと言い、迷いのない眼で家康にこの縁談を進めるよう申し出ました。(この十余年後に、諸事情により義父と義弟を門前払いにする奥方が誕生しました)裁定が終って自室に戻った家康は於愛に礼を言い、ここのところ胸を患っている於愛のために薬湯を煎じました。そして家康が、於愛がいてくれたからこれまでに幾度も心が救われたと思いを語ると於愛は、自分のほうこそ殿にお仕えしていて心が救われた、もう無理に笑顔を作ることがなくなっていた、と思いを述べました。於愛は改まって家康に、亡き瀬名と信康のことを聞かせて欲しいと言い、最愛だった二人のことがもう過去のことになっている家康は、二人の思い出の中で愉快だったことだけが思い出されて、笑いながら於愛に語っていました。その後、間もなくして於愛はは亡くなり、貧しき弱き民たちに施しをしていた於愛の死を悼んで葬儀には多くの民が集まりました。天正17年(1589)、稲が真田に輿入れしたことにより北条氏政は秀吉に対抗する力が弱まり、弟の氏規を上洛させました。しかし秀吉は沼田の領地問題に介入し、さらに北条が当主の氏政が上洛していないことをあげ、自分の裁定に不服なら北条を滅ぼすと言いました。井伊直政(板垣李光人さん)が豊臣秀長(佐藤隆太さん)に、秀吉は初めから戦をするつもりだったのかと問うと秀長は、兄・秀吉はますます思いのままに生きるようになった、周りには秀吉の機嫌をとって唆す者ばかり、厳しく意見できるのは北政所(寧々)と家康のみ、秀吉に取り入る者の中には危うい者もいると言い、他の者には言えない秀吉の現状を密かに教えてくれました。家康と秀長がそんな話をしていると、1発の銃声が響きました。すると奥から秀吉の側室らしき女性が笑いながら出てきて、それは亡き織田信長の妹・お市の遺子の茶々(北川景子さん)でした。茶々が愛おしくてたまらない秀吉は茶々が家康や自分に銃を向けて撃つマネをする無礼をしても笑って許していました。越前・北ノ庄城の落城(1583)後、秀吉の庇護のもとに大事に育てられたとは思えないほど狂気じみた笑いを浮かべる茶々に、家康はただ驚くばかりでした。