大河ドラマ『どうする家康』第40回~秀吉の死後のさまざまな出来事を通じて家康はついに、修羅の道でも天下人になる決意をしました
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回では、若い頃は強い者に従って徳川家を守るためにただ真っすぐに進んできた徳川家康(松本 潤さん)が、この先の厄介事や苦難を覚悟のうえで、天下泰平のために自分が天下人になる決意を固めた回でした。対照的に描かれたのが石田三成(中村七之助さん)でした。確かに亡き秀吉の思いを実現させようと、豊臣家の、秀吉の第一の忠臣を自負して三成なりに奮闘はしていました。でも朝鮮出兵では国内にいたから帰国した者たちの思いがわからずに激怒させるし、どこまでも「自分は正しい」にこだわって譲歩ができなくて事態をややこしくします。そこにもってきて随所で三成に家康を疑うようにささやく者がでてきて、最後はそちらを受け入れます。まあこれも、家康にしたら自分の若い頃の姿の一部だから、三成の考えや行動が読めてしまうのでしょうが。さて、家康の知恵袋の本多正信(松山ケンイチさん)の存在感が大きくなってきました。ある課題をクリアするのに、正信のいい意味でのズルさや要領の良さが家康を助けています。私は要領が悪い人間なので、ドラマでどんな正信の知恵がでてくるのか、楽しみでもあります。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長3年(1598)秋、豊臣秀吉は朝鮮出兵を収束させることなく死去し、その後の国内を統制するために徳川家康(松本 潤さん)ら大きな力を持つ大大名を五大老、豊臣政権の実務を担う石田三成(中村七之助さん)らを五奉行として新たな政の体制が整い、伏見城に集まりました。秀吉の遺児・秀頼が成長するまでは五大老と五奉行が協力して政務を行い秀頼を支えていくことを、互いに確認し合いました。しかしこの話合いの後、毛利輝元(吹越 満さん)と上杉景勝(津田寛治さん)は三成に、合議制であっても格別な力を持つ者がいればその者が全てを決めてしまうと家康を暗に批判し、家康のことを信用しないよう忠告していました。屋敷に戻った家康に、側近たちはそれぞれに思うところを意見しました。阿茶(松本若菜さん)は三成がうまくやればと言い、本多忠勝(山田裕貴さん)は天下は力のある者の持ち回りだから次は家康が天下人になればよいと言いました。しかし家康はまだその時ではないと考えていて、本多正信(松山ケンイチさん)も泥沼化した朝鮮出兵の後始末を買って出ずに今は息を潜めているほうがいいと言い、家康も同じ考えでした。秀吉の死後3ヶ月ほどたってから、諸将たちは朝鮮半島から撤退を開始しました。食糧の補給もなく多くの死傷者を出した壮絶な戦いからやっとの思いで戻ってきた諸将らに三成は、秀吉の死去は明言を避け、そして「しくじりの責めは不問にする」と心無い言葉を発し、さらに「後日京で茶会でも」と飢えとも戦ってきた者たちをいたわることのない無神経な事を言ったため、諸将らは怒り心頭になりました。自分への怒号が飛び交い狼狽する三成に、加藤清正は腹立ちで涙を流しながら「皆にはわしが粥を振る舞う。」と言って皆を引き連れて退室、去り際に諸将らは三成を侮蔑の目で睨んでいきました。京に戻った諸将らは家康と前田利家に、朝鮮出兵では三成が自分に都合のいいよう秀吉に報告していた、自分たちの名誉が傷ついたと訴えていました。三成に対する敵意むき出しの諸将らを家康と利家はなだめて軽挙妄動せぬよう釘をさし、三成もまた豊臣家中をしっかりまとめるようにと寧々から叱られていました。しかし三成は自分の何が悪いと納得せず、諸将らと対立が深まっていました。一方、諸国の動きを探らせていた家康は正信から、伊達政宗など不穏な動きをする者もいる、裏から首ねっこを抑えておいてはどうかと進言がありました。そこで家康は自分の子や縁者と伊達・福島・蜂須賀などと密かに婚姻を結び、徳川とのつながりができた大名たちもまんざらでもなさそうでした。しかし家康のこの行動は五大老・五奉行の合議で許されないものとなり、家康の予想通り直ちに糾問の使者がやってきました。家康はうっかりしていたととぼけ、正信は秀吉亡き後は許可は必要ないと思っていたと言い訳し、家康も行き違いだったから後で皆に詫びると言いました。しかしそんなわけにはと使者が言うと、正信が「本多忠勝、榊原康政、井伊直政」と徳川の猛将たちの名をあげ、家康の身に何かあればこの者たちが軍勢を率いて駆けつけ大戦になるかもと匂わせました。話がこじれたら戦も辞さない家康と、家康の行動は許されないと怒る三成を前田利家(宅麻 伸さん)は「道理だけで政はできぬ。」と叱りました。そして家康もまた三成を密かに呼び出し、二人だけで話し合いをもちました。家康は自分の浅慮を詫び、そして自分は三成の味方だと言い、三成の五奉行としての働きぶりを評価しました。ただ率直に言って、今の形で政を続けるのは困難で、まずは皆の不満を鎮めることが大事だから一時自分が政務を預かりたいと家康は言いました。しかし三成は家康のそれを天下簒奪の野心と解釈し、怒って退席していきました。家康は病床の利家を見舞い、そして自分は天下泰平のために動ているけど皆には理解してもらえないと相談しました。そんな家康に利家は「この40年、今川・織田・武田・秀吉と渡り合ってきた貴公が怖いから仕方がない。貴公は強くなり過ぎた。」と言いました。そして改めて「腹をくくれ(天下人になれ)」と言って病床に伏しました。慶長4年(1599)3月、利家が病死すると三成に対する怒りが爆発した福島正則(深水元基さん)や加藤清正(淵上泰史さん)らが三成の屋敷を襲撃、三成がすでに逃げて京の伏見城にいると知った諸将らは武装して手勢を連れて伏見城を取り囲み、三成に口々に罵声をあびせていました。正信は「このまま放置して、もし三成を助けるために毛利と上杉が軍勢を率いて出てくれば大戦になる。」と家康に進言、そして忠勝が城門の前に行き、深夜に大騒ぎをする諸将らを鎮め、家康は話を聞くために皆を屋敷に入れました。家康の屋敷で落ち着いた諸将らは、三成を襲撃する気は毛頭なかったが、奴が話し合いに応じないのでやむなくこうなったと釈明しました。彼らが帰った後、正信は家康に「ここらが潮時かも」と言い、忠勝も「(殿が)表舞台に立つときかと。」と、それぞれに家康が立つことを促しました。後日、騒ぎの元となった三成への処分が合議で決まり、家康は三成と二人で話し合う場をもってそれを伝えました。三成は「全ては自分が至らなさゆえ。処分を慎んで受ける。全ての政務から身をひいて所領の近江・佐和山に隠居する。」と言いましたが、あくまで三成はこの処分に納得はしていなくて、自分は誰よりも秀吉の忠実な臣下だと言いました。その後、三成は家康の次男の結城秀康の警護を受けて佐和山に移りました。秀吉が昨年の夏に死去し、11月に朝鮮出兵から諸将らが引き上げて帰国し、そして三成との対立が激しくなってこの襲撃事件が起こり、その間のことを家康はいろいろと考えていました。「やるからには後戻りはできぬ。修羅の道になるかもしれぬ。」ーー家康の決意に忠勝は「どこまでもつきあいまする。」と静かに答えました。家康が一人で薬をひいていると、これまでの人生を導き支えてくれた人たちの顔が次々とふとうかんできました。今川義元、織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、そして何より自分と生死と苦楽を共にしてきた家臣たちと、自分に「天下をとりなされ!」と遺した酒井忠次が。家康は一人薬湯をすすりながら静かに天下取りの決意を固めました。家康は大坂城に五大老をはじめとした諸将らを集め、これより我らが一丸となって豊臣家と秀頼のために力の限り励む、天下の泰平を乱す者あれば自分は放ってはおかぬと宣言し、一同もそれを了承しました。このことは幼い秀頼に報告され、秀頼の母の淀殿(茶々)も満足気でした。