大河ドラマ『どうする家康』第45回~家康、秀頼と二条城で会見してその才能を強く警戒、でも我が子・秀忠との絆を深め、いよいよ豊臣との決着へ
2023年NHK大河ドラマ 『どうする家康』 の感想です。この回は、関ケ原の戦い(1600)から10年以上がたち、齢70を超える徳川家康(松本 潤さん)にとって、生涯最後の大仕事となる大坂の陣(1614--1615)に向けて、事態が動き出す回でした。二条城での家康と豊臣秀頼(作間龍斗さん)との会見は、これまで私が見た戦国ドラマでは比較的美しく描かれていたように記憶しています。でもこのドラマでは、どちらが上段下段となるかで家康と秀頼で攻防となり、家康が上段になってはいけないという、これまでにない解釈でした。そして徳川と豊臣との政権争いを、家康は戦にならぬよう穏やかにまとめたいと願うのに、茶々(北川景子さん)は「織田と豊臣の血をひく我が子・秀頼が、力で奪い取ってこその天下」と息巻きます。でもね、戦になれば侍たちは戦って勝っても負けても納得でしょうが、巻き込まれて難儀するのは民たちなのです。茶々はその視点がすっぽり抜け落ちていると思いました。父・浅井長政を小谷城で、母・市を越前北ノ庄城で、共に落城で失っていて、妹たちとは違って物心ついた歳だったから戦とはどういうものかを見てきたと思ったのですが、小谷や北ノ庄では民たちの姿を見ることがなかったのか。あるいは我が子・秀頼を天下人にという執念しかなかったのかな、とも思っていました。こちらでは様々な意見がでていて参考になります。 ⇒ ⇒ #どうする家康 岡崎市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 静岡市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 浜松市の大河ドラマ館、開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 岐阜県の関ケ原の古戦場記念館では「どうする家康」展・ぎふ 関ケ原が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 慶長16年(1611)大坂では豊臣秀頼が元服して18歳になり、秀頼の母・茶々は「豊臣の代わりに政をしている徳川が、いつ政権を豊臣に返すのか。返さないなら戦も辞さない。」と考えていました。その頃、大御所となって駿府で過ごす徳川家康(松本 潤さん)の元に第2代将軍の徳川秀忠(森崎ウィンさん)が来て、大坂への対応を相談していました。本多正信(松山ケンイチさん)の報告によれば大坂では、牢人を養い武具や兵糧も集めて戦に備えていて、世間でも豊臣と徳川が戦になると噂になっているとのこと。秀頼の側近の本多正純(井上祐貴さん)は3月に秀頼を京の伏見城に来させ、家康への臣下の礼をとらせる、もし従わなければ力で、と進言しました。しかし家康は、上方では今でも太閤・秀吉が人々に人気だからその遺児の秀頼には下手なことができないと考えていました。そこで本多正信は、秀頼を二条城に来させ、あえて秀頼を上段に座らせ「徳川は武家、豊臣は公家」とし、公家だから城や武力は不要とすればよいと進言。家康はそのために北政所の寧々(和久井映見さん)に大坂方との仲介を頼みました。しかし案の定、寧々の話を聞いた茶々(北川景子さん)は不快感を露わにし、嫁の千姫(原菜乃華さん)は身の置きどころがなくなっていました。豊臣秀頼(作間龍斗さん)は千姫を優しくかばい、寧々も「今、天下を治めているのは徳川。豊臣は徳川の庇護の下にあることを忘れてはいけない。」と茶々たちをたしなめました。また加藤清正(淵上泰史さん)は、ここで出ないと心が弱い君と思われる、自分が命に代えても秀頼を守ると進言し、それを聞いて秀頼も納得。茶々は「そろそろ秀頼を世に披露する時」と考え、二条城に行くことにしました。慶長16年(1611)3月28日、いよいよ二条城での家康と秀頼の会見の日が来て、民の前に姿を現した秀頼は徳川方の想像以上の人気ぶりでした。秀頼が二条城に到着し、家康が玄関の車寄せで秀頼を下座して出迎えると、秀頼は笑顔で家康に近寄り初対面の挨拶をしました。その後もどちらが先に進むかなど小さなことでも互いに相手を立て合い、言葉遣い一つでも気を付け、双方の家臣たちも緊張の中にいました。結局この時は、家康が案内するという形で秀頼より先に進みました。奥の書院に入るとそこには寧々がいて、秀頼に上段に座るよう促しました。秀頼は辞退するけど家康も、豊臣は高貴な家柄で徳川は武家の棟梁だから及ばない、それがしきたりと秀頼に上段を促します。どちらも上段に上がらず、埒があかないと見た寧々は、ならば二人で上段へと促し、家康が動かないのを見ると秀頼は家康の手を取り、共に横並びにと促しました。そう聞いて家臣たちは敷物を上段に移動させ二つの座を用意したのですが、家康がそこに座るやいなや秀頼は下段に下がり、敷物のない場で家康に対しうやうやしく挨拶が遅れた詫びを言って頭を下げ、さらに秀頼は「武家として共に手を携えて」と言い、自分たちは公家ではないと家康に念押ししました。この若さでこれだけの機転が利く秀頼を、家康は警戒せざるを得ませんでした。二条城でのやり取りは上方の人々には「家康が秀頼をひざまずかせた」と伝わり、「天下の主は秀頼様!」「徳川を断じて許すな!」と怒りの声になり、大坂には前にも増して牢人たちが集まるようになっていました。阿茶(松本若菜さん)が秀頼をどういう人物と見たかと家康に訊ねると家康は、「(見た目は)涼やかで様子のいい(中身は)秀吉。」と答えました。(秀頼にはさらに、幼少の頃から母・茶々に吹き込まれた「家康を信じるな」という怨念で、大らかで素直な秀忠とは対照的な人物になっていると思います。)慶長17年(1612)、12年前に日本に漂着してから家康の庇護を受けているウイリアム・アダムスは三浦按針(村雨辰剛さん)と名を変え、領地も与えられ苗字帯刀を許されて家康の直参として仕えていました。按針が置時計の修理を終えた後、自分をここに呼んだ他の理由を家康に訊ねると家康は、西洋式の大筒を用意するよう按針に命じました。あれは恐ろしい道具だと快諾できない按針に家康は「大筒は戦を防ぐためのもの。大いなる力を見せつければ敵は攻めてこなくなる。」と目的を伝え、「よろしく頼む」と按針に念を押していきました。家康は置時計を見つめながら、戦に明け暮れた昔のことを思い出していました。そこに今川氏真(溝端淳平さん)が訪ねてきたので家康は少し昔語りをし、そして今は氏真が奥方と悠々自適に暮らしているのを思い、家康は羨ましくなりました。戦無き世をつくるために今もまだ苦悩を続ける家康を思い、氏真は「戦が無くなり王道で治世をする時代をつくるまで、あと少し。」と家康を励ましました。しかし家康は、いずれ起こるであろう大坂との戦を思って、自分の生涯は死ぬまで戦が続くのだと涙ながらに氏真に思いを伝えました。そんな家康を氏真は抱き寄せ「弟よ、弱音を吐きたいときはこの“兄”が全て聞いてやる。そのために来た。お主に助けられた命もあることを忘れるな。本当のお主に戻れる日もきっと来る。」と家康の苦悩を受け止め、そして励ましました。家康との二条城での会見以降、秀頼は豊臣の威光を復活させる事業を進めていて、その一つに京の方広寺の大仏の再建がありました。慶長19年(1614)に大仏の開眼供養が予定され、それを取り仕切る片桐且元(川島潤哉さん)は徳川を含めた諸国の大名や公家、そして商人に至るまで式に招くと秀頼に報告し、秀頼もそれを了承しました。大野治長(玉山鉄二さん)は秀頼を、これからますます輝きを増していく旭日の若君と呼び、そして家康を齢70を超える老木と例え、この先は“時”が否応なく勝負をつけるだろうと茶々に話していました。父・家康の老いは、2代将軍となった秀忠には大きな問題でした。世間では家康の亡き後は秀頼が天下人になるという意味の歌が流行り、歌の中に秀忠の存在はなく、秀忠は父の力があるうちに京大仏の開眼供養をどうにかしてほしいと考え、父亡き後の秀頼との戦いを恐れていました。そんな秀忠に家康は「自分の才を、弱いところと、その弱さを素直に認められるところをよく受け継いでいる。」と思いを語り始めました。「かつて自分も今のそなたと同じだった。でも戦乱の中でその弱さを捨てざるを得なかった。わしはそなたがまぶしい。」と。そして秀忠の傍に行き、静かに、でも言葉に力をこめて「戦を求める者たちに天下を渡すな。」と言い、王道と覇道とはと問いました。その問いに自信をもって見事に答える秀忠を見て家康は「そなたこそがそれを成す者と信じている。わしの志を受け継いでくれ。」と思いを伝えました。大坂城で日々鍛錬に励む若き秀頼の成長は目覚ましく、学問も武術も教養も、家臣たちがかなわないと思うほどでした。大野治長はその有り様は今は亡き乱世の名将たちを思い起こさせると言い、そう聞いた茶々は「家康を倒してこその天下」と悔しがりました。そこに片桐且元が京大仏と共に披露する梵鐘に刻む銘文の案を持ってきました。銘文の案に目を通す茶々はある部分に目が留まり、「面白い。」とつぶやいたかと思うと、何かを思い描いているようでした。梵鐘に刻まれた銘文の内容はやがて、本多正純から家康に知らされました。『国家安康 君臣豊楽』ーーその字は、家康の諱を2つに切り分け、さらに豊臣こそが君であるという意味を密かに込めている、というものでした。江戸から高僧の金地院崇伝(田山涼成さん)と儒学者の林羅山(笑い飯哲夫さん)を伴って秀忠が駿府に駆けつけ、家康は二人に意見を求めました。そして本多正信は豊臣との大戦はもう避けられないだろうと進言、家康も秀忠も家臣たちも覚悟を決めざるを得ませんでした。