縄文人
9万年前頃、アフリカに残っていた原人の中から最初の新人であるフルリ人が誕生しました。地球がビュルム氷期にあった頃、アフリカを出発したフルリ人は各地に拡散しエジプト人、メルッハ人、エチオピア人、ヒッタイト人およびヨーロッパではクロマニヨン人になりました。またスンダ大陸は、大変住みよい環境であったため、新人がここに集まりました。そして土着したドラヴィダ人をはじめとするネグロイドや古モンゴロイドが独自の進化を遂げ、農業・漁業や金属文化が始まり、次第に高度な文明を築き、都市生活を営むようになっていきました。そこでは、数千年以上もの長い間人類の【先史文明】が営まれ、世界各地に植民地を持つ都市国家が栄えていたといいます。【オロッコ人】1万3千年頃前に、ワジャック人と先住していたヒッタイト人の混血によってセレベス島のマカッサル周辺で生まれた5000人の群れ。オロッコ人たちは地球の温暖化によってシベリア・バイカル湖周辺に移動していましたが、その中の600人のグループはオホーツク海のイヌイット(エスキモー)となり、別の600人のグループは1万2500年前頃日本列島へ渡来して縄文人になりました。【ワジャック人】・・・後のハワイ人1万5千年前頃、マレー海域においてドライダ人から生まれました。【ヒッタイト】5万年前頃、アラビア半島において、メルッハ人の系統から生まれた新モンゴロイド。【チュルク】2万年前頃、アラビア半島で、ヒッタイトから生まれた新モンゴロイド。【シュメール人】1万8千年前頃、スンダ大陸のバリー、ジャワ、スマトラ辺りでフルリ人の系統から生まれた古モンゴロイド。ビュルム氷期中のスンダ大陸において【先史文明】を築いたのがこのシュメール人。彼らはビュルム氷期の終焉時に起こった大洪水の危機を乗り切って、文明遺産を引き継いだ。この時、指導的役割を果たしたのは、シュメール人の王族・ナーガ族でした。この人々は日本の長髄彦になります。【ツングース】8千年前頃のバイカル湖周辺で、オロッコ人とアーリア人との混血によって生まれた新モンゴロイド。アイヌとも呼ばれ、蒙古班がない。1万2千年前、ビュルム氷期の終焉時に地球上で【大洪水】が起こりスンダ大陸の【前文明】が海没しました。スンダ大陸は姿を消し現在のようなインドネシアの島々が形成されました。シュメール人が率いる人々は、エブス人の船によって脱出し、東南アジア・メコン河の中・下流域に移動して住み着いたようです。彼らは協力して先史文明の再建に努めタイ北東部のコラート高原で彩文土器と青銅器を製造し、イモ栽培を中心とするバンチェン文化の基礎を築いていきました。 【エブス人】1万5千年前頃、セレベス島マカッサル周辺において、ヒクソス人の系統から生まれた新モンゴロイド。【ヒクソス人】3万年前頃、アラビア半島において、メルッハ人の系統から生まれた新モンゴロイド。【港川人】1万2千年前頃、【大洪水】が起こる直前に、セレベス島中部でエブス人とワジャック人との混血によって生まれた新モンゴロド。彼らは、【大洪水】が起こったとき、セレベス島海域から黒潮ルートに沿って北上し、沖縄から九州大隈半島にかけて新石器文化を携えて上陸、西日本を本拠とする縄文人となり、その後、1万1千年後以後、彼らは姶良郡から宮崎県日向地方や熊本県阿蘇地方などへ拡散していきました。縄文時代、長野県尖石遺跡周辺で生活していたオロッコ人は八ヶ岳から産出する黒曜石を加工し、関東、東海、能登半島越前、越中、越後から近畿地方などにかけて頻繁に交易していました。さらに、アワ、ヒエ、キビなどの雑穀栽培にも本格的に踏み出していました。そのため、他と比べて非常に裕福になったオロッコ人の集団内で縄文後期4000~3800年前頃から階級の分化が起こり、同じオロッコ人の集団内部の人々や先住民である旧人と混血した古モンゴロイドの人々を農耕奴隷として使役するようになりました。と、いっても、それはまだ一地域内の部分的な事態であったため、明確に階級社会による国家が成立するまでには至りませんでした。【ダーリ人】 10万年前頃、スンダ大陸の旧人であるソロ人が移動して、黄河流域周辺で非定住の狩猟採取生活を営むようになり、ダーリ人と呼ばれる旧石器人となりましたが、そのダーリ人の一部がマンモスを追って移動し、シベリアから沿海州を経て、1万9千年前頃、当時は陸続きであった日本列島へ渡来し日本海周辺の旧石器文化圏を形成し【黒曜石文化】を担っていましたがやがてオロッコ人が引き継ぎました。また、栃木県の那須高原一帯長野県の塩尻湖周辺および八ヶ岳山麓一帯ではオロッコじんとダーリ人の両者は混血して古モンゴロイドとなり、縄文人文化の担い手になっていきました。やがて,3800年前頃、オロッコ人の集団は環境の寒冷化に促されて移動を始め農耕に適した地を求めて千曲川や信濃川流域へといじゅうしていきました。そのため、尖石遺跡の営みは間もなく無くなったが、この時、一部のオロッコ人グループは海路を辿って出雲を経て周芳湖(山口県旧熊毛郡の諏訪湖)地方へと移動していきました。そして、先住していた同族のコロニー(周芳湖西岸の用田遺跡周辺)に参入しています。