奈良へちょっと日帰りの旅/8月31日(日)
先週末、年休をもらってお休みしました。そして連れ合いと二人で、日帰りで奈良まで小さな旅をしてきました。 行き先は、関東の方ならたぶん修学旅行とかで訪れたことのある薬師寺(写真右=国宝・薬師寺東塔)、そして唐招提寺、おまけにもう1カ所、平城京跡(「平城宮跡」という言い方もします)を徒歩でぐるっと巡ってきました。 関西に住んでいますが、メジャーで有名な寺社でまだ訪れたことがない処が結構あります。奈良では、薬師寺と唐招提寺が僕らにとっては「未踏の寺」でした。 東大寺や興福寺、春日大社などは何度も行ったことがあるのに、なぜか薬師寺、唐招提寺がこの歳になるまで残っていました。いつでも行けると思っているから、気が付いてみると行ってない名所旧跡は案外多いものです。最近はそういうところを一つひとつ訪ねています。 薬師寺や唐招提寺がどこにあるのかも、恥ずかしながら、今回ネットで地図を調べるまではよく知りませんでした(ご存じのように、薬師寺や唐招提寺や他の奈良の有名寺社も含めてユネスコの世界遺産に認定されています)。 薬師寺は近鉄奈良線の西大寺という駅から、橿原線に乗り換えて2駅、「西ノ京」という駅のすぐそばにあります。大阪市内から1時間ほどで行けるとは少々意外でした(写真左=薬師寺北側の同寺玄奘三蔵院伽藍からは、白鳳伽藍の美しい建物群の屋根が見えます。左から東塔、金堂、講堂、西塔)。 薬師寺は7世紀末、天武天皇9年(680年)に創建された法相宗のお寺です。南都七大寺の一つで、東西両塔、金堂、講堂などの立派な大伽藍を持つ寺です。 ただし度重なる火災や戦国時代の戦火で、多くの建物が焼失し、現在白鳳時代の建物がそのまま残っているのは東塔(国宝)のみです。東塔は一見すると六重の塔に見えますが、実際は三重の塔です。 明治時代にこの薬師寺を訪れたフェノロサは、この東塔を見て、「凍れる音楽」と表現したそうですが、その気持ちはよく分かります。伽藍に高い塔を持つ寺は数多くありますが、薬師寺東塔は、美しさでは法隆寺の五重塔に匹敵するでしょう。 長く伽藍が荒れ果てていた薬師寺でしたが、昭和40年代に入り、信者や各地からの寄付金によって金堂、西塔、大講堂などが復興されました。そのおかげで今、私たちは白鳳の美しい伽藍を楽しむことができます。 薬師寺参拝を終えて、北へ徒歩で唐招提寺へ向かいました。15分ほどで南大門に着きます。平日で、少し雨模様とあって、観光客はまばらです。 唐招提寺はご存じ鑑真和上(688~763)が天平宝宇3年(759)に開いた律宗総本山の寺です。鑑真は、仏教の戒律を伝えるため日本から招請された唐の高僧です。 しかし日本への渡航は悪天候のため5回も失敗。6度目でようやく来日に成功した際には、失明するという苦難に見舞われます。 来日当時、鑑真は66歳。日本に滞在できたのはそれから10年ほどでした。再び唐に帰ることなく奈良で没しましたが、仏教普及に果たした功績は測りしれません。 実際に訪れた唐招提寺は、広大な薬師寺と比べると、意外とこじんまりとし寺でした。天平の美を今に伝える国宝の金堂は解体修理中(写真右上)でしたが、静かで荘厳な寺域にたたずむと、心が洗われるような気持ちになります。 なお、有名な鑑真和上像(国宝)は普段は御影堂に安置されていて、毎年和上の命日である6月6日(旧暦の5月6日)の前後1週間のみ開扉(公開)されるとのことです。 唐招提寺を後にした僕らは、さらに北東へ歩みを進めます。30分ほど歩いて国道をはずれると家もまばらになり、広々とした原っぱのような景色が目の前に広がってきます。 ここがかつての都(平城京)の中心でした。今は史跡公園のように整備され、平城宮の南の玄関口であった場所には、復元された朱雀門が堂々と建っています=写真左。 発掘調査は今なお続いていますが、場所が確定した建物(朝堂院など)の地上にはその基礎が復元されたり、礎石の位置が示されています。 2年後の「平城遷都1300年祭」の目玉事業として、大極殿の復元事業も進んでいました=写真右下。奈良時代の建物の詳細を知る手掛かりは少ないので発掘調査のデータのほか、平安京の大極殿(これも今はありませんが、平安神宮の本殿がモデルになるそうです)や唐・長安の大極殿を参考に復元しているとのことです。 史料が少ないので苦労は多いでしょうが、歴史にできるだけ忠実に復元されることを願っています(ちなみに「遷都祭」と言えば、あの変な坊さんキャラの「せんとくん」の話題ばかりが先行していますが、やっぱり、あんまり可愛くないねー(笑))。 平城宮跡は公園のように整備されていますが、なんと言っても広さが甲子園球場の30個分もある広大なスペースです。歩くだけでも疲れます。休憩するには、史跡公園の北西端にある「平城宮跡資料館」がクーラーも利いていて、ラッキーでした。 資料館には発掘調査で出土した瓦や土器、木簡類などが数多く展示されています。当時都には貴族だけでなく、当然、上級・下級役人や庶民もたくさん暮らしていました。木簡からはその暮らしぶりもうかがえます。 同館では平城宮跡の考古学調査と保存の必要性を訴えた先人たちの功績も紹介されていました。高度成長期の開発の波から、また目先のことしか考えない役人たちから、この貴重で広大な遺跡を守りぬいた方々に感謝せずにはおれません。 史跡をただ、歴史やロマンを感じる対象として見るのではなく、「過去の営みを知り、未来を生きる知恵を学ぶ場所」として見ることも必要ではないか。現場に立って僕はそんな思いを強くしました。 半日ハイキングのような旅でしたが、歩きすぎて足が少々疲れました。「エネルギーを少し補給しなければ」と帰り道、近鉄・鶴橋で途中下車。久しぶりに焼き肉をたらふく食って帰りました(「空」=そら=というお店。あぁ旨かった!この店の話は別の機会に記します)。 こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】