【全面改訂版】ハリー・クラドック: 不朽のカクテルブック、語り継がれる伝説/12月3日(金)
【2013年7月13日、内容を全面改訂し、更新しました】 ◆現代カクテルへの扉を開いた「カクテルの帝王(The King Of Cocktail)」 ハリー・マッケルホーンの生涯をまとめた後、もう一人忘れてはならないバーテンダーがいると強く思いました。その人の名は、ハリー・クラドック(Harry Craddock)=写真左。その名前は知らなくとも、ロンドンの名門「サヴォイ・ホテル(Savoy Hotel)」の名や、「サヴォイ・カクテルブック」という本のことは、聞いたことがある方が多いと思います。 クラドックは、1920~30年代、サヴォイ・ホテルの「アメリカン・バー」でチーフ・バーテンダーをつとめた人ですが、今日もなお彼の名を不朽のものにしているのは、この歴史的名著「サヴォイ・カクテルブック」(1930年刊)を著したことです。 ☆世界中のバーテンダーの「教科書」に 世界最古のカクテルブック「How To Mix Drinks」(1862年刊)を著した米国人、ジェリー・トーマス(Jerry Thomas 1830~1885)が「カクテルの祖」であるとすれば、少し遅れて世に出て、「ハリーズ・ニューヨーク・バー」(パリ)を開き、世界初の体系的実用カクテルブック「Harry's ABC Of Mixing Cocktails」(1919年刊)を出版したハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone 1890~1958)は「近代カクテルの父」と言っていいでしょう。 そして、「サヴォイ・カクテルブック」を著し、現代カクテルへの扉を開いたハリー・クラドックは、今なお「カクテルの帝王(キング・オブ・カクテル)」と讃えられています。二人のハリーが生んだカクテルブックは、現在でも世界中のバーテンダーの教科書的存在であり続け、持っていないバーテンダーはほとんどないはずです。 今日伝わっている数多くのスタンダード・カクテルは、マッケルホーンやクラドックがその基礎をつくったと言っても過言ではないのです。しかし、ハリー・クラドックの素顔については、マッケルホーン以上にデータは少ないのです。うらんかんろがが、文献やインターネット上であれこれ調べて得られた、数少ない情報をもとに彼の生涯をたどってみると――。 ☆禁酒法施行で仕事場を失い… クラドックは1875年、英イングランド、コッツウォルズ地方のバーレイ(Burleigh)【注1】という町で生まれました。父親は仕立屋で、母親は織物職人でした。当初は地元の商店で店員として働いていましたが、新大陸アメリカへの移民ブームに刺激され、渡米を考えるようになります。 そして1897年、22歳の時、米国へ渡ります。最初はオハイオ州クリーブランドでウェイターとして働いていましたが、まもなくバーテンダーの職を得ます。その後、シカゴの「パルマー・ハウス」という社交クラブのバーに移った後、さらなる大きな活躍の場を求めて1900年頃、バーの本場・ニューヨークへ向かいます。 有能だったクラドックは、マンハッタンの「オールド・ホランド・ハウス」「ホフマン・ハウス」「ニッカーボッカー・ホテル」など、当時の有名な社交クラブやホテルのバーで職を得ます。終生、米国でバーテンダーとして生きていこうと思った彼は、1917年には米国籍も申請し、認められます(英国籍は残したままの、いわゆる「二重国籍」者となったようですが、欧米では珍しいことではありませんでした)。 しかしその頃から、米国内では不穏な空気が漂ってきました。禁酒法(1920~1933)施行の動きが強まり、お酒を提供するバーやレストランの営業規制が現実のものとなってきたのです。一流クラブのバーで働くことは、クラドックにとって大きな誇りであり、生きがいでした。そのプライドや矜持もあって、禁酒法下の「もぐり酒場」でまで働くつもりはなく、米国を離れる決心をします。住み慣れたニューヨークを、45歳で離れることは大きな決断だったと思います。 1920年、禁酒法施行から間もなく、クラドックは英国行きの船に乗り、ロンドンに戻ります。帰英直後はどこで働いたのかは不明ですが、翌年の21年には、サヴォイ・ホテルの「アメリカン・バー」(1898年開業)にバーテンダーとして迎えられます。そして4年後の1925年にはチーフに抜擢されます。そして仕事のかたわら、ホワイト・レディ、パラダイス、コープス・リバイバーなど後に「スタンダード」となるカクテルを数多く考案していきます。 米国のバー文化やバーテンダーのレベルは、禁酒法施行以前は、欧州に一歩先んじていました。クラドックもそうした優秀なバーテンダーの一人でした。彼が持ち込んだ新しいカクテルの技術や知識は当然、サヴォイで働く英国人バーテンダーにも浸透し、アメリカン・バーの名声はどんどん上がっていきました。 ☆現代版シンガポール・スリングの父 サヴォイでの彼は、ドライ・マティーニのスタイルを完成させ、ラッフルズ・ホテルで生まれた「シンガポール・スリング」のレシピをより近代的なものに改良しました。今日私たちが楽しんでいる一般的なシンガポール・スリングは、ラッフルズのオリジナル・レシピではなく、クラドックが考案したレシピがベースになっています。 彼が生涯に生み出したオリジナル・カクテルは250以上にもなると言われています。そして50代半ばになったクラドックはサヴォイでの仕事の集大成として、カクテルブックを編むことを思い立ちます。これがカクテル史上、最も名著の誉れ高い「サヴォイ・カクテルブック」(1930年刊)です(写真左=The Savoy Hotel)。 このカクテルブックには約880ものレシピが収録され、美しい挿絵も有名です。全世界でベストセラーとなり、今なお版を重ね、バーテンダーのバイブル的存在となっています。日本でも、この本を教科書にして学び始めるプロも多いと聞きます(2002年には初版を下敷きにした日本語版も発売されましたが、残念ながら、初版本の追補部分にあった9種類の最新カクテルが収録されていません)。 1933年、58歳になったクラドックはサヴォイ・ホテルを退職し、同じロンドンの「ドーチェスター・ホテル(Dorchester Hotel)」のバーに迎えられます【注2】。そこで、さらにバーテンダーの仕事を続けますが、1947年、72歳で退職します(当時の新聞が彼の引退を短く報じた記事があります【注3】)。 しかし、有能なクラドックを業界がほおっておく訳がありません。その4年後、「ブラウンズ・ホテル(Brown's Hotel)」の新しいバーの開業を手伝ってほしいと懇願され、1951年、76歳にして再び現役復帰します(最終的に1955年、80歳まで勤めました)。クラドックは1930年に「(禁酒法下の)米国の現状視察」という目的で一度だけ短期間帰米しましたが、その後は終生、英国に留まりました。 ☆寂しい晩年、墓碑も近年まで不明 歴史に名を残した最高のバーテンダー、ハリー・クラドックですが、晩年はあまり脚光を浴びず、ひっそりと表舞台から去りました。そのため、彼がいつ亡くなったのかや、どこの墓地に埋葬され、墓石はどこにあるのかなどは、英国内の関係者でもよく分からなかったようです。 ところが奇しくも没後50年後の2013年、素晴らしいニュースが飛び込んできました。研究者【注4】らの調査によって、彼の埋葬された墓地が確認されたのです! それはロンドン郊外の、ガナーズベリー(Gunnersbury)という場所にありましたが、墓は、無関係な他人2人と一緒の共同墓でした(写真右 (C)Savoystomp.com )。 あまり脚光を浴びることがなかった最晩年を映すかのようで、歴史に残る偉大なバーテンダーとしては、あまりにも寂しい墓碑でした。墓碑にはフルネームの「Harry Lawson Craddock」と没した日付(1963年1月23日)、享年(87歳)だけが記されていました。 2013年3月15日、プリマス・ジン(Plymouth Gin)社【注5】がスポンサーとなり、サヴォイ・ホテル、ドーチェスター・ホテル等の関係者が墓前に集まり、墓碑にカクテルを捧げ、偉大な先人バーテンダーを偲び、たたえました。「英国のバー業界はクラドックに冷たい」と嘆いていた僕ですが、近年になって、クラドックを再認識し、再び敬意を示してくれたことを知り、とても嬉しい気持ちになりました。 「先人の積み重ねがあって、今がある」とは、どの業界にも共通する真理です。世界中のバー業界が、ハリー・クラドックの偉大な功績を、名著「サヴォイ・カクテルブック」とともに、末永く語り継いでいってくれることを心から願わずにはいられません。【注1】ロンドンから西へ200kmほど、コッツウォルズ(Cotswold)地方にある。かつては羊毛産業が栄えたが、現在では「イギリスの原風景が残る美しい田舎」として人気があり、観光客を集めている。【注2】ドーチェスター・ホテルのHPによれば、クラドックを迎え入れた1939年、その記念としてホテルのBARの壁の中に、彼のカクテル3種(マティーニ、マンハッタン、ホワイトレディ)を小瓶に密封して埋め込んだ。そして、40年後の1979年、BARの改装を機に、同ホテルはその小瓶を取り出して調べたところ、品質劣化がほとんどなかったという。【注3】"Harry Craddock, 74-year-old bartender who claims to have invented 250 cocktails, including the "White Lady" and "Paradise" has retired from the bar of the Dorchester hotel in London." ("The Lethbridge Herald" Alberta, Canada (1947))【注4】お酒の歴史についての研究者であるアニスタシア・ミラー(Anistatia Miller)とジャレッド・ブラウン(Jared Brown)。Harry Johnson、Harry Craddockという二人のバーテンダーの知られざる生涯を7年間かけて調べた成果は、2013年1月、共著「The Deans Of Drink」に結実した。【注5】クラドックが自らのマティーニには通常、プリマス・ジンを指定していた。そうした縁もあって、今回の没後50年記念の集いのスポンサーになったという。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】