「コクテール」を生んだ前田米吉氏、その素顔とは/12月30日(土)
日本にカクテルというものが初めて伝わったのは、約150年前、明治の開国直後です。1860年(万延元年)、横浜の外国人居留地に開業した「横浜ホテル」に我が国初のバーが誕生し、その半世紀後の1910年(明治43年)には、銀座に日本で初めての街場のバー「カフエ・プランタン」が生まれました。 大正時代(1912~1926)に入ると、大正デモクラシーの雰囲気も相まって、大都市では相次いでカフエやバーが開店。そして、日本人の手によって初めて体系的な、本格的なカクテルブックが生まれます。今から93年前、1924年(大正13年)のことです。この年、2冊のカクテルブックが誕生しました。秋山徳蔵氏著の「カクテル(混合酒調合法)」、そして、秋山の本から1カ月遅れて出版された前田米吉氏=写真左=著の「コクテール」です。 著者の前田米吉氏は当時、東京・四谷の「カフエライン」という店に勤めるバーテンダーでした。ハードカバー260頁の「コクテール」には、287種のカクテルのレシピが紹介されていますが、その内容(書き方)は実用に徹したものになっています。秋山氏の本が個々のカクテルの作り方をすべて文章だけで表現しているのに対して、前田氏の「コクテール」は「***2分の1、***3分の1」というように、今風の分量表記で作り方を説明しています。 なので、当時のプロのバーテンダーにとっては、前田氏の本の方がより実用的で、仕事に役立つカクテルブックだったに違いありません。洋酒に関する情報や材料が乏しい時代に、このような完成度の高い本を書き上げる苦労は並大抵のものではなかったと思います。本書は、「バー業界の先駆者の汗と涙の結晶」とも言えます。 不思議なことに「コクテール」には、この6年後に出版される歴史的名著「サヴォイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book)」=1930年刊=で、欧米で初めて紹介されたカクテルがいち早く、30数種類も!登場しているのです。なかには、明らかに著者ハリー・クラドック(Harry Craddock)のオリジナルと思われるカクテルも含まれているのが、大きな謎です。出版6年も前に、遠い東洋の日本でどのようにレシピを知り得たのか、非常に興味をそそられるところです。 著者・前田氏は経歴等がほとんど分からない謎の人物でした。私は、復刻版「コクテール」の編者として、「前田氏はおそらく、『カフエライン』に勤める以前に、外国航路の客船でバーテンダーとして働いていて、同僚だった外国人バーテンダーや外国人乗客から直接、サヴォイ・ホテルのバーで1920年代につくられていた(印刷物として紹介される前の)カクテルについて細かな情報を得ていたのではないか」などと記し、想像をかき立てました。 定価は「金五円」と、当時としては決して安くはなかった(【注】)本にも関わらず、数多くの飲食業界(とくにカフエやバー関係)の人たちに支持されたのか、発売後にすぐ再版されています(【注】大正13年当時の「金五円」はどれくらいの価値だったのか。「値段史年表」=朝日新聞社刊=という本によれば、都内・板橋の4部屋の家の家賃が5円20銭、小学校教員の初任給(月給)は12~20円。この本の値段は相当高価なものだったことがわかります)。 しかし残念ながら、「コクテール」は戦前の段階で絶版となり、現在では古書市場でも手に入れることは極めて困難です。私は「貴重な内容がこのまま陽の目を見ないのはもったいない。現在のバーテンダーにもその内容をぜひ紹介したい」と願っていましたが、先般、幸運にも「コクテール」の原本をお持ちのバーテンダーから貸してもらえたのを機会に、その内容をBlogで完全復刻する形で、解説付きで連載することができました(2011年2月~5月)。そしてその際、以下のような「おことわり」を記しました。 「出版から70年以上が経過しているため、出版元の著作権は切れています(一般的には、出版社に帰属する場合がほとんどです)。ただし、前田氏のご遺族がもし著作権を継承していた場合は微妙です。死後まだ70年が経過していなかった場合は、著作権侵害になる恐れがあります。前田米吉氏本人は生年没年不詳で、現在ではご遺族や関係者等まったく消息不明です。出版元で勤務先でもあった『カフェライン』も現在はありません。私自身は前田氏のご遺族と連絡をとりたいと願っていますが、未だ叶っていません。 万一、前田氏のご遺族からクレームがあった場合は、『前田氏の偉大で貴重な功績を後世に伝えるための連載で、私自身、一切の利益は得ていないこと』を伝えて理解していただくつもりですが、ご理解を得られない場合は、その時点で連載は中止し、過去分についてもすべて消去しますので、あらかじめご了解ください。」 幸い、連載中、ご遺族からのクレームはありませんでしたが、残念ながら、連載終了時までにご遺族の消息は不明なままでした。その後、2016年6月に出版された本「進化するBar」(柴田書店刊)の中で、私は、カクテルの歴史を紹介するページを担当させて頂きましたが、その際にも、前田米吉氏については、以下のように書かざるを得ませんでした。 「前田米吉:出身地、生没年ともに不明。1924年、日本初の実用的カクテルブック『コクテール』の著者。出版当時、東京・四谷の「カフェライン」に勤務するバーテンダーという以外、経歴はほとんど伝わっていない。秋山の『カクテル』1カ月遅れで出版された同著には、287のカクテルが紹介されているが、なかには1930年刊の『サヴォイ・カクテルブック』のレシピを先取りしているものもあり、前田氏がロンドンの最新情報に接していたことに驚かされる。」(写真左は、昭和初期の撮影と思われますが、詳しい年月日は不明。) そして、それから約1年経ったある日、(先般もこのBlogでも紹介しましたが)予期せぬ、大変な幸運が巡ってきたのです。Blogを見た前田米吉氏のご子孫が、私に直接ご連絡をくださったのです。直系のご遺族ではありませんが、米吉氏の姪に当たる加代子さん(76)と、そのご長男英樹さん(46)が、それぞれ東京と栃木からわざわざバーUKまでお越しくださいさました(インターネットという発明がなければ、こうした嬉しい出会いもなかった訳です。本当に有難いことです)。 繰り返しになりますが、前田氏は、この歴史的名著の著者としてバー業界ではそれなりに名は知られていますが、これまでは「(出版当時)『カフェライン』でバーテンダーをしていた」ということ以外は、経歴等がまったく不明で、謎の人物でした。今回、そんな故・前田氏の経歴や親族に伝わっている人柄について、貴重で、興味深いお話(情報・データも含め)がたくさん聞けました。嬉しいことに、前田氏に関する貴重な未公開の写真も何枚か頂けました。 とりあえず、今回正確に判明したのが前田氏の生没年です(戸籍謄本や死亡届の写しまでご持参くださいました!)。明治30年(1897年)4月8日生まれで、「コクテール」刊行時はまだ27歳の若さだったことになります。そして、亡くなられたのは昭和14年(1939年)11月27日。42歳という夭折でした。 そして、前田氏の経歴・横顔について、以下のような興味深い貴重なお話が伺えました(カクテル史の空白が、少しは埋められたような気もしています)。 ・鹿児島県吉野町(現・鹿児島市吉野町)の出身。四男三女の三男として生まれた。実家は造園会社を営んでいた。 ・1920年(大正9年)、23歳の時、2歳年上のユワという名の女性と結婚。戸籍をみると子供が一人いたことが分かるが、すぐに亡くなっている。妻も翌年、亡くなっている(その後、再婚したかどうかは不明)。少なくとも直系の子孫はいないという。 ・上京した時期は不明だが、「コクテール」の前書きにも、(出版時点で前田氏は)「多年コクテールの研究者」だったと記されていることからも、結婚後まもない時期(少なくとも1921年までには)には東京でバーテンダーとして働いていたことは間違いない。 ・上京後、前田氏は「カフェライン」でバーテンダーの職を得た(前田氏はなぜバーテンダーの職を志したのか、その理由は不明)が、同時に洋酒の販売も手がけていた。 ・前田氏は「コクテール」出版後に「カフェライン」を退職し、昭和の初め、銀座に自らの酒類販売店「前田米吉本店」を興した。 ・「前田米吉本店」は洋酒だけでなく、瓶詰めのカクテルも販売し、三越百貨店とも取引があったという(当時、新聞広告を出すほど羽振りが良かったらしい。パトロンには李香蘭<山口淑子>もいて、ニッカの竹鶴政孝とも交流があったという)。 ・前田氏は、昭和14年、42歳の若さで亡くなったが、死因は急性アルコール中毒だったという。 私は「前田氏がなぜ、1924年の時点で海外のカクテルについて、あれほど詳しい情報(レシピなど)を入手できたのでしょうか?」「海外に行かれたとか外国航路の客船で働いていたとか聞かれていませんか?」と加代子さん、英樹さんに尋ねました。しかし残念ながら、お二人ともその答えは「現時点ではまったく手がかりはなく、分からないんです」ということでした。 もちろん、1921年頃には東京で飲食の仕事をしていた前田氏が、東京を訪れていた外国人から直接、あれこれ情報を仕入れたという可能性もあります。サヴォイ・ホテルのドリンク・メニューやレシピを何らかの方法で入手できたのかもしれません。しかしそれにしても、サヴォイ・カクテルブックの出版よりも6年も早く、そのカクテル・レシピを紹介できたのは凄いことです。 しかし、お二人が私にお持ちくださったこれまで未公開だった写真の一つ=写真右=に、その答えにつながるかもしれない驚きのヒントがありました。おしゃれな白っぽいスーツを着た前田氏が、なにやら額入りの感謝状のようなものを手にした記念写真ですが、その写真には旧海軍の軍艦が映っています。大正末期か昭和初期か時期は不明ですが、この頃、海軍は欧州に「親善訪問」という名目で艦隊をたびたび派遣しています。 このような感謝状をもらうということは、前田氏はひょっとしてこの艦に乗船して、料理や酒を振る舞う仕事をしたのではないか。そして欧州訪問にまで同行したのではないか。そんな秘話があったとしても決しておかしくないと思っています。 前田米吉氏を巡る謎は、まだ解明された訳ではありません。何よりも「サヴォイホテル(サヴォイ・カクテルブック)」との関係で謎は多く残っています。しかし今回ご子孫のご協力で、少なくとも前田氏の出生地や生没年、そしてバーテンダー、ビジネスマンとしての姿も少しは明らかになりました。加代子さん、英樹さんの温かいお申し出、ご協力に心から感謝したいと思います(将来、ひょっとして前田氏の貴重なカクテルノート等が発見されることを、今は心から願っています)。 以下に、今回初めてご提供頂いた前田氏の他の写真も、紹介しておきます。(昭和初期、「前田米吉本店」開業の頃。前田氏は盛装しています。)(鹿児島の実家前での前田氏。隣で椅子に座っているのは新婚早々の妻ユワさんではないかと考えられています)。***********************************【ご参考】最後に、この歴史的名著「コクテール」の冒頭部分を紹介しておきたいと思います(なお、私の解説を加えた復刻版「コクテール」は現在絶版となっていますが、本文は、拙Blogのリンク「カクテルブック」からお読み頂けます)。 「コクテール」發行に就いて コクテールは欧州戦後【注1】間もなく東京に芽生えまして、お客様の御愛用になる医薬上・衛生上・嗜好上乃至(ないし)交際上快く可からざる新しい飲み物で御座いましたが、震災【注2】の為め生活必需品にあらざるコクテールは一時その影を潜めました。が、段々東京の復興に連れまして、此頃又コクテールの御愛用が多くなりました事は誠に結構な事と存じます。 奢侈(しゃし)を戒め、勤倹を勤むるは勿論の事で御座いますけれども、徒(いたずら)に思想や生活問題の悲観にのみ沈んで向上を唱えないのは、個人としても発展の途ではありません。東京としても復興の意氣ではありません。又國家としても新興の策ではないと存じます。 この意味に於きまして寧(むし)ろ恐ろしき震災の記憶を新たにするよりも、過ぎ去ったことは忘れて仕舞い、希望ある将来を追求して大いに働き、大いに食ふと云うことが、今日の東京のお方に尤(もっと)も必要な事ではないかと存じます。 コクテールには医薬・衛生・嗜好或いは交際場に於きまして、必ずしも奢侈品とは申されません。一日の労務に依って得た一部を以(もっ)て、此の無量の快感を与える一盃のコクテールを傾けるのは同時に翌日の為に無限のお活動力を貯えるので御座いまして、如斯くにして個人も社会も國家も向上発展して行くのではないかと存じます。 閑話休題。コクテールは其の配合すべき各種飲料並びに香料等に一定の分量が極まって居りまして、此の分量が違っては医薬にもならず嗜好にも適しませんのみならず、却って身体に害があります。又、各種分量をコクテールセーカに入れてセーク(攪拌)するにも、一つの技術を要します。 そこで優秀なバーテンダーが居ない処のコクテールは多くお客様の嗜好に適しません。是はコクテールの流行が最近でありまして、其の知識が普及されて居りませんのと、研究すべき何等の材料も御座いませんので止むを得ない次第で御座います。 其の為め、多くのカフエー業者並びに一般の御家庭でも何かコクテールに関する著述を渇望して御出でになる矢先に、多年コクテールの研究者前田米吉さん【注3】が此の大方の御希望を満たす為め、其の蘊蓄(うんちく)を極めたバーテンダーの「六韜三略(りくとうさんりゃく)」【注4】とも申すべき所謂(いわゆる)「虎の巻」を開放して、茲(ここ)に此の処方を發刊する事になりましたのは勿論、一般御家庭に取っても天来の福音でありまして、同時に日本コクテール界の為め祝ばしき事で御座います。 因みに著者は当分、弊店のバーテンダーとして働かれますから本書に就き御氣付きの点は御遠慮なく御叱正賜り度く御願ひ致します。 大正十三年十月【注5】 カフエライン【注6】 主人 天草 よし 識(しる)す【注1】「欧州戦後」の「欧州戦」とは第一次世界大戦(1914~1918)のことを指す。【注2】この「震災」とはもちろん、この「コクテール」発刊の前年の1923年に発生し、首都圏を中心に死者・行方不明者約10万5千人余という惨事となった関東大震災のこと。【注3】本書の著者である前田米吉氏については、その写真は本書に掲載されているものの、「当時、カフエラインに勤めていたバーテンダー」ということ以外、生年没年、経歴などはまったく不明の謎だらけの人物である。【注4】「六韜三略」とは、中国古代の代表的な兵法書である「武経七書」のうちの「六韜」と「三略」を指す。紀元前11世紀、周の軍師・呂尚が編んだとされるが、著者については他にも諸説あるという。ちなみに呂尚は別名を「太公望」とも言い、釣り好きの代名詞として今日でもその名を残している。また「六韜」の中の「虎韜」は、今日で言う「虎の巻」の語源(由来)であるとされる(出典:Wikipedia)。【注5】この前書きが書かれた日付は「大正十三年十月」だが、本書が実際に発刊されたのは翌「十一月五日」だった。このため、「日本初のカクテルブック」の称号は、同年十月にいち早く出版された秋山徳蔵氏の「カクテル(混合酒調合法)」に譲ることとなった。【注6】本書の出版元でもある「カフエライン」は大正期に東京に数多く開店したカフエの一つだが、現在は存在していない。本の奥付によれば、住所は「東京市四谷区鹽(しお)町2丁目1番地」とある。「鹽町」は東京の旧町名専門サイトによれば、1947年まで存在した町名で、現在の地下鉄・丸の内線「四谷三丁目駅」付近だという。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】