【カクテル・ヒストリア】(24)ジム・ミーハン(Jim Meehan)に学ぶクラシック・カクテル
WEBマガジン「リカル(LIQUL)」連載 【カクテル・ヒストリア第24回】 ジム・ミーハンに学ぶクラシック・カクテル ◆今や、全米で一番注目されるバーテンダー ジム・ミーハン(Jim Meehan)という名前を聞いて、ピンと来た貴方は相当なマニアックな「カクテル通」だ。現在確か46歳。ニューヨークの名立たるバーで修業して人気を得て、その後2007年に、禁酒法時代の“もぐり酒場”を彷彿とさせる、自らのバー「PDT」を立ち上げた。「PDT」とは「Please Don‘t Tell(誰にも言わないで)」の略で、まさに「秘密の酒場空間」にふさわしい店名だった。 「PDT」は2011年の世界のベストバー・ランキングで第1位に輝き、同年には、その店名を冠したカクテルブック「The PDT Cocktail Book」(写真右下。以下、「PDT」と略)なる著書も出版。ミーハン氏はその才能と技術の高さで、名実ともに、全米で最も注目されるバーテンダーとなった(写真左=ジム・ミーハン氏 (C) Meehan's Bartender Manual)。 そして2017年には、自らの生き様の集大成とも言える「ミーハンズ・バーテンダー・マニュアル(Meehan’s Bartender Manual)」を世に送った。この本は、単なるカクテルブックではない。バーテンディングや道具の扱いなどの実務からバー開業・経営のノウハウまで、ミーハン氏はその幅広い知識や見識を惜し気もなく披露している。 嬉しいことに、昨年(2022年)12月、この「バーテンダー・マニュアル」の日本語翻訳版(楽工社・刊)が出版された。せっかくなので、前著の「PDT」とともに、この近著の内容を少し紹介してみたい。 ◆「古典」に深い造詣、起源や初出文献にもこだわる 2011年に出版された「PDT」は、ミーハン氏自身が「サヴォイ・カクテルブックの精神にのっとって、カクテルの歴史が変わる瞬間として多くの人の記憶に残したいものを切り取ってまとめた」と書いているように、レシピ中心の本である。305種類のカクテルを独特のイラストで彩りながら紹介している。このうち、105がいわゆるクラシック・カクテルで、59はミーハン氏自身のオリジナルや共作カクテル、残り141がミーハン氏と同時代第三者のオリジナルである。 奇しくも、ミーハン氏がこの「PDT」を著す少し前の2000年代後半から、欧米の大都市のバーでは、クラシック・カクテルを現代に再評価するブームが起こりつつあった。ミーハン氏もおそらくはそのようなブームを意識したことは間違いないだろう。元々、クラシック・カクテルへの興味を人一倍持ち、2000年代初頭から、絶版となっている様々な古い文献(カクテルブック)を探しては、「過去」に学んでいた。 「PDT」の中でミーハン氏は、自らが選んだ「クラシック」について、初出文献や出版年を丁寧に触れている。面白いのは、ビジュー・カクテル、クローバー・クラブ、メアリー・ピックフォード、モンキー・グランド、サウスサイド、ヴュ・カレ等々、日本ではほとんど注目されることのないような、「忘れられたクラシック」を数多く選んでいることだ。私は、ミーハン氏ほど、クラシック・カクテルへの関心を隠さず、なおかつその出典や起源(歴史)にこだわるバーテンダーを知らない。 ◆バーテンダーの仕事全般に焦点を当てた近著 今回日本語版が出版された「ミーハンズ・バーテンダー・マニュアル」(写真左下)は、約500ページに及ぶ大著である。「PDT」から6年の歳月を経て、この本を著した動機について、彼は前書きで、「多層構造であるバーテンダーの仕事そのもの」に焦点を当てたかったと綴る。 収録カクテルの数は99点で、前著に比べてかなり少ないが、うち69はクラシック・カクテルだ(残り30はミーハンのオリジナルまたは共作)。オリジナル以外のカクテルについては、そのすべてで「出典や起源、由来」に触れており、ヒストリアン(歴史研究者)としてのミーハン氏のこだわりが目立つ。 例えば、これまで定説のなかった「コスモポリタン」の起源については、「トビ―・チェッキーニが1988年にニューヨークのジ・オデオンで創作した」というあまり知られていない事実に光を当て、「ピスコ・サワー」については1903年にペルーで作られたパンフレットにその原型が登場することを紹介するなど、その誕生にまつわるストーリーについても、詳しく触れている。 ちなみに、「クラシック」として収録した69のカクテルのうち約7割は「PDT」でも取り上げたもので、ミーハン氏がカクテル史の中で、とくに「大切」で「重要」と考えるものなのだろう。 私が感心するのは、コープス・リバイバー、ハンキー・パンキー、ラスト・ワードなど日本のバーではあまり馴染みのないカクテルと、日本も含め世界中のバーで人気のダイキリ、ジン・トニック、ギムレット、ジャック・ローズ、マイタイ、マルガリータ、モヒートなどのカクテルがバランスよく選ばれていることだ(なかには、アブサン・ドリップ、ジャパニーズ・カクテル、シェリー・コブラーなどというマニアックなものもある)。(写真右=ミーハン氏が2008年に考案したオリジナル「メスカル・ミュール」はすでに、「モダン・クラシック」として定着している。(C) Meehan's Bartender Manualから)。 ◆「クラシック」を未来へ継承するために ミーハン氏は以前、あるインタビューで「21世紀の食材と技術を用いて、古典的レシピや失われたレシピを現代に定義し、未来へ橋渡ししていくのが私の責務だと思う」と語っていた。確かに、同じお酒や材料がない現代で、完全に昔と同じクラシック・カクテルの再現は不可能だ。それ故、自著で「クラシック」のレシピを紹介する際、時には、ミーハン流の「提案」を加えている。 彼は近著の中でこうも言う。「バーの中で伝えられることは概ね口移しと伝聞に過ぎない。レシピもしょせんは藪の中の話だ。だからこそ、バーテンダーや現代のカクテル史家は、これからの世代のために、フーミュラ(公式)や実践技術をもっとオープンにして、商売敵に勝つために秘密にするのではなく、文字にして記録して、みんなで共有できるようにすべきだ」と。 私もまったく同感だ。現代のカクテルも、何十年か経てば、“クラシック(スタンダード)”扱いされるかもしれない。その時のためにも、レシピや誕生にまつわる情報は文字として残しておくべきだ。ミーハン氏もおそらく、それが自らの「使命」だと考えているのだろうと信じる。 2019年にバー「PDT」を離れたミーハン氏は、オレゴン州ポートランドへ転居。現在はバー・コンサルタントやラム・メーカーの顧問として活躍しながら、日本企業がオープンした現地の和風バー&レストラン「TAKIBI」(写真左=「TAKIBI」のHPから)で、バー部門の責任者として、新たな挑戦を続けている。今回の大著はおそらく、彼にとっては「通過点」の一つだろうが、間違いなくカクテル史に残る1冊になるだろう。ミーハン氏のようなバーテンダーが同時代にいることを、私は本当に嬉しく思う。 ************************************【今回に限定した追記】ミーハン氏の今回の著書の日本語翻訳版には、明らかに誤植・誤記と思われる部分が2カ所、さらには翻訳文や用語で「私が気になった部分」もありました。加えて、ミーハン氏と私の見解が相違する部分もありましたので、以下紹介しておきます。 なお、もとより、カクテルの起源や由来というものは、裏付けとなる一次資料=証拠がない限り、信頼性に保証はありません。なので、私は常に、一次資料(または一次資料の復刻版)や当事者の証言に基づいて、これまでカクテルの歴史や起源・由来について発信してきました。 一次資料にこだわり、できる限り事実・真実に迫ろうという姿勢はミーハン氏も同じです。私はこのようなミーハン氏の姿勢を以前から尊敬しており、(どちらの見解が正しいか等々の)論争するつもりは毛頭ありません。今後もミーハン氏とは切磋琢磨しながら、バー業界の発展のために、クラシック・カクテルの歴史研究に一層努めていきたいと思っています(なお、この【追記】部分を掲載することに関しては、出版社である楽工社編集部からも了解を頂いています)。 【誤植・誤記】 ◆P247 ハンキー・パンキー「起源」のところの4行目、「俳優のチャールズ・ホートリー(英国の喜劇俳優、1914ー1988)のために創作した」の部分、ホートリーの生没年が間違っています。サヴォイホテルのヘッド・バーテンダー、エイダ・コールマンが「バーの顧客だったホートリーのために考案した」のは歴史的事実ですが、彼女は1925年にバーを退職しています。「ハンキー・パンキー」が考案された時期は1920年代前半と考えられていますから、このホートリーさんがもし1914年生まれなら、6歳~10歳頃にバーで出入りし酒を飲んでいたことになりますが、そんなことは当然あり得ません。実は、英国には、同姓同名のチャールズ・ホートリー(Charles Hawtrey)という俳優(喜劇役者ではないようです)がいます。こちらのホートリーさんは「1858年生まれ、1923年に没」。コールマンは、常連客だったこちらのホートリーさんのために「ハンキー・パンキー」をつくったのです。ご参考(英語版Wikipedia) → https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Hawtrey_(actor,_born_1858)「ミーハンズ・バーテンダー・マニュアル」英語版の原文には「(英国の喜劇俳優、1914ー1988)」という部分はなく、翻訳版をつくるときに補われたようですが、その際、同姓同名の別人と取り違えてしまったのだとと思います。 ◆P291 パロマ「基礎知識」の中ほど、「ウェブサイトによると、1955年にはスクワートがメキシコに輸入されており、メーカーの1950年代にはアロマのようなカクテルの割材として好まれていました」とありますが、英語版の原文を確認したところ、ここに出てくる「アロマ」は間違いで、正しくは「パロマ」です。重要な固有名詞の間違いなので、出版社の編集部には、上記の「ハンキー・パンキー」での間違いとともに伝えました(重版からは訂正するとのことでした)。 【ミーハン氏と私の見解が相違する部分】 ◆P203 ブラッディ・メアリー考案者がピート・プティオ(Pete Petiot)氏であることは、専門家の間でもほぼ意見は一致していますが、誕生の時期については今なお諸説あります。考案の時期について、ミーハン氏は、プティオ氏がニューヨークのセントレジス・ホテルで働いていた時期の1934年頃と記しています。しかし、プティオ氏が(渡米前に働いていた)パリの「ハリーズ・ニューヨークバー」時代の1920年代初頭に、すでに考案していたという説もあります。実際、ハリーズ・バー側は、現在でも「当時勤務していたプティオ氏が考案し、誕生したのはハリーズ・バーである」と主張しています。ミーハン氏はブラッディ・メアリーのページで、ハリーズ・バー時代のことには一切触れていませんが、この点は少し気になりました。何よりもプティオ氏自身が、「ブラッディ・メアリー」誕生の経緯について触れた雑誌「News Week」での1967年のインタビュー(先般出版された「ハリーズ・バー100周年記念本」にも一部収録)で、「ハリーズ・バー時代の1920年に考案した」と語っています(当時は、ウオッカとトマト・ジュースの割合は1:1だったそうですが)。プティオ氏は、このインタビュー時は66歳。専門家の間でも「40年以上前の話で、おぼろげな記憶に基づく(プティオ氏の)証言は、100%信用できない。1920年代前半には、新鮮なトマトは特定の季節しか手に入らなかったはず。通年のカクテルとしては提供できなかったと思う」という人もいますが、考案者本人の言葉なので、無視はできません。ともあれ、1917年のロシア革命後、供給がストップしていたウオッカも20年代後半には東欧で本格的に生産再開され、米国製の缶入りのトマトジュースが、少なくとも1928年までにはパリでも使えるようになっていたことから考えると、当時、「ブラッディ・メアリー」という名前だったかどうかはともかく、プティオ氏が考案したウオッカとトマトジュースのカクテルの「起源」を、現段階で「1934年」と断定してしまうのは疑問が多いと私は考えています。「ブラッディ・メアリー」というカクテル名について、「バーテンダー・マニュアル」では、1934年にプティオ氏がセントレジス・ホテルで働き始めた頃、顧客からの一言をヒントに思いついたというエピソードが紹介されています。曰く「シカゴから来たお客様が口にした、Bloody Maryというあだ名のウェイトレスのことがプティオ氏の心に刻まれた。しかし、ホテルのオーナーが反対したので、メニューには『レッド・スナッパー』という名で登場することになった」と(原文は以下の通り)。In 1934、Fernand Petiot of New York's King Cole Bar at the St. Regis Hotel served a spiced tomato juice cocktail to guests from Chicago; they told him it reminded them of a waitress nicknamed Bloody Mary, and the name stuck. Hotel owner Vincent Astor disapproved of the name, so it went on the menu as the Red Snapper.ミーハン氏は、「ブラッディ・メアリー」というカクテル名はセントレジス・ホテル時代に誕生したという見解のようです(実際、1934年当時、セントレジス・ホテルのバー・メニューに「ブラッディ・メアリー」を入れようとしたプティオ氏が、オーナーに反対されて「レッド・スナッパー」という名前に変えたというのは事実です。 しかも、当時米国ではウオッカの入手が困難だったため、ベースの酒はジンに変えざるを得ませんでした。戦後、米国へのウオッカの本格輸入が始まって再びベースはウオッカに戻り、1948年までには名前も「ブラッディ・メアリー」へ復活したようですが、セントレジス・ホテルのHPによれば、同ホテルのメニューでは、理由は不明ですが、現在再び「レッド・スナッパー」の名に戻しているようです。この変更を、今は亡きプティオ氏はどう思っているのでしょうか…)。ハリーズ・バー時代からすでに「ブラッディ・メアリー」と呼ばれていたという見解もありますが、私は、ミーハン氏の上記の見解(説)にあえて異論は唱えません(ハリーズ・バー時代に「ブラッディ・メアリー」が登場していたという確実な証拠=一次資料も、現時点では確認されていないからです)。しかし私は、「カクテル・ヒストリア」ではミーハン氏とは違う見解に基づいて執筆しています。その根拠となっているのは、(ミーハン氏の著書にも登場する)デイル・デグロフ氏が自著で紹介している説(【ご参考】この項の末尾の私の連載記事の引用で紹介)やプティオ氏自身の後年の証言です。曰く「それは1920年だった。パリのハリーズ・バーで働いていた頃、ウオッカとトマト・ジュースのカクテルを考案した。割合は1:1でつくって、お客様もとても喜んでくれた。名前は、若いスタッフが『Bloody Mary』というのを提案してきたんだ。彼にはMaryというガールフレンドがいてね…」と。すなわち、プティオ氏自身は、ハリーズ・バー時代にすでに「ブラッディ・メアリー」という名のカクテルはできていたというのです(プティオ証言の信憑性を指摘する専門家もいます。1920~30年代前半のハリーズ・バーのメニューが見つかって、Bloody Maryが載っているかどうか確認できればいいなぁと願っています)。以下、私の連載記事から少し引用しておきます。「また、「ブラディー(血にまみれた、無慈悲な)・メアリー」という恐ろしそうな名前の由来については、16世紀半ば、宗教弾圧で多数のプロテスタント教徒を処刑した英女王メアリー1世に由来するというのが定説となってきた(珍説としては、ベースであるウオッカの創業者「ウラジミール・スミルノフ」の名前が欧米人には発音しにくく、「ウラジミール」が転じて「ブラディー・メアリー」になったという話も → 出典:Wikipedia英語版)。しかし、1999年に出版された「Vintage Cocktails」や、2002年に米国の著名なカクテル研究家デイル・デグロフが著した「The Craft of the Cocktail」などは少し違う説を紹介している。曰く、「当初は『Bucket of Blood』(「バケツ一杯の血」の意)という名だった。しかし、その後常連客だったメアリーという女性の名にちなんで、『ブラディー・メアリー』に変わった。その客は相手の男性にいつも待ちぼうけを食わされ、寂しそうにプティオのつくるトマト・カクテルを飲んでいた。その様子がまるで、長期間幽閉されていた女王メアリーの孤独に相通じるものがあった」という。 えっ? 残酷な女王の「無慈悲」というイメージ由来ではなかったの?そして極めつけが、2012年に出版されたハリーズ・ニューヨーク・バーの「100周年記念本(原題:HARRY’S BAR THE ORIGINAL)」。1967年発行の雑誌「News Week」の記事を引用する形で、プティオ氏の驚くべき証言を紹介している。プティオ氏は1934年に米国へ渡り、シカゴの有名ホテルのバーテンダーとなっていた(67年当時は66歳)。プティオ氏は言う。「(カクテル名は)ハリーズ・バーにいた後輩のスタッフが提案してきたんだ。(禁酒法時代、シカゴにあったナイトクラブ)『Bucket of Blood Club』を思い起こさせるって。そして当時、彼にはメアリーという名前の恋人がいたんだ」。本当なのかと思いたくなる証言。今まで信じていた「メアリー1世」説は何だったのか…。」 ◆P272 ダイキリ「バ―テンダー・マニュアル」では、「印刷物に残された最も古いダイキリのレシピは1914年発行のジャック・シュトラウブ著の『Drinks』に収録されています」と紹介されていますが、1913年に米国で出版された「Sideboard Manual」というカクテルブックに1年早く登場しています。 ◆P369 ジャック・ローズ「印刷物に載ったのは1910年の『Jack's Manual』が最初です」と紹介されていますが、1908年に米国で出版されたWilliam Boothbyのカクテルブック「The World Drinks and How To Mix Them」の巻末追補ページに(2年早く)ジャック・ローズは登場しています。 【翻訳文や用語で気になった部分】 ◆P225 マティーニ「起源」の部分、「フランク・ニューマンは、1904年発行の著書『American Bar』の中で、マルティーニ・ドライ・ベルモットでつくる『ドライ・マティーニ』を取り上げています。これを読んでわたしは、このベルモットのブランドの評判は、その名前にかなり影響を受けていると考えるようになりました(マルティーニとマティーニっは綴りが同じ)」とありますが、この翻訳文が、私にはすんなり頭に入ってきません。原文の英語を確認してみると、以下のようになっていました。Frank Newman lists a "Dry Martini" prepared with Martini dry vermouth in his 1904 French bar guide, American Bar which leads me to believe the reputation of the vermouth brand had something to do with the name's sticking.「ベルモットのブランド(vermouth brand)」とは当然「マルティーニ」のことを指しているのでしょうから、ミーハン氏は、「(マティーニという)このカクテルの名前が定着していく過程で、マルティーニのというベルモット・ブランドの評判(評価)がかなり影響している(関係している)と考えるようになりました」という意味で記したのではないかと理解したのですが…。さて、皆さんはどのように思われるでしょうか? ◆P239 ラモス・ジン・フィズこのカクテルだけでなく他にも何カ所か登場しますが、レシピとところで、Orange Flower Waterに「オレンジ花水」という訳語を当てているのが少し気になりました。日本のバー業界でも、「オレンジ・フラワー・ウォーター」とそのままカタカナでの表記が一般的だと思います。無理に「花水」という訳語をつくる必要はないかと…。 ◆P244 ホワイト・レディほか多数他のカクテルでもたびたび登場しますが、「ファイン・ストレイン(fine strain)」という言葉をそのまま使っているのが少し気になりました。プロのバーテンダーなら、よーく考えれば意味が分かるかもしれませんが…一般の読者には分かりにくいのではないかと思いました(かと言って、私も適切な訳語は思い浮かばず、申し訳ありませんが…)。 (※P114を読めば「目の細かいストレーナーを使って二度漉し」することだと分かりますが…、できれば巻末INDEXの「ふ」の項に、「ファイン・ストレイン………114」と追加して頂ければ、読者に親切かと思いました)。 ◆P291 パロマ「基礎知識」の中ほど、「それ(2005年)以前には、いかなるレシピ・ガイドを見ても、こうした材料の組み合わせ(※テキーラ+ライム・ジュース+スクワート)やカクテル名(※「パロマ」のこと)は出てきませんが、」に続く部分です。「ウェブサイトによると、1955年にはスクワートがメキシコに輸入されており、メーカーの1950年代にはアロマのようなカクテルの割材として好まれていました」とあります(前述したように、ここに出てくる「アロマ」は間違いで、正しくは「パロマ」です)。この日本語の文章の意味がよく分からない(とくに「メーカーの1950年代には」という表現は、意味が?です)ので、その少し前の部分から、英語版の原文を確認してみました。Neither the combination of ingredients nor the name appears in any recipe guides before this, despite Squirt's being imported to Mexico in 1955 and the maker's claim, on their website, that is became popular as a mixer in cocktails like the Paloma in the 1950s.私の解釈ですが、ミーハン氏は、「スクワートは1955年にメキシコに輸入され、1950年代にパロマなどのカクテルのミキサーとして普及したとメーカーが自社のウェブサイトで発表していますが、それ(2005年)以前のレシピガイドには、こうした原材料の組み合わせもカクテル名も見当たりません」という意味で書いているのではないかと推察しています。 ◆P367 サイドカーカクテル本の著者「ロバート・ヴェルメイル」という方の名前(P345の「トロント」にも登場)の日本語表記ですが、日本では「ヴァ―マイヤー」または「ヴェルマイヤー」という表記の方がすでに、ほぼ定着しているので、個人的には少し違和感がありました。 *****************************なお、私が今回「ミーハンズ・バーテンダー・マニュアル」を読んで、いくつかの疑問点を感じたからと言って、この本の価値に傷が付くことはまったくないと思っています。この大著は、それぞれのカクテルの歴史的な部分について、情熱を持ってとても丁寧に調べて、書かれた労作です。実際、現代の世界のバー業界で、ミーハン氏ほどカクテルの起源や歴史を大切に考え、それを実践して、発信しているバーテンダーを他には知りません。はっきり言って、この「バーテンダーズ・マニュアル」は賞賛に値する本だと思います(値段はやや高いですが…(笑))。あれこれ指摘しましたが、だからと言って、ミーハン氏に対する私の個人的な評価はまったく変わりません、と言うか、今回の大著を読んで、彼に対する尊敬の念がさらに増したような気もします。次回彼が来日する際には、ぜひ会えることを心から願っています。・WEBマガジン「リカル(LIQUL)」上での連載をご覧になりたい方は、こちらへ・連載「カクテル・ヒストリア」過去分は、こちらへ