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studio PINE SQUARE

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RC200t

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RC200t@ Re[1]:セナのいた季節(1989-1994)(05/21) 元H@さんへ >やっぱりあの時代の象徴な…
元H@@ Re:セナのいた季節(1989-1994)(05/21) あの頃のF1はセナを軸に面白いレースが数…
元H@@ Re:ミスター・フォゲッタブル(プロスト JS45 無限ホンダ)(04/08) お久しぶりです。 このクルマ、私も購入し…
2024.07.16
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カテゴリ:F1
​ ​F1参戦800レースの節目を迎えて「うちらの起源は1977年」とあらためて宣言した感のあるウィリアムズ・レーシング。創業者であるフランク卿が、それ以前の活動について黒歴史と思っていたかどうか今となっては知る由もないが、決まったタニマチがいない貧乏所帯の大黒柱として金策に奔走する日々だったことは想像に難くない。金のために下げたくもない頭を下げる毎日は少なくとも楽しい想い出とは言えんだろう。そこを汲み取って「起源は1977」としたなら、現運営母体(ドリントン・キャピタル)も大したもんだと思うけど、はてさて。
 1977年に心機一転、現代に続く「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」を旗揚げする以前、ブラバムやマーチといった市販レーシングカーを購入していた「フランク・ウィリアムズ・レーシング・カーズ」時代については過去記事(​​カルロス・パーチェのマーチ711​​)でも触れたが、今回はレーシングカーを購入する立場から自社でマシンを製造するコンストラクターへと脱却しつつある時代のハナシ。タイミングよくリリースされたんで。



 ウィリアムズとタバコといえば、即答で最強時代のキャメルやロスマンズ。対してマルボロは毎年のように丁々発止を繰り広げたマクラーレンの代名詞であり、ウィリアムズとマルボロは直結しないイメージなんだが、それは両者が組んだこの時代に疎遠の芽が生まれたのかも知れない。
 そもそもウィリアムズチームが冠スポンサーを迎えることが出来たのは、ロータスがゴールドリーフカラーを纏ってから4年もあとのこと。ご存知モチュールとイタリアの玩具メーカー・ポリトイが名乗りを上げ、​​濃紺のマーチにロゴをデカデカと広告​した。さらに資金を投入してウィリアムズ製マシンの製作を後押しした。その見返りは「マシン名はポリトイにしてね♡」。ウィリアムズが自分の名前を殺してでもコンストラクターとして立ちたかったのは、コンストラクターになってFOCAに加盟すれば、転戦旅費がFOCAから支給されるからだ。



↑アンリ・ペスカローロ駆るウィリアムズ初の自製マシン「ポリトイFX3フォード」。
1972年イギリスGPでデビューを果たしたが、その一戦でクラッシュ大破。修理費を賄えないチームは即座の修理を断念した。この不甲斐ない結果が大いに不満だったのか、ポリトイはたった一年でスポンサーを降りた。
 翌73年は、どういう魔法を使ったのか知らないがこの業界になくてはならないマルボロに加えてイタリアのスポーツカーメーカー・イソを引っ張ってきた。今度は自分の方から「マシン名はそっちの名前でいいですよ」と言いくるめたのかも知れない。



スパーク1/43 イソ-マルボロ FX3B フォード
1973年南アフリカGP DNF
#20 ジャッキー・プレトリウス

 ウィリアムズの魂ともいえる濃紺のボディから、マルボロの赤そしてイソへの配慮からかグリーンを加えてトリコローレ・イタリアーノとし、マシン名をイソ-マルボロとした。FX3Bの名称どおり、前年イギリスGPでクラッシュ大破したポリトイFX3を時間をかけて修理し小改造を施したもの。
第3戦南アフリカ・キャラミではレギュラードライバーのナンニ・ギャリが他カテゴリレースで負傷したため急遽地元ドライバーのジャッキー・プレトリウスがドライブすることとなったが、オーバーヒートによりリタイアという戦績で、FX3Bは序盤3戦をもって引退し、73年のレギュレーション(衝突安全性)により合致したニューマシンが投入されることになる。



スパーク1/43 イソ-マルボロ IR フォード
1973年イギリスGP DNF
#26 グラハム・マクレー

 73年のF1レギュレーションでは、衝突安全性とくに側面衝突時にドライバーと燃タンを保護する目的で衝撃吸収構造が義務付けられた。FX3Bでも燃タンを保護するため発泡素材(もしくはゴム素材)が取り付けられて(ボディサイドが子持ちシシャモのようになって)はいるが必要十分とはいえず、トレンドはラジエーターやその吸気口を衝撃吸収材としても兼用することであり、ウィリアムズもそれに倣うことにした。ただし設計年が古いFX3系を全面大改造するよりは一から作った方が手っ取り早いという判断で開発されたのがIRだ。同期デビューは一時代を築くことになるヤードレー・マクラーレンM23だが、それに比べるとかなり武骨な印象で、素人目にもお世辞にも速いマシンとは思えん(笑)。
この年のウィリアムズはハウデン・ガンレイをエースドライバーとして、セカンドドライバーはペイドライバーをとっかえひっかえ。ボディがマルボロカラーで染まり、さぞ潤沢な予算がと思いきやそうでもなかったのか、あるいはマルボロ・マネーはそれまでの借金返済に消えてしまったのかも知れんね。



スパーク1/43 イソ-マルボロ FW フォード
1974年イタリアGP 4位
#20 アルトゥーロ・メルツァリオ

 今と違って同一シャシーの年をまたいでの使いまわしが当たり前の時代。IRを改修(主にサスジオメトリー見直し。ジャンパオロ・ダラーラが担当)した。イソからの資金提供が滞り始めて、それならマシン名にふたつもイソの名を冠する必要も忖度も必要ねえだろということか、IRあらためFWとした。またマシン全体のカラーもイタリアに固執する必要がなくなりイタリアン・トリコロールからマルボロ一色に改められた。
 この年のエースは、マルボロを体現したテンガロンハットの男アルトゥーロ・メルツァリオ。南アフリカで6位、モンツァでも4位に入ってひとり気を吐いたが、それ以外は大抵リタイアさらにセカンドのペイドライバーは予選落ちを繰り返して全体的な戦績は低迷した。それが理由かわからないがイソに続きマルボロもスポンサーから撤退した。​
 冠スポンサーを失ったので、翌75年はイソ-マルボロの看板を外してウィリアムズFWとして参戦することになる。因みに、3台あるシャシーすべてに番号を振り当ててFW01、02、03としたが、現代の括りで言えば同一の車種である。(この項つづく)





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Last updated  2024.07.16 05:38:04
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