米朝首脳会談後の記者会見で、トランプ大統領は、北朝鮮非核化の費用について日本と韓国の名前を挙げた。この発言は、はたして、安倍総理と事前に協議した結果なのであろうか?
勿論、「拉致問題が解決すれば」という前提条件付きなら理解できるし、私は、平壌宣言がいかに歴史を知らない外務省幹部、小泉元首相が作成したものとはいえ、これを守る必要があると思っている。当然「拉致問題が解決する」という入口がある。「拉致問題の解決」は非核化、日朝国交樹立の結果つまりは出口論などではありえないのである。
「拉致」とは何か?改めて問い直してみる時期であろう。
「拉致」とは
「基本的人権の侵犯行為」である。(人権と簡単に言うが、我が国における人権と米国における人権は多少異なる。が基本的人権とは、すべての国々に該当する問題だということである。)
この問題を見ていくと、「日本における人権」がいかに大切にされてきているのか?普段は当り前のように感じていることが、実は当り前ではないことに気がつくきっかけとなる。それは「日本人であること」のアイデンティティーの重要性を十分に正当化するものとなろう。
そのようなことがない限り「当たり前」としてみすごいしてしまっていることが如何にも多い8のである。
我が国領土から力づくで拉致する行為は、明らかに「神聖なる国家主権の侵害好意」に当たる。(これは領土に対する侵略同じレベルである)
従って、「拉致問題の解決」とは原状復帰しか意味しない。
ここで少なからぬ「主権を曲解、誤解する人」は、いや北朝鮮で拉致被害者たちは新たな家庭を築いている、その家族を引き離すのは、いかがなものか?このような疑問を抱かれる方が間違いなく出てくる。
しかし、時として「国家主権」が「人権よりも優先される場合」がある。例えば、国家防衛戦争の際に、「基本的人権の尊重を最優先し、命令に従わない兵士の権利を認める」などとしたらどうなるのか?あるいは大災害時、被災地以外の人権を過度に保護し、必要な物資が被災地に届かない、などということが許されるのであろうか?
また、パンデミックなどの場合に、通常の人権なら認められる「外出の自由」が制限されるのは当り前であろう。
当然、有事には有事の法が必要とされるのである。
有事には平時と異なるほうが必要とされる。この概念こそが、現状我が国における憲法開戦の課題の一つである「緊急事態条項」であり、これは「人権の制限」が盛り込まれるものである。残念ながら現在の議論は、衆議院議員の任期についての議論が目立つが、そのようなものは、はっきりいってどうでもよい話でしかない。このようなどうでもよいような話が主たるものっと捉えるのが我が国戦後の特徴であるが、その戦後を乗り越える。これが「憲法改正」の主目的である以上、逃げてはならない。
この辺りは、説明すれば国民のほとんどは理解してくれるものと思う。何を恐れて誤魔化そうとしているのか?私はそれは政治家の「国民不信」故であろうと思うが、そのことが国民の政治不信につながる。ということを忘れている。
政治家・国民の不信の連鎖は「独裁」を生むのである。(民主主義政体の中で)
なぜこのようなことを書くのか?
と言えば
拉致問題が真剣に浮上した場合に、「拉致被害者は北朝鮮で新たな生活基盤を築いている、その家族をバラバラにすることは人権侵害ではないか?必ずこのような声が上がってくると思われるからである。
しかし、拉致被害者の奪還は、「国家意思」であることを明確に示さなければならない時には、「人権は一定程度制限される」これが「国家主権」であり、それは「今後二度とこのぴょうな犯罪行為が起きないように。つまり将来の日本人を守るための行為なのである。
そこに「拉致被害者は帰国を望んでいない」などという声に左右されないことが重要であることを私はここで示しているし、その「奪還すること」これが国家安全保障という政府の存在意義である。
「政府の存在意義」
ここまで考えた上で、「拉致問題」について多くの方々に考えていただきたいのである。
文責 上田 和哉