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第二次世界大戦中に
ナチスドイツと米国にあり、わが国にはなかったものは何か? この問いに正解される方はどれくらいいるのであろうか? 答えは「民族差別」による「強制収容所」である。 ナチスドイツによる強制収容所に関しては、アウシュビッツなどがつとに有名であり、600万人ともいわれるユダヤ人が強制的に生活の場を奪われ、ガス室に送り込まれ虐殺されたことはほとんどの方がご存じであろう。 そのような悲劇に見舞われることになる隠遁生活を描いた少女の日記「アンネの日記」は今でも、多くの方々に読み継がれている。 それと同様に、戦時下、米国は「日系人を砂漠の中などに作られた「強制収容所」に生活の場を奪い、送り込んだのである。 いや「戦時下」しかも「適性国民」なのだから、ナチスドイツのような虐殺は行われなかったのだから、それは非常措置としてありうるのではないか? そのように考えられる方もおられるかもしれない。(その前にわが国には捕虜収容所はあったが強制収容所はなかった。ということは押さえておいてもらいたい。) ならば、第二次世界大戦下、「ドイツ系国民」に対する強制収容所は米国内に存在したのか? 答えは「NO」である。 この事実に、向き合っていただきたい。 米国は、移民と奴隷とそれらの子孫で構成される国(彼らは、そこに入植者という存在を加えて考えるらしいが)である。今でも世論調査などでは「何系米国人なのか?」を回答する欄があるらしい。米国内では、昔「ルーツ」などというテレビドラマがはやったように、今でも自分は何者なのか?を問われることが少なくないのである。(このあたりは、日本人には理解できない点である。) この「何系米国人」という言葉自体が、第二次世界大戦を戦ったことによって、「自分たちは、何系であっても米国人である」という意識が強くなったからのであるが。。。 ちなみにオバマ前大統領は、黒人ではあるが、奴隷の末裔ではなく、「アフリカ系米国人」と称すべき方である。 日系人部隊が、第二次世界大戦の欧州戦線において、輝かしい勲功を挙げたように、「米国人」という意識が強くなった時期である。 「米国人である」というアイデンティティーが根付いた時期である。 (この第二次世界大戦に黒人が米国軍人として従事したことが、後の黒人解放運動にいかなる影響を与えたのか?この第二次世界大戦の戦時ポスターに白人と黒人の兵士がともに映っているものがある。そのポスターは、何を意図したものなのか?) 我が国で戦時ポスターを「軍国主義」で戦意高揚に利用したという声rがあろうが、米国でもそこには何らかの意図があるのであって、我が国だけがというのはバランス感覚に欠ける。 では、米国人にとってそれ以前ない 何が「アイデンティティーの中心を担っていたのか?」「今なにを中心に置いているのか?」 米国を知るためには、重要なテーマであろう。 「WASP」 「共和制」 「州政府」(これに関しては、以前、書かせていただいたことがあるが、今でも州政府が決めることとされていることは少なくない。米国にとって「州」は我が国の「県」のような存在ではない。だからこそ、「州知事」出身の方が多く大統領に選出される。 「文化」(その源流はなにか?) などを考えてみるとよいかもしれない。 これらにはかなり共通した根っこがあるが、我々にはなかなか理解しがたいが「米国」を理解するのには役立つものと言えるだろう。 また外国人労働者をこれまで以上に積極的に受け入れようとする際に、欧州の例とともに、こ米国の例をも参考に、「我が国とは何か」「祖国日本とは」を改めて考えてみるきっかけともしてもらいたい。 我が国などに多くみられる「領土意識」「郷土意識」が希薄であること(少なからず、最近は増加していると思われるが)は米国の一つの特徴でもあろう。 そもそも「先住民」に銃で殺害し、か略奪を繰り返し(当初は有効化関係もあったらしいのだが)、東海岸から西海岸、ハワイへと次々に領土を拡大させている。(ハワイの略奪は私のブログで書いたことがあるが、まあ狡猾というよりも、残忍そのものであるといってよい)このような時期、米国人は土地を離れ、新たな土地へと向かっていった方が多い。「郷土意識」とというものが希薄であるのはそのためであろうし、そのような米国だからこそ沖縄返還はなされたのであろうと思う。 「沖縄返還」できたのだから「北方領土返還」も容易に実現すると考えるのは、米国人とロシア人の民族的違いを意識しない、という点もあるが、米国はすべて国際標準などと考えるためであろう。 民族にはその特性があるのである。 「北方領土返還」はロシアがあの広大な土地を持ちながら(世界一の面積を、これもまたコサックなどから土地を奪い続けてきた結果なのだが、「活用できる面積」は小さい。さらに港に関して言えば「不凍港」というのは少ない。以前にもこのブログでしるしたと思うが、国後、択捉というのは、北海道の北部よりもやや暖かく、凍らない港なのである。 ロシア人は「領土」を奪い、そして固執している民族である。 これは最低限の知識として知っておくべきであろう。 (一部の土地を失えば、次々と要求してくる可能性のある土地が多い。というのはこの意識を作っているものと思う。) では、米国にはそのような返還を要求されるような土地が全くないのか? 実は可能性としてある地はある。それはメキシコから奪った土地であり、現状米国におけるスパニッシュへの警戒感は、そのあたりの微妙なことが影響しているのかもしれない。 米国の「土地に関する意識」にはカウボーイ気質からくるもの、守るが、固執するものではない。とされる意見もある。 少なくとも、「沖縄返還」当時の米国人は、米国沖縄を手放しても、そのほかの土地に影響は及ばない。こう信じられてきたことは間違いはない。) 閑話休題 我が国から、というより、アジアからの移民が制限されていた頃、米国は全く移民を受け入れなかったのか?といえばそうではない。そのころ欧州からの移民は受け入れているのである。独系。北欧系はその中でも多いとみられる。 だからこそ「独系米国人」に対する「強制収容所」なるものはなかったのであろう。と思われる。 大東亜戦争の遠因が、「人種偏見」「人種差別」に根差したものであることは、我々は決して忘れてはならないのであって、「我が国だけが、努力すれば、あの戦争は避けられた。などというのは、大きな誤りでしかない。米国の無理解というよりも「人種差別政策」(米国内で黒人に選挙権が与えられたのは大東亜戦争終了後かなりたっての話である。わが国では、戦前女性には選挙権がなかったなどと、わが国は如何にも遅れているかのような主張が蔓延っているが、米国内における「人種差別」による選挙権の制限は、当たり前のようになされていたことを知っておくべきであろう。 だからこそ、我が国はもっと人種差別、人種偏見に対しての感度をあげるとともに、自らが行うようなことがないようにしなければならないものと思う。我が国の先人達はどれだけ苦労したのか、知るべきであろう。 ちなみに、我が国は遅れた国だと思われる方も多いのは、「現在」と「過去」を比較するからであって(これを比較対象と呼べるのかどうか?疑問である。比較した場合遅れているのは当り前であろう。例えば。携帯電話の普及率を三十年前と今とを比較すれば、圧倒的に遅れているのは当り前である。だが、では米国の普及率は当時どれほどだったのか?我が国と比較すれば、高かったではあろうが、いまのわが国の普及率と比較すれば、圧倒的に遅れていることになる)、当時の各国の事情と比較するという視点を持たなければならない。 大日本帝国憲法いわゆる明治憲法を恐るべき遅れたものと、非難される方々がおられるが、では制定当時、英国からどのようにみられたのか? 「予算を国会で決める」(今では当たり前のことだが)そのような国とはとてもではないが付き合えない。(国民に予算を決定させるような先進的行為は信じがたい。ということなのだが)と言われていたのである。 「日系人強制収容」 これは「人種偏見」「人種差別」以外その理由は見当たらない。これは許されざる「国家犯罪」なのである。(そしてナチスドイツの例で言えば、時効はないことになる。 わが国では、巧妙なプロパガンダにより、戦後の日独を比較し、「独国は謝罪し続けているのに、わが国はそうではない」このように思い込まされている方もおられようが、独国において謝罪し続けているのは「戦争」に対して、ではなく、ユダヤ人虐殺についてなのである。 ここもまた、わが国民は誤解というか、知らされていないからなのだが、我が国とナチスドイツの負け方は違う。独国においてはヒトラーが殺され、国家を統治する政府が孫ざあいしなかった。「国家を代表して、負けたと宣言する主体がなかったのである。それはまさに「国家の無条件降伏」と言えるだろう。 従って、戦勝国は、野蛮この上ないが独国内で「私刑」をしようが、何をしてもかまわないことになる。(勿論そのよう虐待を行えば、その後の統治は極めて困難になるだけであり、そのような手法は取らないのは当然であろう) 我が国は「ポツダム宣言」という降伏条件を政府が呑み、しかも、唯一の留保条件として「天皇大権」を掲げて、閣議で「敗戦」を決し(聖断によるものではあるが)、スイスを通じて受諾を宣言している、そしてミズーリ号における降伏文書署名も「大日本国政府」並びに「大日本帝国陸海軍」の名が記されている。 大東亜戦争を始めたのも終結させたのも、。同じ政府なのである。 (この事実によって、八月革命説などが嘘でしかないことがわかる) そのポツダム宣言に、我が国の国家としての「無条件降伏」というものはない。 「無条件降伏」と記されているのは、「陸海軍」つまりは武装解除せよということであり、古今東西敗戦国が武装解除を迫られた例は、過去の例から見て珍しいことではない。 従って、本来ならば、戦勝国もまた「ぱつダム宣言」に従う義務を負うはずなのだが、彼らは、日本国民に対して「日本は無条件降伏した」と宣伝した。これはプロパガンダである。 だから、わが国では、今でも「無条件降伏した」と考えられる方もおられる。 ま百歩譲って「ポツダム宣言」は戦争終結条件ではない。とする意見を取り入れたとしても、我が国は「天皇大権」についての条件を提示している。映画「日本のいちばん長い日」の中でも多くの時間を割いてこのあたりの事情は語られている。) 米国からの返答「いわゆるsubject toの解釈となる)を了とし、我が国の敗戦に至る。 この「ポツダム宣言」というものが、いかにも曖昧であり(だからこそ、鈴木内閣は黙殺とした。。これは本来「ノーコメント」と訳すべきものであるが、欧米などはこれを「NO」と断じた。このポツダム宣言には、天皇大権に触れるべきという元駐日本大使の意見もあったが、これを敢えて却下したのは、、「原爆投下」を確実なものとするためであったといわれている。(そうこれを、受諾することはない。との前提で出された文書であることは明らかである。 大東亜戦争開戦を決定づけた「ハルノート」にしても、国務長官ハル自体が、日本が呑まない。と考え、陸軍長官に「あとは君たちの仕事だ」などと語っていることから見て、「ハルノート」が戦争を決定づけるものという認識が米国に強かった。つまりは米国は「避戦」より「決戦」を決意したものとみてよいであろう。「最後通牒」ではなかった、(そのような文書形態はとられていないから当たり前なのだが、米国が、日本に最初の一発目を撃たせるきっかけとする。意図をもって出されたのである。 そしてこの「ハルノート」にはソ連が「日本の軍事力をソ連に向かわせない」ため、日米の血栓が重要という思惑が強く働いていたし、「暫定協定案」から「ハルノート」に切り替わる約一日、英国(これまた米国の欧州参戦を望んでいる)シナ(米国との戦争となればシナ戦線は、日本軍の優位にはならない)という思惑が絡んでいることもまた。われわれは知っておくべkぃであろう。 「外交は狡知なり」 こう思わせるような事実の数々が、米国内で見られる。のである。 我が国が、「ハルノート」を「ポツダム宣言」を出されて直後受け入れれば、我が国は戦争に至らなかったし、また少なくとも「原爆被害」だけは免れた。などと考える方はおられると思う。しかし、米国は、ルーズベルトは、トルーマンは、「日本との回線をきっかけに欧州大戦への参加を」を「「大戦後の米国の地位を優位にするため、膨大な予算が使用せぬまま無駄にしたという国民からの非難を避けるためにも「原爆投下」を必要と考えていたのである。 トルーマンは、ポーランドを餌にして(ポーランドへのソ連の侵略黙認するということである)ソ連の日本への開戦の日取りを知る。(ソ連参戦となれば、日本は降伏しかねないからである。そして、またソ連参戦は、数日遅れていたはずなのだが、原爆投下を見て日程を早めて、宣戦布告することになる) ワルシャワの悲劇は、なぜ起きたのか? を考えてもらいたい。 ヤルタ密約をはじめ、国際社会、外交、諜報工作の現実、冷徹さを知らずして、理想論ばかり(ましてや自虐論から我が国だけが悪かった、などと考え、語るのは幼稚でしかない。(この幼稚とは馬鹿だというものではなく、物事の本質を理解しようとしないという意味である。) 米国における「日系人の強制収容所」この存在を米国は認め、かなりたってから、「収容者」に謝罪と賠償を行うことになる。 イスラム教徒への迫害に近い扱いに、これら系強制収容所問題にかかわられた方々の多くが参加していることも知っておいていただきたい。 彼らは、自らの名誉回復も当然であるが、米国が再び過ちを犯さないことを願ってでもあったのである。 その「日系人強制収容所問題」に深くかかわられた方がいる。 として、昨日付産経新聞記事をご紹介しよう。 あまりにも前ふり(しかもあまりに多くの事柄を詰め込みすぎてしまった)が長すぎてしまったとは思うが、この記事は、このくらいの知識があった後に読むほうが奥深いものと思うのでご勘弁願いたい。 私は「米国人はけしからん」 そのような意図をもって書いているわけではないことはご理解いただきたい。 ただ、我が国が戦前犯罪国家であったかのように考えておられる方には良薬にはなるものと思う。 「犯罪国家」は日本か?米国か? というつまらぬクイズとすれば、答えは明らかなのである。 日本だけが犯罪国家であったかのような印象だけは是非とも払拭したい。 そう願うだけである。 2018.8.28 23:17 「1人で歴史変えた」日系女性 米の強制収容めぐり勝訴導く資料発見 7月死去のアイコ・ハージッグ・ヨシナガさん 戦時中の日系人強制収容の不当性を裁判で訴えたフレッド・コレマツ氏(左端)、ゴードン・ヒラバヤシ氏(左から2番目)らとともに、強制収容をめぐる集団損害賠償訴訟の審問があった米ワシントンの連邦最高裁判所前に立つアイコ・ハージッグ・ヨシナガさん(右から2人目)=1987年4月20日(全米日系人博物館提供、ハンナ・トミコ・ホルムズさん寄贈) 戦時中の日系人強制収容の不当性を裁判で訴えたフレッド・コレマツ氏(左端)、ゴードン・ヒラバヤシ氏(左から2番目)らとともに、強制収容をめぐる集団損害賠償訴訟の審問があった米ワシントンの連邦最高裁判所前に立つアイコ・ハージッグ・ヨシナガさん(右から2人目)=1987年4月20日(全米日系人博物館提供、ハンナ・トミコ・ホルムズさん寄贈) 【ロサンゼルス=住井亨介】先の大戦時の強制収容をめぐり、米政府が日系人に謝罪、補償した「市民の自由法(強制収容補償法)」成立に貢献した日系人活動家に、アイコ・ハージッグ・ヨシナガさんがいる。強制収容の不当性をめぐる法廷闘争を勝利に導く資料を発見し、日系人の名誉回復に道を開いたヨシナガさんは、謝罪から30年目に当たる今年、7月18日に93歳で鬼籍に入ったが、その死を惜しむ声はなおも続いている。 ■主婦から転身 生前のインタビューや関係者などによると、ヨシナガさんはカリフォルニア州サクラメント生まれの日系2世で、父母は熊本からの移民だった。高校生だった1941年12月に旧日本軍による真珠湾攻撃があり、同州のマンザナー収容所に送られた。 戦後は各地を転々とし、2回の離婚を経験。ニューヨークで女手一つで3人の子供を育てた。公民権運動とベトナム反戦運動が盛り上がった60年代後半には、日系人が中心となった政治団体に参加。自らが経験した日系人強制収容や人種差別について疑問を深めていった。 当時からの友人で全米日系人博物館の首席学芸員、カレン・L・イシズカさんは「本当にはっきりものを言う人で、政治的にもとても活動的だった」と振り返る。反アパルトヘイト(人種隔離)政策運動でカーター米元大統領の娘とともに当局に身柄を拘束されたこともあったという。 ヨシナガさんは3度目の結婚で首都ワシントンへ移り住んだのを機に、疑問を追い求めるように国立公文書館で強制収容に関する調査に没頭。集めた資料は最終的に3万3000件以上にも上った。 ■画期的発見 「最初は自分たち家族の収容所での記録を見つけるため、公文書館に通い始めた」(ヨシナガさんの論文から)という調査は、収容手続きの不当性や名誉回復を訴えて最高裁まで争い、44年に敗訴していたフレッド・コレマツ氏の再審訴訟を勝利に導く発見につながった。 敗訴の根拠となったのが、西海岸からの日本人・日系人立ち退きを指示した陸軍・西部防衛司令部長官、ジョン・L・デウィット中将の報告書。原本版には「(日系人が米国に)忠誠か不忠誠かは見極められない」などとする人種差別に基づく表現があり、陸軍省などの指示で55カ所も書き換えられた報告書が公表されていた。 原本版10部のうち9部は廃棄処分されたが、ヨシナガさんは82年秋、公文書館の職員の机の上に置かれた原本版の1部を見つける。「(立ち退きを)政府は軍事的に必要だとしていたが、人種差別によるものだったことを証明した」(イシズカさん)もので、翌年のサンフランシスコ連邦地裁での再審勝訴、他の同様訴訟2件の勝利につながった。 優れた調査能力から連邦議会の「戦時市民転住収容に関する委員会(CWRIC)」に雇用され、「(強制収容の原因は)人種的偏見、戦時中の集団ヒステリー、政治指導者の失策」とする報告書の作成にも貢献。日系米国人への謝罪と補償金支払いを盛り込み、レーガン政権下の88年に成立した「市民の自由法」へとつながった。 「ヨシナガさんの偉大なところは、たった一人で歴史を変えられることを証明したことだ」 先の大戦中の日系人部隊の活躍を伝える「ゴー・フォー・ブローク全米教育センター」のミッチ・マキ館長(57)はこう語りつつ、ヨシナガさんの功績が米国社会全体に与えた影響を指摘する。 「米国は謝罪によって国としての強さや、法の下での正義、平等について責任を示すことになった。これは日系人だけでなく米国人全体にとって非常に大きなことなのだ」 ■日系人の強制収容 旧日本軍が米ハワイ・真珠湾を攻撃した翌年の1942年、日系米国人は「敵性外国人」とされ、全米日系人博物館によると、西海岸から約12万人が10カ所の収容所に送られた。70年代後半から「リドレス(国家賠償請求)運動」が活発化。強制収容した日系人に対する米政府の謝罪、賠償金支払いを定めた「市民の自由法」は88年8月10日、当時のレーガン大統領が「不当な人種差別だった」として署名、成立した。 以上産経ニュースより引用 アイコ・ハージッグ・ヨシナガさんのご冥福を改めて祈る。 そして感謝したい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.08.30 12:50:05
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